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日本新聞業界の左半分、三アカ新聞を筆頭とする「朝日グループ」が、昨年末の「特定秘密保護法案反対(*1)」キャンペーンに引き続き、今度は「集団的自衛権行使容認反対」キャンペーンを実施しており(*2)、その先頭に立つのが「長期連載社説」と言う近年まれに見る(*3)力の入れようの毎日新聞である事は、その「長期連載社説」の一部紹介(*4)ともども、弊ブログの記事にもした処。
その長期連載社説は未だ継続中なのだが・・・なんだいこれは?
<注釈>
(*1) そう言えば、「言論が委縮する」だの、「戦争へ近づく」だのと、同法案反対論者はかますびしかったが、今回の「集団的自衛権行使容認反対」キャンペーンを見る限り、少なくとも「言論は委縮していない」とは言えそうだ。まだ、「特定秘密保護法 執行前だから」と、言い訳は付きそうだが。(*2) その「集団的自衛権」議論に、法理的に妙なところがあるとは、「ぬくぬく」様からコメントある処だが。(*3) 比肩しうるのは、東京新聞の「反原発」連載社説ぐらいか。連載期間では、毎日の方が圧倒的だが。ま、説得力は私(ZERO)の見る処、良い勝負かな。(*4) 及び、かなり強烈な批判。「痛烈」であるか否かは、読者の判断に任せよう。
【毎日社説】:視点 集団的自衛権「普通の国」論
http://mainichi.jp/opinion/news/20140620k0000m070180000c.html
毎日新聞 2014年06月20日 02時30分(最終更新 06月20日 14時40分)
◇「特殊な国」ではダメか
【1】 安倍晋三政権が昨年暮れから進めていることは、総じていえば外交・安全保障政策における「普通の国」路線である。国家安全保障会議(NSC)設置、特定秘密保護法制定。そして今回の集団的自衛権の行使容認で完成体にしようというのか。【2】 普通の国論議が声高になったのは、1991年の湾岸戦争以来である。あの時多国籍軍が侵略者であるイラクを制裁、その際に日本が武力行使に参加できず、お金だけでしか貢献できなかった特殊な国としての屈辱がトラウマ化したものだった。
【3】 ところで、この間議論してわかったことは、特殊な国の背骨は、憲法9条という条文の強力な規範力(あるべき姿を強制する力)にある、ということだ。
【4】 9条の「戦争放棄」(1項)、「戦力不保持」(2項)をどう読んでも、武力行使として許されるのはぎりぎり個別的自衛権止まりであろう。その証拠に歴代首相も内閣法制局も、他衛権たる集団的自衛権については一貫して封じ込んできた。
【5】 自公政権は、そこに風穴をあけようとしている。59年の砂川判決や72年の政府見解の中で集団的自衛権が必ずしも全否定されているわけではない、との脆弱(ぜいじゃく)な理屈を根拠に、具体的にどういう事例をその行使の対象にするか、線引きを実施中だ。
【6】 国民はこの政治過程の本質が事例を限定することではなく、穴をあけることにあると直感的に気づいている。アリの一穴とでもいおうか、この種の穴が際限なく広がるのは歴史の教えるところだ。9条が規範力をそがれ、ある意味無力化していくことも覚悟しなければならない。
【7】 失うものが二つあるだろう。
【8】 第一に、「大東亜戦争の遺産」(故上山春平京大名誉教授)を失う。上山氏は9条成立の背景を、大西洋憲章(41年)、ポツダム宣言(45年)、極東委員会対日管理政策(47年)という非戦モラルの高い国際的協定と300万人の犠牲者を出した日本国民の選択(国会議決)という極めて特殊な状況下で作成された国際的文書と位置づけた。
【9】 第二に、この規範力は節目にその役目を果たし日本を武力行使の誘惑から救ってきた。湾岸戦争だけではない。99年周辺事態法での後方地域支援への限定、2003年イラク特措法の非戦闘地域限定しかり、である。論説委員・倉重篤郎)
【10】 遺産という古くて新しい視点。国民の血税である経済支援が本当に評価されなかったのかという検証。加えて外交能力の向上など別手法での対応がまだ考え尽くされたわけではない。これで特殊な国としての生き様を捨てるのはいかにも惜しい。(
「泣き言」と言うより「暴論」に近いな
さて、如何だろうか…と、問いかけるだけ虚しいな。
「特殊な国としての生き様」パラグラフ【10】だぁ?一体誰が、何が、我が国が「特殊な国」として「生き続け、生き延びられる」と保証すると言うのか。
直接的な武力行使は朝鮮戦争のときただ一度の実績しかない国連か?
「特殊な国としての生き様」パラグラフ【10】だぁ?一体誰が、何が、我が国が「特殊な国」として「生き続け、生き延びられる」と保証すると言うのか。
直接的な武力行使は朝鮮戦争のときただ一度の実績しかない国連か?
その国連の国連憲章は集団的自衛権を認めていると言うのに、集団的自衛権行使を「憲法で認めない」特殊な国・日本の「特殊さ」も「国としての存続」も、どうして「保障してくれる」なんて考えられるのか。また、どうやって保障してくれると想像するのか?
現状我が国の安全保障を相当部分頼っているアメリカか?「特殊な国としての日本」がアメリカにとって利益ならば、それもあり得よう。なんたって「集団的自衛権の行使を憲法上認めない」日本と、あろう事か軍事同盟を組んでいる国だ。だが、冷戦が終結した上に、「世界の警官」の地位を降りようとしているアメリカにとって「特殊な国・日本」は利益ではあるまい。
ああ、中国共産党政権は、日本の集団的自衛権行使容認に対し悪罵に近い批判を投げつけているな。なるほど中国共産党にとって「集団的自衛権の行使を憲法上認めない特殊な国」・日本は利益であろう。尖閣諸島から沖縄まで「核心的利益」と称する侵略宣言を為し、我が領土主権を簒奪しようと虎視眈々と狙う中国共産党にとっては、な。だが、そんな中国共産党は「日本の特殊性」は保障するだろうが、「国としての存続」は保障しない。それどころか、一部か全部かは議論の余地はあろうとも「日本国を奪う」意図がある事に異論は無さそうだぞ。
況や、そんな腑抜けて間抜けで平和ボケ丸出しの「特殊な国としての生きざま」を「捨てるのはいかにも惜しい。」と言うのだから、如何に宗教・考え方の違う毎日新聞が相手とはいえ、「正気を疑う」と評せざるを得ないぞ。
さらには、パラグラフ【8】。故上山春平京大名誉教授。日本国憲法9条を「大東亜戦争の遺産」とは、正に噴飯ものだ。大東亜戦争を擬人化したならば(*1)、きっと泣くぞ。「八紘一宇」「五族共和」「東亜侵略百年の、野望を此処に覆す」をキャッチフレーズとした大東亜戦争が、「全世界でも希少で近隣近在では唯一の無防備宣言」とも言い得る「日本国憲法9条」を「遺産だ」などと言われては、少なくとも迷惑至極であろう。
「大東亜戦争300万人の犠牲者」の方は、意見の分かれる処かも知れない。所詮死人に口は無く、死者の声を聴くのは生者の耳だ。耳によっては「大東亜戦争300万人の犠牲者の声」が「日本国憲法9条」と結びつくこともあろうさ。だが、先述の通り「近隣近在では唯一の無防備宣言」に対して「大東亜戦争300万人の犠牲者」が賛同するなんざぁ、私(zero)には全く思えない。
つまり、私(zero)の耳に聞こえる「大東亜戦争300万人の犠牲者」の声は「日本国の主権・自存・自立を護れ!」ではあっても「日本国憲法9条を守れ!」では無い。たとえ日本国憲法9条を今すぐ即座に廃止したとて「大東亜戦争300万人の犠牲者」に対し、恥じる処は一点も無い。
従って「日本国憲法9条」を「大東亜戦争の遺産」と公言出来る輩は、余程「耳が悪い」のはまだしも、相当な間抜けか、他意のある者だろう。まあ、京大名誉教授と言う肩書とて「間抜けでは無い」事は保障しないし「他意の無い」事はもっと保証しないが。
止めは、パラグラフ【9】か。
1〉この(日本国憲法9条の)規範力は節目にその役目を果たし日本を武力行使の誘惑から救ってきた。
…「武力行使の誘惑」と来た。「武力行使」ってのは、ソンナに「魅力的」なのかねぇ。
仮にそうだとして、その「日本国憲法9条救世伝説」を完全に認めたとしても、それは「日本から戦争を仕掛ける事を防いだ」だけで(*2)、「他国から日本に仕掛けてくる戦争」には全く何の役にも立たない。北方領土も竹島も「日本国憲法9条のお蔭で帰って来る」見込みは全く無いし、尖閣諸島を中国が奪取することを「日本国憲法9条で阻止できる」見込みはもっと無い。
馬鹿は死ななきゃ治らないと言うが、ひょっとすると、平和ボケも、かね。
<注釈>
(*1) 「艦これ」では無いのだから、妙齢の女性(尚且つ美女)に擬人化する必要はあるまい。私のイメージは、「チョイと灰汁抜きしてカッコ良くなった東条英機」なんだがね。(*2) 日本国憲法の一条文が「憲法9条」なのだから、日本以外の外国の行動を掣肘下なら吃驚仰天だ。