応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/
【人民日報海外版コラム「望海楼」】でたらめな論理を振りかざす日本の政治家
http://j.people.com.cn/94474/8522698.html
http://j.people.com.cn/94474/8522698.html
.【反論2】
10〉 日本政府が14人のA級戦犯を靖国神社から分祀すれば良いだけのことだ。
11〉しかし日本政府はこれを断固として拒んでいる。
12〉その目的は、戦没者250万人の霊を建前とし、戦争の発動者、戦犯に敬意を示すために他ならない。
さて、この主張は「A級戦犯分祀論」であり、「A級戦犯だけ分祀すれば許してやるぞ」論である。実に俗耳に入り易い論理らしく、先行記事で取り上げた安倍首相靖国参拝を批判する我が国各紙社説でも相当幅を利かせていたし、あろう事かあるまい事か「昭和天皇陛下の御意向」まで担ぎ出される始末だが、さて、中国共産党に対し「A級戦犯分祀」が「靖国問題解決策」であろうか。
確かに上記10〉には「A級戦犯を靖国神社から分祀すれば良いだけのことだ。」と、明確に文言で書いてある。書かれた文書を一言一句読むだけで解釈演繹も許さない教条主義者ならば(*1)「文言として書いてある。故に正しい。」で御終いであろう。だが、チョイと頭冷やして考えるが良い。上掲記事パラグラフ【7】「中国政府と国民は軍国主義者と日本国民を区別し、これまで日本国民に批判の矛先を向けたことは一切ない。」のであるならば、靖国神社へのA級戦犯合祀は中国共産党にとって看過すべからざる一大事の筈である。尚且つ広く知られる通り、A級戦犯が靖国神社に合祀されたのは、大東亜戦争後もA級戦犯死刑執行後も30年程たった1978年であり、それが「朝日新聞の記事によって広く国民の知る処となった」のが1979年である(ウイキペディアより)。
逆に言えば上掲コラムのでたらめな論理(2)に対する「指摘」に基づくならば、「1977年以前の靖国神社にはA級戦犯は合祀されておらず、日本国首相参拝も天皇陛下御親拝も中国共産党にとって何の問題にもならない」筈である。然るにその事が、上掲コラムのでたらめな論理(4):「日本の政治家はこれまで60回以上靖国神社を参拝しているが、中国が抗議を表明したのは1985年以降になってからだ。」に対する「指摘」に隻言半句さえ触れられていないのである。この事は、「1977年以前に中国共産党政権が日本国首相の靖国参拝に抗議しなかった理由」となる、筈であるのに。
無論、上掲人民日報海外版コラムを書いた人民日報記者が極度の健忘症で、記事を推敲した筈の人民日報デスクも鳥インフルエンザか何かで調子が悪くて、見落としただけ、かも知れない。だが、もしそうで無いならば、意味する処は私(ZERO)には自明と思える。
A級戦犯なんてのは、靖国神社参拝批判の為の口実でしかない。
上記10〉の通りA級戦犯分祀を実施した処で、何の解決策にもなりはしない。A級戦犯を分祀した処で千人を超えるB・C級戦犯は合祀されたままであるし、上掲人民日報コラムの中でも「A級戦犯の容疑を受けながら首相となったこと」が「日本軍国主義存続の証拠」と断ぜられている。「A級戦犯の容疑を受けながら首相となった」岸信介は、「容疑だけで不起訴のまま無罪放免された」にも拘らず、だ。
上記10〉「A級戦犯を靖国神社から分祀すれば良いだけ」なんて「A級戦犯分祀論」を「靖国問題解決策」だと信じられるのは、余程の間抜けか、鳩山由紀夫、或いは「日中友好人士」ぐらいであろう。ああ、後二者は、ほぼ同一か(*2)。
<注釈>
(*1) 「ダレ」とは敢えて、言わないが。(*2) 再三繰り返しているが、当ブログで「鳩山由紀夫」と言うのは、人類の英知の及ぶ限り最大級の悪罵である。
【反論1】
13〉 手を血に染めた殺人鬼に対して頭を下げつつ、平和を祈るなど、
14〉世界の一体どこにそんな道理が存在するというのか?
この人民日報主張上掲(1)に対しては、二重の意味で反論出来よう。
一つには、大陸・支那と日本の死生観の相違である。あるいは「日本独自の死生観」と言っても良いのかも知れないが、我が国では基本的に「死んでしまえば仏様」であり、生前の罪科はほぼその死を以って浄化される。「死者に鞭打つ」と言うのは我が国でもある事だが、大概は非難され、否定的な意味を持つ。「悪人正機説」はかなり意味が違うが、「死して後尚罪科を問われる・糾弾される」なんてのは、殆ど例が無い。墓を暴いて遺骨に鞭打つような、大陸とは違うのである。
逆に死後「祟り」を為し、悪行を為して、逆に神として祀られてしまう事例は、平将門、菅原道真はじめとして、希有ではあるがいくつかある。今の処東条英機首相(当時)にせよ、他のA級戦犯諸氏にせよ、「祟りを為した」とは聞かないまま既に死後70年近く経つのだから、「東条神社」が全国に祀られる事は無さそうではあるが、菅原道真が「学問の神様」に収まって、受験生の守護神となっているように、「東条神社(仮称)」が出来たとしても、相当に「平和的な神様」に収まるのではないか、と予想する。ああ、平将門は、ちょっと違うか。
何れにせよ、神として祀らぬまでも(*1)、死を以って罪科は消滅するのが我が国だ。況や、刑死に於いてをや。
逆に死後「祟り」を為し、悪行を為して、逆に神として祀られてしまう事例は、平将門、菅原道真はじめとして、希有ではあるがいくつかある。今の処東条英機首相(当時)にせよ、他のA級戦犯諸氏にせよ、「祟りを為した」とは聞かないまま既に死後70年近く経つのだから、「東条神社」が全国に祀られる事は無さそうではあるが、菅原道真が「学問の神様」に収まって、受験生の守護神となっているように、「東条神社(仮称)」が出来たとしても、相当に「平和的な神様」に収まるのではないか、と予想する。ああ、平将門は、ちょっと違うか。
何れにせよ、神として祀らぬまでも(*1)、死を以って罪科は消滅するのが我が国だ。況や、刑死に於いてをや。
これは、我が国の精神的風土である。大陸とは違う。靖国神社に参拝しようが、或いは上記で論じた「東条神社(仮称)」にお参りしようが、「手を血に染めた殺人鬼に対し頭を下げ」た事には日本ではならないし、その参拝で「平和を祈る」道理が、日本には厳然として存在する。将門神社はその格好の例であろう。
もう一つには、靖国神社に合祀されている「A級戦犯」に対する評価の相違である。なるほど「A級戦犯」は、所謂「東京裁判」に於いて「平和に対する罪」だの「人道に対する罪」だのによって「有罪」とされ、結果絞首刑に処された訳であるが、その「A級戦犯」は上記1〉「手を血に染めた殺人鬼」なのであろうか【Q1-1】。もしそう断ずるならば、その理由は何か?【Q1-2】
「侵略戦争を起こし、多くの人をその戦争で死に至らしめたから」であろうか。であるならば、「侵略戦争」とは、何を以って断ぜられるのか?【Q1-3】
大東亜戦争当時の極東は大半が欧米列強の植民地であった。大陸は支那は、国民党と共産党が合作したり内戦したり、贔屓目に見て混沌状態。その極東を「大日本帝国が大東亜共栄圏として植民地化した」と解釈したとしても、その戦争の相当部分は「欧米列強との植民地争奪戦」でしかない。大陸・支那とて独立国とは到底言われまい。ならば、「大日本帝国が大東亜共栄圏として植民地化した」とて、それは「侵略戦争」であろうか。
大東亜戦争当時の極東は大半が欧米列強の植民地であった。大陸は支那は、国民党と共産党が合作したり内戦したり、贔屓目に見て混沌状態。その極東を「大日本帝国が大東亜共栄圏として植民地化した」と解釈したとしても、その戦争の相当部分は「欧米列強との植民地争奪戦」でしかない。大陸・支那とて独立国とは到底言われまい。ならば、「大日本帝国が大東亜共栄圏として植民地化した」とて、それは「侵略戦争」であろうか。
「侵略戦争を起こし、多くの人をその戦争で死に至らしめたから」と言うならば、少々時代は遡るがジンギスカンとその後継者率いる元帝国はどうだ【Q1-4】。
鉄面皮にも大陸・支那ではジンギスカンすら「民族の英雄(*2)」だそうだが、西はウイーン方位から東は元寇=我が国に対する渡洋侵攻まで、ユーラシア大陸を「席捲した」という事は「植民地にしまくった」のであるが、「民族の英雄」ではあっても「A級戦犯」何ぞではトンと無い。それは「東京裁判」がなかったから、か。
鉄面皮にも大陸・支那ではジンギスカンすら「民族の英雄(*2)」だそうだが、西はウイーン方位から東は元寇=我が国に対する渡洋侵攻まで、ユーラシア大陸を「席捲した」という事は「植民地にしまくった」のであるが、「民族の英雄」ではあっても「A級戦犯」何ぞではトンと無い。それは「東京裁判」がなかったから、か。
或いは、「元帝国の時代は、植民地化は侵略では無かった」と言う理屈か。はたまた、「植民地化ではなく、文明の普及である」と言う理屈か。前者であれば「植民地化が侵略とされたのはどの時点か?【Q1-5】」と尋ねるし、「その時点で既に植民地を擁していた(であろう)欧米列強は無罪放免か?【Q1-6】」と尋ねる。後者は相当強烈に恣意的だ。戦争にせよ植民地化にせよ、ある種文化的接触であり影響を相互に及ぼすのだから、「植民地化」と「文明化」の境界は、紙一重よりも薄そうだが、「ここが植民地化と文明化の境界線」と言うのがあるならば、明確に示してみせよ【Q1-7】、と求めよう。我が国の「大東亜共栄圏」と言う「植民地化」が京城大学を帝国大学として設立し、満州飛行機と言う当時としては相当な重工業を設立した事を想起しつつ、な。
私(ZERO)の考えでは、「植民地化が(基本的に)悪い事」となったのは、「人種差別が(やはり基本的に)悪い事」となった大東亜戦争以降。而して前者は未だしも、後者については大東亜戦争自身が相応に与かっている。「有色人種が白人国に植民地争奪戦を仕掛けた」のが大東亜戦争だとしても、だ。「大東亜共栄圏」がスローガン・プロパガンダ以外の何ものでもなかったと仮にしても、そんなスローガン・プロパガンダを掲げて欧米列強に近代戦争を戦った有色人種は、我が日本が初めてであり、当時としては(絶後では無いにしても)空前の事であったことを想起し、指摘する。
左様、私(ZERO)は、大東亜戦争を、少なくとも部分的に肯定している。従ってその大東亜戦争を遂行する上で大役を負った「A級戦犯」諸氏に対し、一定の敬意を抱いている.
無論、大東亜戦争は我が国にとって手痛い損害を伴う敗戦に終わった。その責の相当部分を「A級戦犯」諸氏が負うて居る事も事実だ。だが、我が国敗戦に終わった大東亜戦争後の世界は、「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「五族共和」などの「戦時中のスローガン・プロパガンダ」を、ある程度実現した世界ではないか?その実現に、大東亜戦争と我が国の敗戦は、貢献していないだろうか?
この大東亜戦争「肯定」論に於いて、私(ZERO)と中国共産党が真面に議論できるとは思わない。従って上記「もう一つには…」以降の議論・主張は「徒に日中関係を損なうだけ」かも知れない。
だが、「もう一つには…」以前の議論・主張は、中国共産党張りの「A級戦犯=極悪人論」且つ「大東亜戦争=侵略戦争」と言う立場に立っても、変わる事は無い。
所詮宗教的な問題だ。神学論争になるのはある程度致し方なかろうが・・・
我が国は、大陸とも異なれば、欧米キリスト教世界とも、当然異なるのだよ。
言うなれば「論理が異なる」訳だが…それにしても上掲人民日報コラムは、随分と「でたらめ」だねぇ。
<注釈>
(*1) 「普通の人間」と言って悪ければ「生身の人間」が「神」になってしまうのだから、一神教徒にとっては驚天動地の驚きだろうが。(*2) 笑止だな。ジンギスカンはモンゴル族ではあっても漢族では無い。漢族からモンゴル族まで五十六族ひっくるめて「大中華民族」なんて概念もあるそうだが…法螺と言うより、ホラーだな。