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俗に「恋は盲目」などと言う。「惚れてしまえば、痘痕も笑窪」と言うのもほぼ同義語で、要は恋愛感情によって恋愛対象に対する評価が客観的・冷静なものでは無くなる喩。さあればこそ、古今東西恋愛を題材にした文学・詩歌・舞踊・演劇は数知れず、近代に入ってからは映画やTV番組・動画などにもなっている(*1)。「恋愛感情による判断基準の無力化」が、かくも普遍的にみられる以上、何かを至尊至高のモノに祀り上げてしまう「原理主義」には理屈も論理も通じないのはやはり「普遍的」であり「古今東西を問わぬモノ」と考えてしかるべき、なのかも知れない。
それにしても、下掲琉球新報と毎日新聞の脱原発原理主義と来たら・・・
<注釈>
(*1) 映画やTV番組、動画を作成できる技術が発達し、普及するまでは、そんなものは出来ない。当然だな。
.①【琉球新報社説】エネ基本計画素案 「脱原発」を捨て去るな2013年12月9日
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-216428-storytopic-11.html
.②【毎日社説】:新エネルギー計画 原発回帰は許されない
新エネルギー計画 原発回帰は許されない
毎日新聞 2013年12月10日 02時30分
http://mainichi.jp/opinion/news/20131210k0000m070099000c.html
.脱原発論と原発推進論の上位には
さて、如何だろうか。
再三繰り返す通り、東京新聞や朝日、上掲毎日新聞や沖縄二紙の「脱原発論」を私(ZERO)が「脱原発原理主義」と断じ、糾弾するのは、「脱原発を至尊至高の原理に祀り上げ、目的化しているから」だ。脱原発にせよ、逆に原発推進にせよ、再生可能エネルギー推進にせよ、何れも「エネルギー政策の一手段、一方策」であり、断じて目的化されるべきモノでは無い。脱原発にせよ原発推進にせよ、原発政策は手段であり、戦術であり、下位にある。上位であり、戦略であり、目的であるのはエネルギー政策だ。而して、エネルギー政策とは何をすべきものかと言うと、これはもうただ一言「電力の安定供給」に尽きる。見通せる将来にわたって、大凡今後百年ほどにわたって、これは変わりそうにない(*1)。ここで言う「安定供給」と言うのには「安価に供給」と言うのを含んでいる。
<注釈>
(*1) 電気とは別の形のエネルギー伝達形態が一般化し、電気を代替するまでは。SF的には重力とか水流。現実的には都市ガス、高温蒸気等が「電気とは異なるエネルギー伝達形態」として想定できるが、「電気を代替する」見通しは、全く無い。
.世論でエネルギー政策は決まるのか?
では、その原発政策の上位にあるエネルギー政策は、世論やら「国民の声」やらで、決定できるだろうか。決せられるべきだろうか。章題にもした処だが、上掲①琉球新報社説は「国民世論」、上掲②毎日社説は「国民の声」を盾に、何れも民主党政権が(一応)まとめた(*1)「革新的エネルギー・環境戦略」の主旨「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する」を「覆すな!」と主張している。
②1〉 前政権の政策は半年以上にわたる審議会での議論やさまざまな国民的議論を踏まえて決められた。
②2〉簡単にほごにすることは認められない。
②2〉簡単にほごにすることは認められない。
とまで、上掲②毎日社説は持ち上げる始末だから、全く原理主義者と言うのは度し難い。「あらゆる政策資源を投入する」のならば、それこそ完全電力配給制にして「発電した分だけしか電力消費させない」社会主義体制裸足の「統制経済」さえ可能だ。「2030年代に原発稼働ゼロを可能とする」ためならば、そんな強権体制も必要になりそうだが、とてもそんな状態を「電力の安定供給」とは言われまい。「2030年代に原発稼働ゼロを可能とする」ために、そんな社会主義体制裸足の強権体制が必要か否かには、議論の余地がある。だが、前民主党政権が定めだ「革新的エネルギー・環境戦略」の問題点は、そんな強権体制を取る可能性さえ示しつつ、「2030年代に原発稼働ゼロを可能とする」事と「電力の安定供給」を如何に両立するかを全く示していない事である。言い換えれば「革新的エネルギー・環境戦略」は、「エネルギー政策」と呼ぶに価しないという事である。如何に「国民的議論を踏まえ」ようが「半年以上にわたる審議会」を経ようが、エネルギー政策として無価値である事に変わりは無い。何が上記②2〉「簡単にほごにすることは認められない。」ものか。そんな評価は、脱原発原理主義者しか出来はしない。
無論、「脱原発を7割だか8割だかが支持!」なんて世論調査結果が出て来る以上、世論が上掲琉球新報社説や毎日社説張りの「脱原発原理主義」に陥っている可能性は、あるだろう。従って、「民意に従い民主的に」民主党が定めた「革新的エネルギー・環境戦略」を支持し、確定させることも出来そうだ。上掲琉球新報社説及び毎日社説の主張通りに。
くどい様だが、世論で政策を定めると言うのは、ある意味「民主的」な決定法だ。だが、それは、果たして正しいか?
極単純に言ってしまえば、「原発も怖いし、二酸化炭素排出も嫌だから、太陽光や風力の様な再生可能な自然エネルギーで、電力を安価に安定供給し、自由に電力を使わせろ。」と要求し要望するのが、「世論」であり、「民意」では無いか?少なくとも、「あなたは脱原発に賛成ですか、反対ですか」程度の断片的な質問から浮かび上がってくる「世論/民意」(*2)は。
無論、そんな要望・要求は発電原理から不可能である。にも拘らず「2030年代に」「あらゆる政策資源を投入する」等の空手形(*3)で「世論/民意に阿る」事が、政党・政治家には可能だ。民主党、小泉元首相、「未来の」党など、そんな「民主的なエネルギー政策決定者」が数多居るのは、琉球新報や毎日新聞には(*4)心強い処だろう。
では、我が国のエネルギー政策は、「世論/民意に阿って」「民主的」に決定すべきであろうか?正に小泉元首相が「原発ゼロ」を主張するように?
上掲琉球新報社説及び毎日社説は、この問いに全力でYES!と答えている。舷自民党政権・安倍内閣に対して要請までしている。
だが、エネルギー政策の本来を考えれば、「電力安定供給の目途が無ければ、エネルギー政策と呼ぶに価しない」事を想起するならば、そんな「民主的」ではあるかも知れないが無責任な事は、出来よう筈が無い。
言い換えるならば、エネルギー政策が電力の安定供給を目的としている以上、それを阻害するような世論/民意は無視するべきであり、その意味では「非民主的」であるべきだ。
忘れてはいけないな。「世論/民意に従いました」と言うのは、議会として議員としては極めて無責任である事を。「世論/民意で議決が出来る」”直接民主制”ならば、議会も議員も不要なのだから。
<注釈>
(*1) 普天間基地の移設先について、政府案どころか民主党案さえ纏められなかった民主党政権だから、「まとめた」だけでも見つけモノだ。(*2) 「あなたは、我が国のエネルギー政策をどうすべきと考えますか?」ならまだしも。それでも、回答者一人一人が真面に「電力の安定供給」を考えるかは、心許ないどころではないが。(*3) 2030年代に民主党が政権与党の座どころか、政党として存続しているかすら、怪しい。(*4) それに恐らくは、東京新聞にも
.私の原発推進論&「自然エネルギー推進論」
① エネルギー政策の目的は、見通せる将来に渡って「電力の安定供給」である。電力を電力需要にあわせた必要充分な電力量を停電させずに安価に安定した電圧で給電する事である。
② 現時点においては大容量の電力を蓄電する技術は、無い。精々が揚水式水力発電の上の方のダムに水として蓄える程度である。また、将来的に大容量蓄電技術が確立普及したとしても、蓄電して取り出す電力には必ず損失が付きまとう。
③ 大容量蓄電技術が普及するまで、電力は、必要量に応じて発電し送電しなければならない。
④ 必要に応じて発電できる、制御可能な発電力は、火力、原子力、大分落ちて水力である。
⑤ 「再生可能な自然エネルギー」太陽光、風力、地熱、潮汐力などは、「態と発電しない」ことしか出来ず、原理的に制御不可能な発電力である。これは、発電コストが如何に安くなろうと変わりようが無い。
⑥ 従って、大容量の蓄電技術が普及するまで、「再生可能な自然エネルギー」は発電の主役たり得ない。
⑦ 少なくとも大容量の蓄電技術が普及するまで、発電の主役は、火力、原子力、大分落ちて水力である。これに付け加えられるとすれば、バイオマス火力発電ぐらいである。この中で原子力は、制御のレスポンスが鈍い恨みはあるモノの、比較的狭い敷地で大きな発電量を二酸化炭素排出なしで発電できる利点を持つ。また発電コストとしても、「福島原発事故に対する補償や対策を加味して漸く火力に負けるかも知れない」程度であり、水力に対しては依然優位である。
⑧ 従って、火力と原子力は共に不可欠な発電方式であり、水力以外の「再生可能な自然エネルギー」の発電量は、全体の1割程度とすべきであろう。尚且つ我が国では、水力発電の開発が進んでおり、水力発電の劇的増加は望めない。
⑨ 以上から当然ながら、我が国に原発は不可欠である。我が国の現時点での脱原発なぞ、愚挙にして暴挙である。
⑩ ドイツやベルギーがお気楽に「脱原発」を実施できるのは、電力が足りなければフランスの原発から電力を輸入できるからである。これら西欧諸国の「脱原発」は、「ナンチャッテ脱原発」と呼ばれるべきであろう。