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 先行記事にもした処だが、私(ZERO)はその主張の如何に関わらず「ヘイトスピーチ」なんてものは嫌いだ。「ヘイトスピーチしかしないデモ」なんてのには、軽侮の念しか湧かないし、「デモ参加者の頭の悪さ、レベルの低さを示すモノ」としか思われない。
 さはさりながら、「ヘイトスピーチを、ヘイトスピーチであるが故に規制すべきではない」とも主張し、記事にもしている。これまた「その主張の如何に関わらず」であり、主張に対する非難とヘイトスピーチに対する非難は別次元である、と主張している。

 ○○は死ね!」と連呼しかしないデモは、「○○」が誰であれ「ヘイトスピーチデモ」として非難すべきであり、私(ZERO)はその「頭の悪さ・レベルの低さ」を軽蔑する。
 「○○」が「朝鮮人」とか「支那人」とか「ユダヤ人」とかであれば、そのデモスピーチ(※1)は「差別主義」であるし、「差別主義として非難の対象」たり得るが、それは「ヘイトスピーチデモとしての非難」とは別物だ。
 「○○」が「原発推進論者(※2)」とか「東電社員」とか「福島原発事故被災者(※3)」であっても、やはりこれは「差別主義」であるし、やはり「差別主義として非難の対象」たり得よう。

 而して、その主張が何であれ、差別主義であれヘイトスピーチであれ、或いは反政府的主張や無政府主義であれ、少なくとも平時には原則法的規制すべきではない、と主張する。先行記事にもした通り。ヘイトスピーチを叫ぶ輩は軽蔑しかしないが、ヘイトスピーチを叫ぶ自由は守られるべきだ。

 だが、誤解してもらったは困る。私(ZERO)は、ヘイトスピーチデモを、法的に規制するな。」と言っているだけだ。以下記事に登場するのは、実に賛同どころか称賛に値する「ヘイトスピーチデモ」対策だ。


<注釈>

(※1) 「○○は死ね!と連呼しかしないのならば、それはある種掛け声・シュプレヒコールではあっても、「主張」と呼ぶには値しない。 

(※2) 再三繰り返す通り、私(ZERO)は「福島原発事故を経てなお原発推進論者」と自認・公言しているから、この場合は私(ZERO)自身がヘイトスピーチの対象である。 

(※3) 福島原発事故被災者は死ね!なんて主張は、想像するだに反吐が出そうなほど非人道的であるが、震災瓦礫受入反対」と言う主張は斯様な主張と同根である。 


.【Newsweek コラム】嫌韓デモの現場で見た日本の底力
2013年08月17日(土)14時14分

http://www.newsweekjapan.jp/column/tokyoeye/2013/08/post-715.php

今週のコラムニスト:レジス・アルノー

〔7月30日号掲載〕

 6月30日、私は最近話題になっている嫌韓デモに行ってみた。このデモは東京の新大久保で何年も前から、毎週日曜日に行われているものだ。私は不安を胸に家を出た。自分の身も心配だったが、新大久保の人々のことも、日本の対外イメージのことも心配だった。

実は新大久保はサンフランシスコのチャイナタウンやパリの日本人街と同じような「観光スポット」だ。外国人にとって、新大久保のコリアンタウンを歩くことは伊勢丹新宿店の地階と同じくらい楽しさと驚きに満ちている。伊勢丹が日本がいかに洗練されているかを示しているとすれば、新大久保の街が示しているのは日本が外国人に対してフレンドリーで開かれた国であり、他国の文化が生き生きと存在できる国だということだ。

だがデモのせいで、新大久保は日本が外国人にとっていかに不快な国になり得るかを象徴する場所となった。嫌韓デモの数百人の参加者は自らを愛国者だと考えているのだろうが、実際は日本の力をそいでいるに等しい。憎しみをまき散らすデモ隊の存在を許すのは日本の恥だ。

新大久保で店を営む在日コリアンは、税金を払って日本政府の財政を潤している一方で誰の脅威にもなっていない。だが「朝鮮人を殺せ」と日本人の誰かが言えば、それは日本という国を自ら攻撃していることにほかならない。こうした発言はジャーナリストや一般の人々によって世界中に伝えられると考えていい。そして日本のイメージにも、尖閣問題や東京への五輪誘致における日本の立場にも悪影響を与えるだろう。アメリカやフランスも、外国人居住者や韓国系の自国民をきちんと守れない国の側になど、簡単に立ちはしないはずだ。

私は不安を胸に家を出たと書いたが、帰宅したとき、私の心は喜びに満ちてい
た。在日の人々は決して嫌韓デモの挑発に乗らない。だからこそ約2500人の日本人が彼らを守るために自発的に集まり、嫌韓デモに反対するデモを行っている。また、警察は嫌韓デモ隊が新大久保の中心部に入ることを許さなかった。彼らは自らの任務を果たし、私にはジャーナリストの仕事をすることを許した。

感動の瞬間を何度も目にした。反対デモの人々に「本当にありがとう」とささやいていた在日コリアンの姿もあった。普通のサラリーマンや学生、OLが一緒になって嫌韓デモ隊に立ち向かい、「差別反対!」と叫んでいた。私から見ればこの人たちこそ、真の愛国者だ。彼らは日本の名誉を守っていたのだから。

■健全な民主主義は日本の誇り

このうち1人はフタミさんという法律を学ぶ学生で、以前から嫌韓デモへの抗議活動をしてきた。彼は多くの日本の若者が忘れている政治参加の尊さを身をもって示していた。「最初は10人しかいなくて、警察の車に守ってもらった。それが今では2500人だ」と彼は言う。

警察は非常に緊張していたが、称賛に値する自制心を持って任に当たっていた。そして私の報道の自由も守ってくれた。道路を封鎖していた機動隊に私は、嫌韓デモ隊の話を聞くために非常線を抜けてもいいかと尋ねた。隊員たちは躊躇したが、上官が一喝した。「この人はジャーナリストなんだからすぐに通せ!」

日本の文化の力、外国人居住者をおおらかに受け入れる姿勢、そしてアジアでは特に長く健全な民主主義の歴史は、この国が世界に誇れるものだ。私は新大久保でこのすべてを目の当たりにした。ますます専制的になりつつある中国の隣にあって、民主主義は日本に非常に有利な武器として働くだろう。

6月30日の朝、私は外国人をめぐる状況が悪化したら自分は日本に住み続けられるだろうかと自問しながら家を出た。帰宅したとき、私は3人のわが子が日本国籍を持つことを誇りに思っていた。


Regis Arnaud レジス・アルノー
1971年、フランス生まれ。仏フィガロ紙記者、在日フランス商工会議所機関誌フランス・ジャポン・エコー編集長を務めるかたわら、演劇の企画なども行う。



 
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疑念の余地はあるモノの、真実である事を望む


 さて、如何だろうか。

 極単純に言えば「良い話」であり、「日本を褒めている記事」である。私(ZERO)自身、この記事を読んで、「日本人と生まれた誇り」を改めて感じた。

 この記事でフランス人記者を感動させたのは、嫌韓ヘイトスピーチデモに対する「日本人が彼ら(在日韓国人)を守るために自発的に集まり、嫌韓デモに反対するデモを行っている。」事、即ち「日本人によるカウンターデモ」だ。

1〉 普通のサラリーマンや学生、OLが一緒になって嫌韓デモ隊に立ち向かい、
2〉「差別反対!」と叫んでいた。
3〉 私から見ればこの人たちこそ、真の愛国者だ。彼らは日本の名誉を守っていたのだから。

と言う上掲記事の指摘は正しい。どこぞの社説が主張していたような法的規制=言論弾圧なんぞより遥かに民主的で、スマートな「ヘイトスピーチデモ対策」だ。

 一つだけ疑念があるとすれば・・・ひょっとしてこのカウンターデモ隊参加者が日本人・「普通のサラリーマンや学生、OL」ではなく、「在日朝鮮人・韓国人の自警団」であり、カウンターデモ隊もしくは上掲記事を書いた仏人記者がこれを隠蔽していると言う可能性。これは払拭し難い。

 そうは言っても、上掲記事の通り「日本人によるカウンターデモ」である方が望ましい(※1)し、上掲記事に描かれたデモ規制する警官隊の美事さを疑う理由はなさそうだ。つまりは上掲記事が日本を褒めており、また日本に褒められるだけの価値がある事は、信じて良さそうだ。

4〉 6月30日の朝、私は外国人をめぐる状況が悪化したら自分は日本に住み続けられるだろうかと自問しながら家を出た。
5〉帰宅したとき、私は3人のわが子が日本国籍を持つことを誇りに思っていた。

 上掲記事の〆が真である事を、私(ZERO)も望んでいる。

  反日デモがヘイトスピーチテンコ盛りで、下手すると反日暴動へ拡大し、略奪・放火まではじまる(※2)大陸や半島とは、我が国は違うのだ。

<注釈>

(※1) って事は、「俗耳に入りやすい」という事でもあるが。 

(※2) 通州事件の様な邦人虐殺にまでは至っていない。今の処は。