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まず読者諸兄に尋ねようではないか。
【Q1】「死者を追悼する」とは、如何なる状態を言うか。
この質問に先ず読者なりの回答を出し、出来る事ならそれをメモした上で、以下に掲載する朝日新聞社説及び東京新聞社説を御一読願いたい。私(ZERO)なりの「回答」はその後で。
①【朝日社説】靖国参拝―政教分離を忘れるな 2013/8/13
政治は宗教と切り離されなければならない。それは現代民主主義の鉄則の一つである。
日本の場合、その教訓は、先の大戦と破滅に至る道のりにあった。軍国主義と神道が密着した苦い経験をふまえ、平和国家の原則としてきた。
その歴史に思いをはせるべき終戦記念日に、稲田行革相ら閣僚や自民党幹部が、靖国神社に参拝する意向を示している。
安倍首相は閣僚の参拝を制限しない方針という。今春に麻生副総理ら4閣僚が参拝したときも「英霊に尊崇の念を表するのは当たり前」と述べた。
政治家による15日の参拝が中国や韓国から批判を呼ぶかどうかという問題以前に、私たち自身の戦後の原則を忘れてはならない。
首相や閣僚らの靖国参拝は、憲法の政教分離原則に照らして許されない疑いが強い。
小泉元首相の靖国参拝を違憲と訴えた訴訟で最高裁は06年、原告の請求を退けた。これは訴えの利益を認めず、憲法判断を避けたにすぎない。地裁、高裁では違憲の指摘があった。
憲法は、信教の自由を保障する一方、宗教団体が国から特権を受けることや、国やその機関による宗教的活動、宗教組織への公金支出を禁じている。
それが明記されたのは、戦前・戦中、神道が軍国主義の精神的支柱となり、国のための死を正当化してきたからだ。
とりわけ靖国神社は国家神道の中心的施設だった。戦後は一宗教法人になったが、国のために命を落とした人を神としてまつる宗教施設であることに変わりはない。
国家の要職にある人々が参拝すれば、靖国神社を特別扱いしている印象は免れない。まして大々的に集団で赴くような行為は、政治パフォーマンスといわれても仕方あるまい。
自民党は憲法改正草案で、政教分離に例外をつくろうとしている。「社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない」とし、原則を緩めたい意向だ。
宗教を儀礼や習俗といったあいまいな定義にすり替えて、どんな道をめざすというのか。
もちろん、戦争で亡くなった多くの犠牲者を追悼したいという感情そのものは、遺族や大方の人々の自然な気持ちだろう。
だからこそ、特定の宗教色がなく、誰でもわだかまりなく穏やかに追悼できる場を新設することが論議されてきた。
長く積み残されてきたこの課題に取り組むことこそ、いまの政治家の責務ではないか。
②【東京社説】閣僚が靖国参拝 追悼施設に知恵集めて
2013年8月16日
終戦記念日のきのう、安倍内閣の三閣僚が靖国神社を参拝し、中韓両国の反発をまたも招いた。戦没者を喧騒(けんそう)の中でなく、静かに追悼できる施設の在り方について、知恵を集めるべきではないか。
きのう参拝したのは、稲田朋美行政改革担当相、新藤義孝総務相、古屋圭司拉致問題担当相の三閣僚。安倍晋三首相は第一次内閣時に参拝しなかったことを「痛恨の極み」と語っていたが、きのうは参拝を見送った。慎重な判断をまずは多としたい。
一方、閣僚の参拝について、首相は「私人としての参拝は心の問題であり、自由だ」と、個人の判断に委ねる考えを示した。三閣僚はこれを首相の「お墨付き」と考え、参拝に踏み切ったのだろう。
憲法は信教の自由を認めているが、閣僚の参拝となれば公的立場を伴う。賛否渦巻く中での参拝は見送るべきではなかったか。
戦争の犠牲者、特に、誤った政策判断で戦場に散ることを余儀なくされた戦没者を、命を下した国家、その指導的立場にある者が追悼し、慰霊するのは当然だ。
しかし、靖国神社がその場として、今も適切かどうかは議論が残る。首相の靖国参拝や合祀(ごうし)をめぐる訴訟が起きたり、首相や閣僚の参拝に対する中国、韓国などの反発が、それを表している。
そもそも参拝が批判されているのはアジア諸国に多大な被害を与え、日本を壊滅状態に導いた戦争指導者が、いわゆるA級戦犯として合祀されているからである。
首相や閣僚の靖国参拝を中韓両国などが批判し、これに日本の世論が内政干渉だと反発する。
こんな悪循環はそろそろ断ち切る時機ではないか。国家の指導的立場にある者は、対立の火に油を注ぐのではなく、解決のための知恵を集めるのが役目のはずだ。
その知恵にはいろいろあろう。これまでもA級戦犯分祀論や新たな国立の追悼施設が検討の俎上(そじょう)に上がった。いずれも実現に至ってはいないが、再検討に値する。
その際、沖縄県・摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎(いしじ)」も参考にしたらどうか。国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなったすべての人の氏名を刻んだ県の施設だ。
一九九五年、太平洋戦争・沖縄戦終結五十周年を記念して建立され、犠牲者の追悼施設として定着している。苛烈な地上戦の舞台となり、当時の県民の四分の一が命を失ったとされる沖縄だからこそ、その知恵に学ぶ意義はある。
「無宗教の追悼施設」「A級戦犯分祀」の愚かさ
さて、如何だろうか。
先ずは先行して出した【Q1】の回答(案)から行こう。
【A1】「死者を、生者の如く・居ますが如く扱い、その遺徳・遺功を偲ぶ事」
さて、上記【A1】について根源的な異論があるとは、私(ZERO)には一寸想像できない。「追悼する」とは通常「死者を肯定的に思い出す」であり、「思い出す」以上はある程度「生者の如く・居ますが如く扱う」事になるし、「肯定的に」なのだから、何らかの形で「その遺徳・遺功を偲ぶ」事は不可避だろう。
8月15日と言うと、「終戦記念日」と称される、大東亜戦争に於いて我が国が降伏を決断し、敗れた日である。それと同時に御盆(※1)でもあり、「御先祖様の霊がこの世に里帰りする日」でもある。この8月15日に靖国神社に参拝すると言う事は、靖国神社に祀られた英霊達=死者を追悼する意味がある。この点もまず異論の余地はなさそうだ。であるならば、「8月15日に靖国神社に参拝する事の意味・意義」は、少なくとも一半「英霊達=死者たちを生者の如く・居ますが如く扱い、その遺徳・遺功を偲ぶ事」である。
その「8月15日の靖国神社参拝」の内、「内閣閣僚による靖国神社参拝」について、ああだこうだとかますびしい支那や半島のクレームを受けて、上掲①朝日社説では
①1〉 だからこそ、特定の宗教色がなく、誰でもわだかまりなく穏やかに追悼できる場を新設することが論議されてきた。
①2〉長く積み残されてきたこの課題に取り組むことこそ、いまの政治家の責務ではないか。
と主張し、上掲②東京社説では、
②1〉 これまでもA級戦犯分祀論や新たな国立の追悼施設が検討の俎上(そじょう)に上がった。
②2〉 いずれも実現に至ってはいないが、再検討に値する。
と主張する。
上掲①朝日社説の言う「特定の宗教色がなく、誰でもわだかまりなく穏やかに追悼できる場を新施設」と言うのも、上掲②東京社説の言う「新たな国立の追悼施設」と言うのも、少なくとも「現行の靖国神社ではない新しい追悼施設」であり、まず間違いなく「無宗教・無宗派の追悼施設」である。
で、先行して掲げた設問【Q1】及びその回答(案)【A1】が効いてくる。果たして人類が、「死者を、生者の如く・居ますが如く扱い、その遺徳・遺功を偲ぶ事」を、「無宗教・無宗派」な状態で、実施・実現、さらには継続、出来るだろうか?
「不可能だ」。と私(ZERO)は断じる。「死者を、生者の如く・居ますが如く扱う」のには、何らかの形での霊魂の仮定・想定・信心が必要だ。「英霊」「御先祖様」「精霊」「魂」、呼び方は種々あろうが、何らかの宗教・宗派による事無く「追悼する」なんて、出来る訳が無い。
ああ、「追悼するふり」なら簡単だ。頭を下げるナリ、献花するナリで、「焼香するでも、十字を切るでも、コーランを唱えるでもないから無宗教だ」と主張する事は出来るだろう。だがそれは、「ふり」にしかならない。魂を信じない者や、魂を信じることを禁じる場所で、他に何が出来ようか。
したがって、そんな「新たな追悼施設」は、「誰でもわだかまりなく穏やかに追悼できる場」になぞ、絶対にならない。そこは、「誰も追悼しない場所」になるだけ。「仏作って魂入れず」とは、この事だ。
第一、今やたらにかますびしい大陸や半島の奴バラが、「無宗教・無宗派」にした処で「文句を言わなくなる」なんて、何で期待できるのか。半島なんざぁ、戦前戦後一貫して我が国のNational Ensignである旭日旗に、今頃になってイチャモンを付け出し、大陸は支那がその尻馬に乗っかっていると言うのに、「無宗教・無宗派の新たな追悼施設」が、一時しのぎ以上のものになるもんか。
況や、上掲②東京社説が提案する「A級戦犯分祀論」なぞ論外だ。A級戦犯のみを祀る「第二靖国神社」が存在(※2)するのに、一時しのぎすら期待できようか。
<注釈>
(※1) 御盆が大陸由来の習俗である事は重々承知しているが。我が国に渡来した多くの大陸由来物と同様に、「日本化」し、土着化している。
(※2) 「分祀」とは、そう言う事の筈だ。
英霊を祀ると言う事
さらには、ここが一番肝心な事のように思うのだが・・・
【Q2】日本政府閣僚が、靖国神社に参拝する意義・意味は何か?
【A2】日本政府が英霊達を追悼する事で、国として最低限の敬意を表するため。
「政治パフォーマンスと言われ」様が、或いは昨年夏の前・民主党政権が「全閣僚靖国不参拝(※1)」しようが、これは国としての「人の道」だ。この点、部分的ながらも上掲②社説も認めている処だ。
而して、前述の通り「死者を追悼する」のに無宗教・無宗派という事はあり得ない。「死者を追悼する」以上、宗教が関わるのは当たり前だ。
況や、
①3〉 それ(政教分離)が明記されたのは、戦前・戦中、神道が軍国主義の精神的支柱となり、国のための死を正当化してきたからだ。
①4〉 とりわけ靖国神社は国家神道の中心的施設だった。
①5〉戦後は一宗教法人になったが、国のために命を落とした人を神としてまつる宗教施設であることに変わりはない。
などと、「国のための死」を「不当化」する事が「憲法の政教分離原則の目的」であるならば、そんな憲法ないし憲法解釈の方が間違っている。
国が、「国のための死者」=英霊達に敬意を表するのは、当たり前だ。
国が英霊達に敬意を表さないならば、そんな国のために死を覚悟する者は減り、遂には居なくなってしまうだろう。そうなった国には、亡国以外の道は無い。
「亡国への道を示す憲法」ならば、「間違っている」としか、評しようが無いではないか。
<注釈>
(※1) ああ、こちらは「政治パフォーマンスにはならない」のかね?