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 所詮、新聞記者なんてのは、いい処評論家であって、実施者・実行者ではない。現場に出て取材はしても、当事者では(原則的に)ない。だから、戦場に出ても「審判に徹し、選手になる訳ではない。(※1)」し、政治について言えば政策批評(※2)はしても、対案を出す責任すら無い。その意味で、野党政治家(※3)よりもさらに「気楽な」商売である。

 再三「脱原発原理主値」と断じている東京新聞もまた、そんな「気楽な商売」たる新聞記者だ。この世の森羅万象を記事にして批評はしても、「ならばどうする?」と問い返されない立場にある。だから…こんな荒唐無稽なほど無責任な社説も、平気で掲げてしまえる。


<注釈>

(※1) 映画「グリーンベレー」に登場する、ウイリアム・ホールデン演じる新聞記者は、まさに戦場となった場所にて砲煙弾雨の中、「プレイするのか!審判に徹するのか!?」と兵士に問われ、「プレイに参加」=戦闘に参戦 してしまう。新聞記者としては失格かも知れないが、人間としては正しいのじゃなかろうか。 

(※2)まあ、非難ばかりで、評価することは滅多にないが。 

(※3) 野党政治家は、本来与党の政策を非難するならば、対案を用意するべきである。「本来そうするべき」であって、「実際にそうしない」野党政治家及び野党は、腐るほどある。 



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【東京社説】原発の新規制基準 廃炉時代の始まりに
2013年7月9日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013070902000144.html

  原発の新規制基準は、こう言い換えもできる。正しく運用すれば、物理的にも経済的にも、原発維持は難しくなる、と。日本に廃炉の時代が訪れる。
新しい規制基準は、福島第一原発の重い教訓の上に立つ。
柱は二本。電力会社に過酷事故への対策を義務付けたこと、地震や津波に対する多重の備えを求めたことである。
  3・11以前、原発の過酷事故対策は、法律上の義務ではなく、電力会社の自主的な努力に任されてきた。
◆免震棟がなかったら…
  なぜか。この国では過酷事故など起きず、従って、義務など必要ない-。全国五十基の原発は、まさに“原子力ムラ”という神話の世界で増え続けていた。
新基準は、フィルター付きベントの設置を義務付けた。放射能を取り除くフィルターが付いた排気設備だ。福島の事故では、排気装置はあってもフィルターがなかったために実行がためらわれ、結局は大量の放射能を大気中に拡散させてしまった。
有事の司令塔になる緊急時対策所の設置も初めて盛り込んだ。
二〇〇七年の新潟県中越沖地震の際、東京電力柏崎刈羽原発では、原発建屋内にあった緊急時対策所の扉が地震の衝撃で開かなくなり、肝心なときに使えなかった。
  その経験から福島にも免震重要棟を整備した。東日本大震災のわずか八カ月前のことだった。
  このほか、停電に備える電源車や移動式ポンプ車の配備、燃えにくい電気ケーブルを採用することなどが必要になった。
運用面では、活断層の影響を重視する。重要施設の真下に活断層がある場合、運転を認めないという方針を明確にした。
  安倍晋三首相は「日本の原発は世界一安全です」と胸を張り、原発を世界に売り歩く。
◆安全最優先という魂を
  ところが、例えばフィンランドの場合、一九九〇年代の初めにはもう、フィルター付きベントが整備されていた。チェルノブイリ事故から三年ほど後のことだった。
規制機関の放射線・原子力安全センター(STUK)は半世紀以上の歴史があり、国民から警察以上に信頼されているという。
世界一安全というよりは、これでようやく世界水準に並ぶことができたと考えるべきだろう。
  だが、厳正な規制ほど不合格は出るものだ。正しく適用すれば、増設の坂を上り詰めた原発が、減少へ向かうということもできる。
しかも、原子力規制委員会の田中俊一委員長が言うように、まだメニューがそろっただけだ。
  基準が直ちに安全を保証するわけではない。大切なのは、その基準にどのような魂を入れるかだ。
電力会社が審査の効率化、迅速化を強く要求するのは、ある意味当然だ。しかし、そこで安全文化、安全最優先を貫く意思があってこそ、新基準の魂となるはずだ。
新基準がもたらすものを挙げれば、以下のようになる。
・過酷事故対策にしろ、津波や地震への備えにしろ、膨大な費用がかかる。
・費用は電気料金にはね返る。
・事故の補償は事業者だけで負いきれるものではない。
・安全最優先に徹すれば、政府の支援がない限り、経済的にも自然に淘汰(とうた)されていく。
・不経済な原発から持続可能な再生可能エネルギーへと、日本は切り替えるべき岐路に立つ。
安倍内閣は「規制基準に適合すると認められた原発の再稼働」を成長戦略に明記した。しかし、共同通信が五月半ばに実施した世論調査では、安全が確認された原発を再稼働することに「反対」と答えた人が54%を占めている。
規制委の判断は、もちろん科学に基づくべきだ。だが、再稼働の是非は、国民や地元の意見に十分耳を傾けながら進めるべきである。各地域にはそれぞれの事情がある。原発に代わる経済対策がないままに再稼働へ進むとすれば、住民の不安は募るばかりだろう。
放射能の被害は広く拡散するが、自治体には十分な退避計画もできていない。できるかどうかも分からない。
  日本のエネルギー政策に最も必要なのは、未来の安全と安心だ。
◆次は再生可能エネルギー
  安全と安心の砦(とりで)としての信頼を勝ち取るには、関西電力大飯原発3、4号機のように、電力需要に配慮して、新基準に適合しない恐れがある原発の再稼働を認めるような例外を重ねるべきではない。
  新しい基準の施行を、神話時代から廃炉時代への転換点にすべきである。
  その先には再生可能エネルギーの普及、そして進化という新しいゴールが待っている。

.狂気の沙汰の脱原発原理主義

 さて、如何だろうか。

 なにしろ、以前東京新聞コラムにあった通り(※1)、東京新聞にとって「脱原発」は「新聞社が義務として言わねばならない事」なんだそうだ(※2)。さあればこそ、冒頭から飛ばしてくれる。

1〉 原発の新規制基準は、こう言い換えもできる。
2〉正しく運用すれば、物理的にも経済的にも、原発維持は難しくなる、と。
3〉日本に廃炉の時代が訪れる。

…のっけからなんだろうね、この独断は。それこそまさに、脱原発原理主義の脱原発原理主義たる所以なのだろうが…無理なんだろうが頭冷やせよバカ(※3)。「原発を維持せず、廃炉にする」心算ならば、「原発の新規制基準」なんざそもそも不要であろうし、「原発の新規制基準に適合させる努力・投資」はもっと不要だ。

 兎にも角にも原発の新基準が示され、これに適合するよう努力・投資がなされているという事は、少なくとも各電力会社は原発維持しようとしている、という事。それが「原発の新基準」により「難しくなった」のは事実としても、その困難を乗り越えようとしている、という事だ。

4〉 厳正な規制ほど不合格は出るものだ。
5〉正しく適用すれば、増設の坂を上り詰めた原発が、減少へ向かうということもできる。

と、上掲東京社説は、「原発新基準不合格から廃炉決定へ」と言う期待を滲ませているのだから、いくら脱原発原理主義とは言え、実に酷いものだ。原発維持を期待し、原発の安全性向上に尽力努力する電力会社の労力も資材資金も「新基準不合格」で葬り、廃炉にしろと、主張される。「脱原発」を絶対善視できるが故の冷酷非情さだろう。その事は、以下の部分でさらに明確になる。

6〉  新基準がもたらすものを挙げれば、以下のようになる。

7〉 ・過酷事故対策にしろ、津波や地震への備えにしろ、膨大な費用がかかる。

8〉 ・費用は電気料金にはね返る。

9〉 ・事故の補償は事業者だけで負いきれるものではない。

10〉 ・安全最優先に徹すれば、政府の支援がない限り、経済的にも自然に淘汰(とうた)されていく。

11〉 ・不経済な原発から持続可能な再生可能エネルギーへと、日本は切り替えるべき岐路に立つ。

…ここまで来ると、絶句する他ないな。なるほど東京新聞社説の言うとおり、「原発新基準」を恣意的に適用することで各電力会社の「原発安全性向上努力」を粉砕することはできるだろう。あれこれ難癖をつければ上記7〉の通り「膨大なコストを強いる」事も出来そうだ。だが、それらは、「原発の発電コストアップを強制している」だけで、「持続可能な再生エネルギーのコストを下げている」訳では全くない。即ち、正真正銘掛け値なし「電力料金値上げ圧力」なのである。上記8〉「費用は電気料金にはね返る。」のは、高コストな再生可能エネルギーを「普及」させても起こる事なのだから(※4)。
 「持続可能な再生エネルギー」の内、現状の火力や原発に比肩しうるのは水力ぐらいで、約13円/kwh。発電しない分は貯水量としてためておけるし、発電量は可制御で、レスポンスも速いから、「理想的な持続可能な再生可能エネルギー」なんだが、我が国ではすでに開発利用が進んでいて、現状の「電力需要の1割弱」を担うのがほぼ限界。小口の「小規模水力発電」をかき集めても、全く「原発の代替電源」になんかなりゃしない。
 太陽光、風力はもっとひどい。発電コストが太陽光で42円/kwh(※5)と、火力・原子力よりも高い水力発電のさらに3倍と言う高コスト(※6)もさることながら、設置面積が広大だわ、発電量は制御できないわ(※7)、稼働率は太陽光で1割、風力で2割しかないわ(※8)で、一応発電はするものの、電力供給と言う点では供給不安定要因でもある。上記11〉「切り替えるべき」と力みかえるのは脱原発原理主義ゆえの「原発でなければ何でも良い」と「クリーンな発電と言うイメージ」故ではあろうが…いつものことながら、度し難い。


<注釈


(※2) 同コラムには、「新聞社が義務として言わねばならない事」を後二つ挙げていて、「オスプレイ配備反対」と「消費税値上げ反対」なんだそうな…玉石混淆、糞味噌一緒くた、支離滅裂、と考えるのは、私(ZERO)だけだろうか。 

(※3) もはや、バカとしか言いようがなくなった。 

(※4) ま、実際は、現状のように火力発電フル稼働となるだろうから、二酸化炭素出しまくりだろうが。 

(※5) 発電全量を電力会社に強制買取させている価格。そのうち見直されて、下がるだろうが、それは太陽光発電が商売として成り立ちにくくなる、という事でもある。 

(※6) 即ち、不経済なのは「水力以外の再生可能エネルギーの方」である事には、触れようともせず。