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脱原発原理主義者の恨み節
さて、如何だろうか。
端的に言って、「世界自然保護基金(WWF)の副事務局長などを務めた、ヨルゲン・ランダース氏の近著「2052」(日経BP社)に収録された、識者による未来予測」に力を得て、「脱原発の盛り上がりよもう一度!」と目論む「脱原発原理主義者の繰り言・恨み節」と読めて仕方が無いんだが、如何だろうか。
特に、上掲東京新聞社説の後半は、冒頭で「原発推進に舵(かじ)を切り」と断じた自民党に「原発と共存可能な社会の未来図」を求め、同時に「脱原発や脱原発依存を訴える」自民党以外の政党に「原発なしでも豊かな社会の未来図」を要求し、後者が示されないから、「せっかく盛り上がった脱原発気運がしぼんでしまった」・・・とは断じないまでも、「原発擁護の自民党の跳梁跋扈を許している」と主張していよう。
だが・・・「原発なしでも豊かな社会の未来図」、描けるものなら、描いてもらおうではないか。それは当然、「電力安定需要」だの「原発なしの発電量に合わせた社会」だのの(※1)縮小指向、後退思想、敗北主義では無い…筈だ。あまり当てにならないが。
なにしろ、今まで脱原発を標榜する有象無象の政党から出て来た「原発なしでも豊かな社会の未来図」に通じそうな「革新的エネルギー政策」だの「工程表」だのは、箸にも棒にもかからないものばかり。原発代替電源ひとつまともに定量的に論じる事さえせず(※2)に、ひたすら「原発ゼロ」を唱えるだけだったり、「あらゆる政治資産を投入する」などと言う本末転倒だったり(※3)、未来図も何も空念仏でしかない。
一方、自民党に求められている「原発と共存可能な社会の未来図」なんてのは、見ようによっては簡単だ。それは福島第一原発事故以前に一定レベルで実現していた事。その一端は、上掲東京社説にもある「二〇三〇年に原発比率50%以上(※4)」にも表れている。その状態に原発及び原発事故に対する無知と無関心が寄与しており、福島原発事故後にその無知・無関心がある程度解消し、「条件が変わった」とは言え、少なくとも論理的には、原発に対し安全策を講じることで、「原発と共存可能な社会の未来図」は復元しえよう。
「原発と共存可能な社会」なのだから、原発に対するすべての不安を完全解消する必要は、無い。それどころか、政府が保証すべきは安全であって、安心ではない。「安全に思わない」=「不安がる」事は幾らでも出来る。その「不安」が金になるとなればなおさらで、政府が「安心を保証する」事は、政府に無限責任を負わせ、強請り放題タカリ放題にする、という事だ。
先日施行された、福島原発事故を踏まえての原発新基準は、その一つの答えだ。従来各電力会社に任せていた原発基準を新ため、統一した基準で原発再稼働を審査する。これで原発の安全性を高められることは、疑いようが無い。それで充分か、否かは議論の対象たり得るが、「福島原発事故後に日本の原発は安全性を向上させた」事に、疑念の余地は無い。
これも以前書いたところだが、この世に「絶対安全」なんてものは無い。この世の工業製品は須らく「より安全」の積み重ねで出来ており、航空機も鉄道もプラントも原発もまた然りだ。我が国には新幹線と言う「絶対安全」と言い得るほどの安全性を実現してしまった技術史上の大金字塔があるから、「絶対安全」を信じてしまう「安全神話」を醸造する土壌はあるだろう。だが、本来「絶対安全」なんてものは無く、原発も新幹線も「絶対安全」ではない。
それは福島原発事故以前から、判る人には判っていた事。それが判らない人がいたからこそ「安全神話」が成立したのである。
逆に言えば「原発安全神話が崩れた」とて、そもそも「安全神話」何ぞ信じる奴が「どうかしている」と言える。「電力会社が絶対安全を言い、安全神話を流布した!」との説もあるが、冷静に理系の頭で考えれば、電力会社の言う「絶対安全」が文学的表現・比喩にしか過ぎない事は、殆ど自明だ。
そりゃ世の中、「冷静な理系の頭」の持ち主ばかりではなかろうが、文学的表現・比喩あるいは宣伝文句としての「絶対安全」が、往時の電力会社に許される可きではなかった、とは、福島第一原発事故を経ても思えない。稼働中の原発は安全に稼働停止した。惨事に至ったのは冷却のための電源が喪失し、水素爆発を引き起こしたから。予備電源のディーゼル機関が浸水せず、燃料も確保できていれば、福島原発事故はスリーマイルやチェルノブイリと並び称される事は無かったろう。電力会社が積み重ねてきた「より安全」は、その程度の安全は確保していたのだ。
今、福島原発事故の教訓を踏まえた我々は、さらなる「より安全」を積み重ねる来る。我々は、前進すべきなのだ。
<注釈>
(※1) あるいはもっと極端に、「再生可能エネルギー発電量に合わせた社会」。そんな社会では、多分、電気炉はまともに使えない。
(※2) シェールガス万歳を唱えた小林よしのり氏の「脱原発論」が、まだ真面な方か。
(※3) 再三繰り返す通り、「脱原発」なんてのは、「原発推進」と同じぐらいに、目的ではない。手段だ。「あらゆる政治資産を投入する」様では、手段が自己目的化している。
(※4) それは、鳩山由紀夫の負の遺産の一つ、「二酸化炭素排出量25%削減」の前提条件だった筈。鳩山由紀夫自身はこんなこと覚えているとはとても思えないが、これは「国際公約」だったはずだ。勿論、「鳩山由紀夫の為した国際公約」ではあるが。
【追記1】
上掲東京社説の契機となったらしい「識者による未来予測」に曰く。
1〉 二〇五二年の時点でまだ原子力発電を続けているのは、フランスと中国だけになるだろう-。
もしそうなれば、西ヨーロッパの大半は、現在のドイツと同様に、「フランスの原発に依存しながら、自国は脱原発」と言う「ナンチャッテ脱原発」を実施していることになろう。特に、太陽光発電が全く期待できない夜間は、だ。
我が国や半島となるとサッパリ判らない。我が国が脱原発と言うのは愚挙にして暴挙であるが、そうなってしまう可能性は、残念ながらあるだろう(※1)。半島もトチ狂えば「脱原発」という事もあるかもれない。
だが、
2〉 投資家は原発という古い船を下り、再生可能エネルギーに乗り換える。市場原理が、原発を追い立てる。
と、「再生可能エネルギー」を「原発に代わる有望な投資先」に担ぎ上げているのには、呆れる他ない。そりゃ流行ではあるから、一時的にはバブルともなり得ようが、今の日本で火力や原子力の3倍以上の高値で全発電量強制買い上げになって「ようやく商売成立」の太陽光発電や、そこまで高価ではないが連続的な低周波は免れようが無い(※2)風力では、「発電量が制御不可能」と言う原理的欠陥を免れない。「私の自然エネルギー推進論 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778036.html 」で論じたとおり、水力とバイオマス燃料以外の自然エネルギー発電は、大容量高効率畜放電技術が普及するまで、発電力の主流ではありえない。2052年と言えば約40年後だから、相応に技術の進歩も望めようが、果たして、現時点でコンセプトすらないよな技術が、どこまで実現・普及するモノか。全てが理想的に行って「大容量高効率畜放電技術が普及」したとしても、太陽光や風力発電が必要とする広大な地表面積と絶望的なほどの稼働率の低さ(※3)は、我が国にとって不利であろう。
<注釈>
(※1) なにしろ、先々回の衆院選挙で、憲政史上最多の議席数を以って民主党を政権与党にしてしまった国民なのだから。
(※2) それが人体に影響するか否かは、まだ断言できない。但し、オスプレイのような航空機による「時間制限付きかつ一過性の低周波」よりも、風力発電の持続的低周波の方が、影響はあるだろう。
(※3) 我が国の場合、太陽光で約1割、風力で2割。これは、定格発電量に対する稼働率であるから、技術が進歩しても向上は期待できない。技術の進歩は、主として「必要面積の縮小」になる。 冷たい計算式/推算式シリーズ参照。
【追記2】当該東京社説の意義
上掲東京新聞社説は「2013岐路」と銘打たれており、恐らくは今月下旬の参院選挙に焦点を合わせた「キャンペーン」の一環なのだろう。それ故に、「脱原発原理主義の恨み節」以外にも、上掲東京社説には意義がある。
3〉 自民は原発推進に舵(かじ)を切り、他は脱原発や脱原発依存を訴える。
この冒頭の一文は、以前の東京新聞社説「自民の原発公約 「変節」は見過ごせない 2013年6月21日 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013062102000151.html」を受けたのだろう。が、少なくとも今般参院選挙に於いて「自民党は原発推進」であり、自民党はほぼ唯一の「原発推進」党である(※1)、と東京新聞のお墨付きを頂いた訳だ。
私(ZERO)は、原発推進であるが故に、自民党を支持する。
<注釈>
(※1) 厳密にいうと、「幸福実現党」も原発擁護であるようだが、泡沫政党であるし、数に入れずとも大勢に影響はあるまい。
私の原発推進論&「自然エネルギー推進論」
① エネルギー政策の目的は、見通せる将来に渡って「電力の安定供給」である。電力を電力需要にあわせた必要充分な電力量を停電させずに安価に安定した電圧で給電する事である。
② 現時点においては大容量の電力を蓄電する技術は、無い。精々が揚水式水力発電
の上の方のダムに水として蓄える程度である。また、将来的に大容量蓄電技術が確立普及したとしても、蓄電して取り出す電力には必ず損失が付きまとう。
③ 大容量蓄電技術が普及するまで、電力は、必要量に応じて発電し送電しなければならない。
④ 必要に応じて発電できる、制御可能な発電力は、火力、原子力であり、水力がこれに準じる。
⑤ 「再生可能な自然エネルギー」太陽光、風力、地熱、潮汐力などは、「態と発電しない」ことしか出来ず、原理的に制御不可能な発電力である。これは、発電コストが如何に安くなろうと変わりようが無い。
⑥ 従って、大容量の蓄電技術が普及するまで、「再生可能な自然エネルギー」は発電の主役たり得ない。
⑦ 少なくとも大容量の蓄電技術が普及するまで、発電の主役は、火力、原子力、水力である。これに付け加えられるとすれば、バイオマス火力発電ぐらいである。この中で原子力は、制御のレスポンスが鈍い恨みはあるモノの、比較的狭い敷地で大きな発電量を二酸化炭素排出なしで発電できる利点を持つ。また発電コストとしても、「福島原発事故に対する補償や対策を加味して漸く火力に負けるかも知れない」程度であり、水力に対しては依然優位である。
⑧ 従って、火力と原子力は共に不可欠な発電方であり、水力以外の「再生可能な自然エネルギー」の発電量は、全体の1割程度とすべきであろう。尚且つ我が国では、水力発電の開発が進んでおり、水力発電の劇的増加は望めない。
⑨ 以上から当然ながら、我が国に原発は不可欠である。我が国の現時点での脱原発なぞ、愚挙にして暴挙である。
⑩ ドイツやベルギーがお気楽に「脱原発」を実施できるのは、電力が足りなければフランスの原発から電力を輸入できるからである。これら西欧諸国の「脱原発」は、「ナンチャッテ脱原発」と呼ばれるべきであろう。