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アーサー・C・クラークと言えば、SF作家としては相当老舗だ。何しろ戦前からSF作家だったんだから、イメージとしてはアイザック・アシモフ(※1)と同クラス。「クラーク以上」となると、ジュール・ヴェルヌ(※2)か、海野十三(※3)ぐらいしか思いつかないぐらいの、古い作家だ(※4)。
だが、その創作意欲は相当晩年まで衰えず、アシモフばりの弾幕射撃か絨毯爆撃のような多作(※5)な作家でこそなかったが、概ね年1作と言うペースを守っている、と聞いていていた。
下掲記事で「2008年に90歳で亡くなった(※6)」と初めて知ったと言うのは、我が不覚を恥じる他ないが、下掲記事に於ける1974年のクラークは、モノの美事に「2001年のインターネット社会」を言い当てている。
<注釈>
(※1) ウィキペディアによれば、1920年生まれだから、クラークより二つ年下か。(※2) ウィキペディアに依れば、1828年生まれ。流石に「SFの父」だけあって、古い。(※3) ウィキペディアによれば、1897年生まれ。流石「日本SFの始祖の一人」(※4) 私(Zero)は、SFファンではあるが、SFマニアである心算はない。「心算は無い」だけだが。(※5) 考えるのと同じ速度で英文タイプが出来て、その考える速度が恐ろしく速い。”書くために生まれてきたような人”だったらしい。(※6) と言う事は、クラークは1918年生まれ。
「2001年の社会」を40年前に正確に予言した作家クラーク:動画
http://wired.jp/2013/04/05/tech-time-warp-arthur-c-clarke/
『2001年宇宙の旅』で有名なSF作家アーサー・C・クラークが、1974年に「2001年の社会」を予測したテレビ番組を紹介。
.TEXT BY CADE METZ
TRANSLATION BY SATOMI FUJIWARA/GALILEO
WIRED NEWS (ENGLISH)
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1974年にオーストラリアで放映されたテレビ科学番組「Perspective」で、SF作家アーサー・C・クラークは当時最先端だった巨大なコンピューターセンターの中に立っている。
立派なもみあげのあるリポーターが、巨大なマシンがたてる音を背景にしてクラーク氏に質問する。彼は当時5~6歳だった自分の息子を連れており、この子は2001年にどんな社会に生きているだろうかと尋ねたのだ。
クラーク氏は映画監督のスタンリー・キューブリックとともに、SF映画『2001年宇宙の旅』を1968年に世に送り出していた。
クラーク氏は、この子はインターネット社会に生きるだろうと述べた。ただし、インターネットという言葉を使ったわけではない。このインタヴューは、インターネットが一般的に使われるようになる20年以上前に行われたのだ。
クラーク氏は、21世紀を迎えるころ、彼らの後ろで低い雑音を出している巨大なマシンよりはるかに小さなコンピューターが家庭に入り込み、「日々の生活に必要なありとあらゆる情報、銀行の預金状況や劇場の予約など、複雑な現代社会で毎日を生きていくために必要な情報のすべて」を提供してくれるだろうと語った。
この子はそういった装置を当たり前のようにして生活する。ちょうど電話のように。
「コンピューターのおかげでわれわれは、われわれが望むところにならどこにでも住めるようになるだろう。ビジネスマンも会社の経営者も、地球上のどこにでも住めて、こうした機器を通じて仕事ができる。それはつまり、都市に縛られなくてもよくなるということだ。われわれは田舎でもどこでも好きな場所に暮らしながら、コンピューターだけでなく人間との完全な交流を維持し続けることができる」とクラーク氏は述べた。たしかにわれわれは、どこにいようとも互いにつながっていられるようになった。
いま見ると、1970年代半ばに巨大なコンピューターに囲まれて行われたこのインタヴューは、特に強烈な印象を与える。そこに写っているものは、テープドライヴにパンチカードリーダー、キャビネットほどもあるプリンターなど、クラーク氏が語る未来の家庭用のコンピューター機器とは大きくかけ離れた装置ばかりなのだ。
※クラーク氏が2008年に90歳で亡くなったとき、WIREDでは40年来の友人による長文の弔辞を掲載した(日本語版記事)。同記事では、クラーク氏が1945年に静止軌道に通信衛星を設置する構想を発表し、一般に通信衛星の発明者とされていることなどを紹介している
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SF作家は未来世界の夢を見るか?
さて、如何だろうか。
「未来学」と言うのは、日本では結構人気な「学問」なんだそうだ。10年後、20年後、50年後、100年後の世界・社会を予想・予測する「学問」と言う事になってはいるが、往々にして「予言」に近い「似非学問」ないし「宗教」に堕してしまいがちだ。そんな怪しげな「学問」でも我が国で人気なのは、「未来・将来に対する不安」の故か。或いは逆に「未来・将来に対する希望・願望」の故か。どちらかと言うと、後者であるように私には思われるが、これは私自身が楽観主義者ないし楽観主義者たろうと心がけているが故、かも知れない。
SF作家と言う商売は、必ずしも「未来を描き出す」必要はない。扱うのは必ずしも「人類の未来」ではないから、だ。有名なSF映画「STAR WARS」のイントロは、「A long long time ago, in the Galaxy ,far far away・・・ (昔々、遥か彼方の銀河で・・・)」で始まっているし、「火星シリーズ」の主人公ジョン・カーターは南北戦争に従軍する身でありながら火星に瞬間移動だか、精神移転だかして冒険活劇を繰り広げる(※1)。
しかしながら、SF作家のSF小説がしばしば「未来世界」を扱うのも事実であ、上掲記事のアーサー・C・クラークもまた「2001年宇宙の旅」などで未来世界を扱っているからこそ、上掲記事に登場するインタビュー「この子は2001年にどんな社会に生きているだろうか?」を受けたのだろう。
これに対するクラークの回答は、「未来学者の回答」程には責任も無ければ重みも無い筈だろう。クラークはSF作家であり、科学解説者でもあるが、未来学の学位は持っていないのだから(多分)。
だが、SF作家が予想した「2001年の世界」は・・・
1〉 21世紀を迎えるころ、彼らの後ろで低い雑音を出している巨大なマシンよりはるかに小さなコンピューターが家庭に入り込み、
2〉「日々の生活に必要なありとあらゆる情報、銀行の預金状況や劇場の予約など、複雑な現代社会で毎日を生きていくために必要な情報のすべて」
3〉を提供してくれるだろうと語った。
4〉 この子はそういった装置を当たり前のようにして生活する。ちょうど電話のように。
5〉 「コンピューターのおかげでわれわれは、われわれが望むところにならどこにでも住めるようになるだろう。
6〉 ビジネスマンも会社の経営者も、地球上のどこにでも住めて、こうした機器を通じて仕事ができる。
7〉 それはつまり、都市に縛られなくてもよくなるということだ。
8〉 われわれは田舎でもどこでも好きな場所に暮らしながら、コンピューターだけでなく人間との完全な交流を維持し続けることができる」
…これは、「インターネット」だの「クラウド」だのなんて言葉すらなく、それどころか「個人用の携帯可能なコンピュータ」なんてものは影も形もなく、記事にある通り「テープドライヴにパンチカードリーダー、キャビネットほどもあるプリンター」を装備したコンピュータしか無かった時代に語られた言葉であるから、実に恐るべきは人間の想像力であり、人類の知性であろう。「コンピュータを使えば、大量の情報を処理できるし、通信できる」と言う事までは、上掲記事に登場する「現存(当時)コンピュータ」から既知ではあろう。だが、それが発達して、発展して、上記1〉「小さなコンピューターが家庭に入り込み」から演繹して、上記8〉「われわれは田舎でもどこでも好きな場所に暮らしながら、コンピューターだけでなく人間との完全な交流を維持し続けることができる」まで、結論付けられてしまうのだから。
無論、実際に21世紀を経験している我々は、「都市が無用な長物にはならなかった」事を知っているし、コンピュータが「家庭に入り込む」どころか「常時携帯出来る」所まで小型化した事も知っている。また、そのコンピュータのお蔭で「かつては考えられなかったほど密なコミュニケーションが可能」でありながら、「人間との完全な交流」と言うには程遠いコミュニケーションである事も知っている。つまりは、上掲記事にある「アーサー・C・クラークの未来予測」に対し、「予測以上」である部分も、「予測外れ」の部分も、承知している。
だが、それでも、
「テープドライヴにパンチカードリーダー、キャビネットほどもあるプリンター」を装備したコンピュータから、今日のネット社会を予測して見せた、アーサー・C・クラークには、満腔の敬意を払うべきであろう。
而して、人類の知性と論理的思考が、モノの美事に「未来を言い当てた」好例として、記録されて然る可きだろう。
「ならば、行って我らの正統な遺産を要求しようではないか。
我々の伝統に敗北の概念はない。今日は恒星を、明日は銀河系外星雲を。
我々を止められる力など、この宇宙には存在しないのだ。 」
J・P ホーガン「星を継ぐもの」から、クリス・ダンチェッカー教授の決め台詞
<注釈>
(※1) 「確か」…1冊ぐらいしか読んだ覚えがなく、その記憶もあいまいだ。栗本薫の半ばパロディー「火星の大統領カーター」の方が、未だ覚えている。