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 西部劇=ウエスタン。「アメリカの時代劇」と言えば、当たらずと言えども遠からず、なのではなかろうか。時代にすればおおよそ19世紀のアメリカ西部、未だ「開拓時代」と言い得た頃を舞台にした、銃と馬を必須アイテムとする冒険活劇、と定義できそうなのが「西部劇」であるから、日本の時代劇よりは年代も装備も新しいが(※1)、何しろアメリカ自体が建国以来200年そこそこの若い国なんだから仕方がない。建国も天皇陛下も遡ると「神代の昔」=「有史以前」=「文字による歴史記録以前」に至ってしまう我が国の、主として江戸時代を扱う「時代劇」が「西部劇」のカウンターパートとなってしまうのは、日米の国としての歴史故、だ。

 例えば「西部開拓史」と言う西部劇がある。原題が"How the West was won"。原題を訳せば「如何に西部は征服されたか」であろうが、ビーバーの皮を商う「山男」の時代から、開拓民の入植、果ては南北戦争に至るまでの西部開拓史を、一人の女性の生涯を通じて描き出した、「大河ドラマ的」西部劇であり、まさに大河ドラマ(※2)の如く、「西部開拓通史」を映像化している。西部劇の大御所・ジョン・ウエインでさえシャーマン将軍役とは言え端役にしか過ぎず、主人公でヒロインたる女性(※3)が、Green Sleevesの節に乗せた歌(※4)高らかに、前向きに、ひたむきに生きていく様を描き、エンドタイトルのバックは四方へ発達した高速道路の空中撮影で”How the WEST WAS WON!”と歌いあげる。アメリカ人にとってはまさに一大叙情詩なのであろう(※5)映画だ。つまりはある意味アメリカにとっての「建国伝説」が西部劇、少なくとも映画「西部開拓史」なのだろう。
 

<注釈>

(※1) 急いで付け加えるならば、日本の時代劇でも19世紀を扱ったものある。明治維新以降は「時代劇」と呼び辛くなるが、幕末までは「時代劇」の守備範囲だろう。 

(※2) 私はNHKは嫌いだがNHK大河ドラマが歴史教育に果たした役割はある程度評価している。最近の大河ドラマは、全く見ていないが。 

(※3) エンディングでは何人も孫を持つお婆さんだが 

(※4) 歌詞は違う。確か、元の歌詞は失恋歌だ。 

(※5) と、想像できる 



マカロニ美味いか塩っぱいか


 むろん、西部劇を作るのはアメリカに限らない。有名なところではイタリア製西部劇と言うのが相当にあり、日本ではマカロニウエスタン、アメリカではスパゲッティーウエスタンと呼ばれている。どっちも食い物の名前が冠せられているのは、イタリアらしいという気もするが、「食って美味い」=「観て面白い」かどうかは好き嫌いが分かれるところだろう。

 「イタリアやスペインで撮影されたマカロニウエスタンは、空の色や砂の色がアメリカとは違うから、アメリカ人は白けてしまう」ってのが何処まで本当か私は知らない/判らないが(※1)、マカロニウエスタンのストーリー、主人公が「本場」アメリカの西部劇とは大いに異なる(ことが多い)のは判る。

 アメリカ西部劇の主人公と言えば、典型的なのはジョン・ウエインで、役柄は一言で言えば「豪放磊落」。ストーリーは「勧善懲悪」がお約束。古い西部劇だとこの「悪」として今で言うNative American、当時で言うインディアンないしアメリカインディアンが登場してしまうのは、有色人種の一人としてあまり居心地は良くないが、そこを我慢すれば(※2)、弱きを助け強きを挫く勧善懲悪ものたる「本場アメリカ西部劇」は、「見ていてスカッとする」娯楽映画だ。急いで付け加えるならば、アメリカ西部劇で「懲らしめられる悪」は、ある時期からインディアンではなくなるから、上記のような居心地の悪さはなくなる。

 対してイタリア製西部劇・マカロニウエスタンの主人公は、復讐の念に燃えている事が多く、やたらにしぶといのは良いが、何処か、いやモロに、「影」がある。ストーリーも、復讐劇であっても「勧善懲悪」であると言うよりは、主人公の欲望の肯定で、その欲望は大概、金銭欲だ。
 今ではアメリカ映画の大御所で監督もやっているクリント・イーストウッドも、見た目は結構な優男のジュリアーノ・ジェンマも、勿論鷹を思わせる風貌が(※3)狡猾さと邪悪さを演出するリー・ヴァン・クリーフも、マカロニウエスンの主人公としては欲望ギラギラで復讐の念に燃え、どんな残虐な目に逢っても復讐を遂げ、大金を手に入れ、男臭さと血と汗と硝煙の臭いを振り撒いている。それだけに、マカロニウエスタンは、好き嫌いが分かれる。アメリカの正統派西部劇の様に、「アメリカ人なら(※4)安心して見る事が出来る」様な作品ではなく、女性向け・ファミリー向けではない。成人指定を受けそうな作品も多い。

 無論、例外もある。マカロニウエスタン=イタリア製西部劇ながら、「ミスター・ノーボディー」の主人公は、飄々として捉え所がない。そのくせちゃっかり得るべきものは得る、ある意味サクセスストーリーなんだが、主人公が得るのは名声ではあっても大金ではないし、飄々としている事もあって、殆ど「欲望」を感じさせない。第一、この映画はかなりの部分コメディーで、クライマックス「ワイルドバンチとの決戦」では結構な死者数を出して居るはずだが、そのシーンも含めてあっけらかん(※5)と明るく描いていしまっている(※6)。「主人公に名前が無い/判らない(事もある)」のはマカロニウエスタンの一つの御約束で、今や大御所クリント・イーストウッドも「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」「荒野のストレンジャー」「名無し」のまま主人公を演じている(※7)。「ミスター・ノーボディー」の主人公もまた然りで名前が無い。タイトルになって居るのは、作中主人公が「自分なんぞは雑魚(Nobody)だ。」と卑下するセリフによろう。英語版タイトルも「My Name is Nobody」だから、邦題としては捻りや意訳が少ない方だろう。

  

<注釈>

(※1) 「空の色」?うーん、違うと言えば違う気はするが、天候次第だからなぁ。 

(※2) 後は「暴力を肯定」ってのが、人によっては障害になるんだろうな。お気の毒な事だ。日本で言うと「北斗の拳」や「必殺仕事人」が典型的である処の「暴力による正義の執行」は、フィクションとして楽しむ分には私には何の障害にもならない。 

(※3) それも…禿鷹。いや、結構好きな俳優なんだけどね。 

(※4) 少なくとも、かつてのアメリカ人ならば 

(※5) ヘンリー・フォンダ演じる老ガンマン(副主人公)がレバーアクションライフルの長距離射撃で、次々敵を屠る隣で、主人公が仕留めた数を記録している、とか。 

(※6) ああ、アメリカ映画のコメディーHot Shot2では、「主人公が殺した人数そのもの」をギャグのネタにしてしまっているが。 

(※7) 比較的新しい、アメリカ西部劇「ペイルライダー」でも、「牧師」としか呼ばれず、名前が無い。