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 何に対するモノであれ、「原理主義」と言う奴は度し難いモノである。何しろ
「原理」が金科玉条、最高にして至尊であるから、他のありとあらゆる事は、この原理のために犠牲とされ無視されてしまう。ソリャ「本質的原理」と言うのはそういうものとは言いえようが、そんな「本質的原理」と言うものは、そうそうあるものではない。況や、宗教なんて人間の根幹に関わるものの、それだけに人によって意見・宗派・宗教が分かれて/割れて当たり前、一致したらラッキーなシロモノを、「原理」に祀り上げるなんて言語道断。故に回教だろうがキリスト教だろうが
仏教だろうが、「宗教的原理主義」なんてものは、「原理主義」の中でも特に度し難い。

 だが、事は「脱原発原理主義」に於いても、そう大差はない。

 私に言わせれば「脱原発」なんてのは「エネルギー政策の一方針」でしかない。私は再三繰り返すとおり、福島原発事故を経てなお原発推進論者だが、私の「原発推進」も「脱原発」と同様に「エネルギー政策の一方針」でしかないと認めている。
  だから私は「原発推進原理主義者」ではない。

 敢えて言うならば、「エネルギー政策の目的」は「電力の安定供給」であ
り、「電力を安定供給しない政策は、”エネルギー政策”と呼ぶに値しない」とは断じているから、「電力の安定供給」を「本質的原理」に近いものと考えている事は認める。とは言えやはり原理主義ではないので、「ありとあらゆる犠牲を払って電力の安定供給」とは主張しない。要は、原発も火力も含めて発電手段によるリスクを冷静に、客観的に、定量的に評価して発電手段を配分すべきであり、その際に原発の高い密度で尚且つ制御可能な発電能力は大いに魅力であり、且つ放射能・放射性物質のリスクは、福島原発事故の教訓を反映し、新技術などを以ってさらに低減可能であるから、未だに原発推進論者、なのである。
 ああ、放射性廃棄物について付記するならば、福島原発事故のせいで放射性廃棄物処分の問題が悪化した訳では全くない、と断じてしまおう。注目浴びるようになった、のと、核燃料サイクル技術のハードルが高められた、と言うだけであり、前者は所謂風評被害。後者が「技術的にまだ確立されていない」とは言いえるが、それも福島原発事故があって「技術的ハードルが上がった」訳ではない。技術的ハードルは元のまま。そこを越えようとする費用に対する風当たりが強くなった、だけだ。

 斯様に原発も、脱原発も割り切っている私からすると…脱原発原理主義の朝日社説は可笑しくてならない。

転載開始=========================================
【朝日社説】原子力委員会―脱原発へ新組織を  平成24年11月05日(月)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
国の原子力政策の基本を決めてきた原子力委員会の見直し作業が始まった。

学者を中心とした有識者会議が年内に結論をまとめる。

半世紀にわたり原発推進の中心となってきた組織だ。日本が脱原発を進めていくうえで、原子力委は廃止すべきだという意見もある。

ただ、原子力委は核不拡散も重要な任務としてきた。全廃して、経済産業省や外務省といった関係省庁だけに委ねると、ときの政治状況や役所の思惑に左右されかねない。

原子力規制委員会に統合するアイデアもあるが、規制委は核テロ対策を含む原発の安全性や事故対応に特化している。

ここは、脱原発という方針のもと、広い視野に立って意見を述べる第三者機関として、つくり直すべきではないか。

新組織が担うべきもっとも重要な課題は、プルトニウムの管理と使用済み核燃料の新たな処分策の検討だ。

野田政権は、脱原発を掲げながら使用済み燃料の再処理を続けるとしたため、米国の不信をかった。使用済み燃料から取り出したプルトニウムを利用する先がなくなるのに、どう処分しようと考えているのか、十分に説明できなかったためだ。

日本は、脱原発を進めつつ、核不拡散にはこれまで以上に協力し、責任を果たしていくことを、国際社会に示さなければならない。

それには、再処理―核燃料サイクル事業から撤退する道筋を早く描く必要がある。

新組織は、プルトニウムや放射性廃棄物の処分方法について選択肢や手順を示し、関連する技術や人材の確保でも対策を講じるべきだ。

国際原子力機関(IAEA)との連携や、日米原子力協定の改定作業にも関わる。新組織のなかに、外国の専門家による助言組織を常設すれば、「日本への期待」をより反映する国際性の高い組織になる。

問題は、透明性を確保しながら中立的で専門的な主張ができる運営態勢をどうつくるかだ。

原子力委にも首相への勧告権があるが、1956年の発足以来、一度も発動されていない。なにより電力会社や原子炉メーカーへの依存度が高く、「原子力ムラ」に偏重した運営のあり方が問題になっていた。

必要なデータや情報を官庁や事業者から自由に集められる権限をもたせる。事務局に専門性の高い職員を配置する。実効性ある組織づくりに向け、議論を重ねてもらいたい。


=================================転載完了

宗教の違いとは言え・・・


 さて、如何だろうか。

1〉 日本は、脱原発を進めつつ、核不拡散にはこれまで以上に協力し、責任を果たしていくことを、国際社会に示さなければならない。

 Negative! 否定。



 福島原発事故を契機に「脱原発」に方針転換したのはスイスとドイツぐらい。どちらも発達した欧州送電網のおかげで、足りない電力は外国から輸入できる。特に、フランスの原発は心強かろう。
 対する我が国は島国で、対岸の大陸・半島こそ電力不足で今後原発大量建設が計画されている。その原発大量建設の暁には、対岸の電力は余裕ができるかもしれないが、送電線=パワーラインを海底に敷設して日本海を越えると言うのは非現実的で非効率的だ。つまり、日本にはドイツやスイスのような「お気楽脱原発」「ナンチャッテ脱原発」なんぞ出来ない。
 否。我が国が「脱原発」なぞ、狂気の沙汰だ。




 第一、「脱原発」を標榜する奴バラは、現・民主党政権を含めて、エネルギー政策=「電力の安定供給に目途がある( 先述の通り、「電力の安定供給に目途が無い」政策は「エネルギー政策」ではありえないんだが…民主党の掲げた「革新的エネルギー政策」とやらは、正に「電力安定供給のめどが無い」シロモノだからなぁ。
 ああ、それで「革新的」なのか。ソリャ「確信」犯だな。そのエネルギー政策の「目指した」年代には、民主党なんざ影も形もないと言う寸法だ。 )」エネルギー政策を示した例がない。太陽光は稼働率が13%しかない( 冷たい計算式  )し、風力共々発電量は出来高で、当分の間はロクに畜電も出来ない( 私の「自然エネルギー推進論」―フクシマ後も原発推進の立場から―  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778036.html http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778053.html  http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/35778071.html  )。「再生可能な自然エネルギー」でまともに頼りになるのは水力発電だけだが、今の発電の1割を担う水力を2倍の2割に増やすことですら至難であろう。
 3割を占めていた原発が稼働停止させられて、その肩代わりをしているのは火力だ。小林よしのり氏がその「脱原発論」で挙げる「安価な天然ガス火力発電」は、ほとんど唯一まともな代替発電案であるが、「安価な天然ガス」を入手可能であるアメリカが、スリーマイル島事故以来久しく止めていた新規原発建設を認可した事実( アメリカ前進―アメリカで34年ぶりに原発着工へ http://www.blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36685754.html   )は、「原発が天然ガス火力に対し未だコスト競争力を持つ」事を示している。即ち、小林氏の期待するような、「天然ガス火力による電力コストの価格破壊」は、起きていない。

 であるならば、

2〉 それには、再処理―核燃料サイクル事業から撤退する道筋を早く描く必要がある。

などと言う朝日社説の主張には、失笑を禁じ得ない。「再処理―核燃料サイクル事業から撤退」した国がいくつかあるのは事実だが、そ奴らは酸素魚雷の開発からも撤退してしまった奴バラではないか。参考にし、以って他山の石とするのは良いが、追従ばかりしていては、独自技術なぞ出来るものかよ。

 ま、脱原発原理主義なんて「宗教」から出発すれば、こんな程度だろうが、ね。