「義務として言わねばならない事」の正当性
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次に、上記①~③「義務として言わねばならない事」の妥当性・正当性を考察してみよう。
上記③「オスプレイ沖縄配備反対」が一番わかりやすい。何しろ、
9〉 事故が頻発する垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを「世界一危険」として返還が決まった沖縄の米海兵隊普天間飛行場になぜ配備するのか。
と問うているのだから、「オスプレイは危険な欠陥機だから沖縄配備反対」と主張して居ると考えるほかない。オスプレイの配備は5年前から始まっている米軍正式兵器であり、これが「危険な欠陥機」であるならば、オスプレイ墜落の危険に今現在既に曝されて居るのはオスプレイのパイロットや搭乗員たる米軍人と、すでに配備されている沖縄以外の米軍基地周辺住民だ。尚且つ「オスプレイ沖縄配備反対」が成就して、沖縄にオスプレイが配備されないことになったとしても、米軍人や沖縄以外でオスプレイが配備される基地周辺住民がオスプレイ墜落の危険にさらされる事には全く変わりがない。
即ち「危険な欠陥機オスプレイ」に対して、「欠陥除去による安全性向上」ではなく、「飛行運用製造停止」でもなく、ただ「沖縄配備反対」を唱えると言う事は、「米軍人や沖縄以外の基地周辺住民がオスプレイ墜落事故でいくら死のうが知った事ではない。」と言う宣言・断言・公言に他ならない。
かかる非人道的な主張を、東京新聞は「義務として言うべき事」の一つに挙げている訳だ。
その非人道的な主張を「義務として言うべき事」とする以上、東京新聞は「オスプレイ配備阻止原理主義」でもあると、言われるべきだろう。
上記②「脱原発」については言わずもがな、だ
8〉 原子力発電もそうです。いったん事故が起これば取り返しがつかないのに、この暑い夏を「原発ゼロ」で乗り切れたのに、なぜ原発維持の選択肢が生き残るのか。
と言うが、チェルノブイリ事故と違って誰も直接放射線では死んでいない福島原発事故の「取り返しがつかない」被害の相当部分は風評被害であり(*1)、そんな風評被害を含めて昨年試算された発電コストは未だ「原子力発電は火力発電と同等以下の低コスト」を誇っている。
この暑い夏を「原発ゼロ」で乗り越えたのは、火力発電をフル稼働して燃料食わせまくったからで、その燃料代は電力料金として跳ね返っている。「電力料金値上げ位、原発ゼロならば国民は許容する」と東京新聞は主張しているし、世論調査もそれを裏付けてはいるが、経済界がこぞって「原発ゼロ」に難色を示すのは、そんな「世論」よりも電力コストに敏感な「経営者の視点」故だろう。即ち、「原発ゼロによる電力料金値上げを、国民が許容したとしても、経営者は許容できない」のであり、この「国民世論と経営者感覚の乖離」が意味するところは、「原発ゼロによる電力料金アップは企業の海外流出=産業空洞化を招くだろう」と言う事だ。
故に、「我が国で脱原発などと言うのは、愚挙にして暴挙である。」と言うのがまさに「言わなければならない事」である筈だが…これはまあ、東京新聞とは宗教が違う異教徒たる私の意見だ。以前から脱原発原理主義を標榜している(*2)東京新聞としては、無条件に「言わなければならない」事なのだろう。少なくとも「火力発電所をフル稼働し、電力料金が上がろうが、脱原発さえ為せるのならば為すべきだ」と主張する上記8〉の主張は私にはまったく理解できなければ、納得も出来ない。故に「東京新聞は、上記②「脱原発」を言うべき事と位置付けているが、理由は判然としない」としか評しようがなく、やっぱり「脱原発原理主義者は度し難い」としか言いようがない。
以上から東京新聞は、脱原発原理主義であるばかりでなく、オスプレイ配備阻止原理主義であると、宣言して居る訳だ。「オスプレイ配備阻止」と「脱原発」が事象として独立であるのは、原理主義者にとって幸いな事だな。
上記①「消費税増税反対」は、ほかの主張に比べると玉虫色だ。上記3〉~6〉にある通り、「民主党マニュフェスト違反」から説き起こし、「社会保障の抜本改革見送り」「政府や国会の無駄」を指摘し、解散総選挙を求めつつ、「一票の格差」を指摘して「国会の不作為」を嘆くのみ。取りようによっては「言わなければならない事」は「国会の不作為」の方で「消費税増税反対」ではない、とも解釈しうるぐらいだ。即ち「消費税増税反対」ではなく「消費税増税を決めた手続き上の不備に反対している」との解釈だ。後者の解釈であれば、この主張は「正統的な正論」と言う事になる。
だが、「民主党のマニュフェスト違反」は消費税増税法案に限らないし(*3)、「政府や国会の無駄」を言い続ければ未来永劫「消費税増税」なんて実施できないだろうから、これはやはり「手続き」よりも「消費税ぞのものへの反対」と解釈すべきだろう。
だが、そう解釈すると、上記3〉~7〉で当該社説が挙げている「消費税増税法案反対理由」が「政府や国会の無駄」を除くと「手続き上の不備」ばかりであるため「なぜ消費税増税に反対するのか」がさっぱりわからない。「義務として言わねばならない事」とは即ち「原理」であるから、その説明は省略しても構わない、と原理主義者ならば納得もしようが、私は消費税反対原理主義者ではないし、能う限り「原理主義」なんて思考の硬直は回避しようと努めている者だから(*4)サッパリわからない。
唯一判るのは…「東京新聞は消費税反対原理主義者らしい」と言う事だ。
以上をまとめると・・・桐生悠々記者に「真の記者魂」を見、敬意を表する事には私も同意する。
だが、桐生悠々の言う「犠牲を払ってでも義務として言わねばならない事」の現代版として東京新聞が選定した3つの事①「消費税反対」②「脱原発」③「オスプレイ配備反対」は何れも原理主義に基づく不可解・不条理なものである。その上、それらを主張することで東京新聞が払う犠牲と言うのはほとんど無視しうるほどのものであるから、「真の記者魂」などと言うものとは程遠い。
寧ろ、東京新聞が「言わねばならない事」と称する上記①~③は、大衆迎合的であり、これらの主張により利益を得ることを目論む日和見主義・大衆迎合主義と見なせる。
これで「桐生悠々の”志”を受け継ぐ」と抜かすのだから、泉下の桐生悠々は呆れ返って居ると思うぞ。
<注釈>
(*1) ついでに言うならば、震災再瓦礫処理反対を含むそうした風評被害の一翼を、東京新聞はじめとする脱原発原理主義者が担っているんだ。意識する、しないに関わらず。(*2) 無論、東京新聞自身がそう公言して居る訳ではないが。(*3) それどころか、マニュフェスト通りなのは、「事業仕分けの実施(ただし、効果は期待の半分もなし)」と「インド洋上給油の中断」と…後は目玉商品の「子ども手当」は半額実施なのが漸く挙げられる程度。(*4) とは言え、神ならぬ身の人が為す事。完全完璧なんぞ、目指すべきではあっても、期待すべきではない、と考えている。