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東京新聞と言うと、「脱原発原理主義」として再三当ブログでも記事にしたところ。
ところが、今回の社説では、東京新聞は「脱原発原理主義」以上の何かになってしまったらしい。
まあ、東京新聞社説が「逝っている」と感じたのは今回が初めてではないし、一度や二度ではないのだが・・・・まずは問題の東京新聞社説。篤とご照覧あれ。
転載開始=========================================
【東京新聞社説】週のはじめに考える 言わねばならないこと
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012090902000116.html
2012年9月9日
桐生悠々という新聞記者がいました。権力や軍部を痛烈に批判した気骨の人です。大勢に流されず、本質を見極める姿勢は今こそ必要とされています。
一八七三(明治六)年、金沢に生まれた桐生悠々(本名・政次)は東京帝国大学を卒業した後、新聞社を渡り歩きました。本紙を発行する中日新聞社の前身の一つである新愛知新聞や、長野県の信濃毎日新聞などでは主筆を務め、晩年を名古屋で過ごします。
その報道、論説の特長は「言わねばならないこと」を書く姿勢を貫いたことにありました。
◆気骨の人、桐生悠々
悠々が健筆を振るった明治後期から昭和初期は、発展途上にあった政党政治が、軍部の台頭で衰退していく時代です。
騒然とした中、悠々の論説は、海外にまで視野を広げた豊富な知識に基づいて藩閥政治家、官僚、軍部の横暴を痛撃します。
例えば一九一八(大正七)年、富山県魚津から全国に広がった米騒動。米価の暴騰は当時の寺内内閣の無策が原因だったにもかかわらず、政府はその責任を新聞に転嫁し、騒動に関する報道を禁止します。憤った悠々は、八月十六日付新愛知社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執ります。
「現内閣の如(ごと)く無知無能なる内閣はなかった。彼らは米価の暴騰が如何(いか)に国民生活を脅かしつつあるかを知らず、これに対して根本的な救済法を講ぜず、…食糧騒擾(そうじょう)の責を一にこれが報道の責に任じつつある新聞紙に嫁し…」
悠々は、寺内内閣を厳しく断罪し、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立ちました。寺内内閣への批判は全国に広まり、ついに総辞職に追い込まれます。
時は流れて信毎時代、三三(昭和八)年八月十一日付の評論「関東防空大演習を嗤(わら)う」です。
◆無意味な想定嗤う
掲載の前々日から行われていた陸軍の防空演習は、敵機を東京上空で迎え撃つことを想定していました。悠々は、すべてを撃ち落とすことはできず、撃ち漏らした敵機が爆弾を投下し、木造家屋が多い東京を「一挙に焦土たらしめるだろう」と指摘します。
悠々の見立ての正しさは、その後、東京をはじめとする主要都市が焦土と化した太平洋戦争の惨禍を見れば明らかですが、この評論は軍部の怒りや在郷軍人会の新聞不買運動を招き、悠々は信毎を追われます。
守山町(現名古屋市守山区)に戻った悠々は、「他山の石」という個人誌を発行して糊口(ここう)をしのぎます。軍部、権力への旺盛な批判はやみません。
悠々は他山の石に「言いたいこと」と「言わねばならないこと」と区別すべきだとして、「言いたいことを言うのは、権利の行使」だが、「言わねばならないことを言うのは義務の履行」であり、「義務の履行は多くの場合、犠牲を伴う」と書き残しています。
たびたび発行禁止、削除処分を受けながらも軍部、権力批判を続けた悠々から学ぶべきは、強者の言い分をうのみにせず、自らの知識と判断力でその非を指摘する使命感の強さです。真の記者魂と言い換えていいのかもしれません。
平成の世の日本にも、言わねばならないことは満ちています。
まずは消費税増税。民主党政権にとってはそもそも公約違反であり、それでも強行するのは民主主義を危うくします。
社会保障と税の「一体」改革と言いながら、社会保障の抜本改革は見送られ、増税だけが決まりました。政府や国会の無駄もほとんど削られないままです。速やかに衆院を解散して国民に増税の是非を問うべきなのに、その前に必要な衆院「一票の格差」是正は与野党対立で手付かずです。国会の不作為と言わずして何と言う。
原子力発電もそうです。いったん事故が起これば取り返しがつかないのに、この暑い夏を「原発ゼロ」で乗り切れたのに、なぜ原発維持の選択肢が生き残るのか。
事故が頻発する垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを「世界一危険」として返還が決まった沖縄の米海兵隊普天間飛行場になぜ配備するのか。沖縄県民に過重な負担を強いることで成り立つ日米安全保障条約は不平等ではないか。
私たちの新聞にとって、これらは「言いたいこと」ではなく「言わねばならないこと」です。
◆「志」を受け継いで
悠々は七十一年前のあす九月十日、太平洋戦争の開戦を見ることなく六十八歳で亡くなりました。
歴史に「たら」「れば」は無意味ですが、悠々だったら今の日本を見て、何と論評するでしょう。
碩学(せきがく)の先輩には及ぶべくもありませんが、言わねばならないことを言う志と気概は、私たちが受け継ぎたいと考えているのです。
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それで”「志」受け継いで”とは、片腹痛い
さて如何だろうか。
改めて強調するまでもないだろうが、当該社説の半分以上は「桐生悠々という新聞記者」に対する賞賛である。
1〉 その報道、論説の特長は「言わねばならないこと」を書く姿勢を貫いたことにありました。
として「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」と言う寺内内閣を断罪する社説と「関東防空大演習を嗤(わら)う」と言う防空演習の虚しさを指摘する評論を取り上げ、如何に軍部、権力への批判を貫いたかを述べ、「言いたい事」と「言わねばならない事」を区別し、「言わねばならない事」を犠牲を払ってでも言った姿勢を「真の記者魂」として称賛している。
実のところ、ここまでの「桐生悠々礼賛」は、私も首肯できる所なのだ。私は当該社説で初めて「桐生悠々という新聞記者」を知ったぐらいだし、「関東防空大演習を嗤(わら)う」には同意できない点も多々ありそうだが(*1)、「「言いたい事」と「言わねばならない事」を区別し、「言わねばならない事」を犠牲を払ってでも言う」と言う態度には同意するし、それを「真の記者魂」と呼ぶのも首肯する。
だが、それに続く一節は読んでてズッコケそうになる位力が抜ける。
2〉 平成の世の日本にも、言わねばならないことは満ちています。
3〉 まずは消費税増税。民主党政権にとってはそもそも公約違反であり、それでも強行するのは民主主義を危うくします。
4〉 社会保障と税の「一体」改革と言いながら、社会保障の抜本改革は見送られ、増税だけが決まりました。
5〉政府や国会の無駄もほとんど削られないままです。
6〉速やかに衆院を解散して国民に増税の是非を問うべきなのに、その前に必要な衆院「一票の格差」是正は与野党対立で手付かずです。
7〉国会の不作為と言わずして何と言う。
8〉 原子力発電もそうです。いったん事故が起これば取り返しがつかないのに、この暑い夏を「原発ゼロ」で乗り切れたのに、なぜ原発維持の選択肢が生き残るのか。
9〉 事故が頻発する垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを「世界一危険」として返還が決まった沖縄の米海兵隊普天間飛行場になぜ配備するのか。
10〉沖縄県民に過重な負担を強いることで成り立つ日米安全保障条約は不平等ではないか。
11〉 私たちの新聞にとって、これらは「言いたいこと」ではなく「言わねばならないこと」です。
要は、今の東京新聞は桐生悠々先輩記者の衣鉢を継いで、「言わねばならない事」をしっかり言っている、と主張して居る訳だが、その言わねばならない事と言うのが①消費税増税反対 ②脱原発 ③オスプレイ沖縄配備反対 の三点なんだそうだ。
まず、「桐生悠々の真の記者魂」を受け継いでいると称する東京新聞の「言わねばならない事」三点の内、上記③以外の二点がモノの見事に小沢新党「国民の生活が第一党」のキャッチフレーズであることを指摘したい。なるほど小沢一郎は与党第一党の黒幕から弱小政党の党首に転落したから、その主張たる上記①、②は「権力側の主張」とは言い難いだろう。だがしかし、弱小とは言え隠然たる影響力をいまだ擁する小沢新党の主張をなぞる現在の東京新聞主張は、軍部・権力を批判して不買運動を起こされ、糊口をしのぐにも困ったという桐生悠々の主張とは、たとえ「言わねばならない事」で共通するとしても、その重みが全然違い、払わねばならない犠牲が違う。早い話、上記①、②を「言わねばならない事」と声高に叫んだところで、「東京新聞不買運動」が起こるとは到底思えない。
故に、東京新聞がその大先輩たる桐生悠々の「真の記者魂」を「受け継いでいる」などと言うのは、笑止千万と言うべきだ。
<注釈>
(*1) 「迎撃成功して全機撃墜」と言う防空演習上の想定は、「嗤う可き」かも知れない。だが、防空演習そのものは撃墜率を向上するためのものであるし、後の大東亜戦争で我が国土の大半が焦土とされてしまったとて、関東防空大演習を初めとする防空演習を、無為無駄と嗤うのは、あまりに浅慮であろう。