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中国の「民間活動家」が尖閣諸島に上陸して我が海保庁に対補拘束された物の、「不法入国以外の罪を犯していない」と言う奇怪な理由で刑事訴訟にさえ至らず、そのまま強制送還で御帰還遊ばされると言う事態は、予想された事とは言え実に腹立たしく、容易に記事にならないほどである。とは言え尖閣諸島侵略と言う事態に対し各紙の社説は一斉に反応・・・と思いきや。東京新聞だけは違った反応を見せている(平成24年08月17日(金)時点)。
「戦争と原発に向き合う」と銘打った、8月15日を第一回とする、如何にも脱原発原理主義者らしい一連の社説であるが、斯様な事態にも拘らずそのまま連載された社説だ。篤と御覧あれ。
転載開始=========================================
【東京社説】戦争と原発に向き合う 核時代の新たな不安
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012081702000138.html
2012年8月17日
冷戦時代、人類は核戦争の恐怖に直面しました。今は核汚染の怖さが加わります。原発事故はその一つ。核時代の新たな不安の中に私たちはいるのです。
年配の方なら思い出せるかもしれません。
広島、長崎に続き、核の恐怖を再び実感として覚えたのは、一九五〇年代の原水爆実験のころではなかったでしょうか。
米国がブラボーと呼ぶ水爆実験をマーシャル諸島ビキニ環礁で行いました。危険区域外のマグロ漁船第五福竜丸が風向きのせいで死の灰を浴びました。現地の島民は緊急移動させられました。
◆世界に広がった抗議
そのニュースは世界を駆けめぐり、人々はあらためて驚いたのでした。島一つを吹き飛ばす爆発規模、また重大な放射能被害。ニューヨークにあてはめるなら、マンハッタン島が消滅し、生き残る者はいない。
米国では、こんな意見が出てきました。…このような危険なものを将軍や政治家たちに任せておいていいのだろうか。
脅(おび)えるのではありません。健全な精神の持ち主なら当然もつであろう疑問です。日本では全国に核実験禁止の署名運動が、欧州でも抗議運動が広がりました。
二度の大戦を経験している、英国の思想家で数学者のバートランド・ラッセルはこう考えた。
広島原爆はTNT火薬にして二万トンの威力があった。では二万トンの爆弾一個と、五トンの爆弾四千個とはどう違うのか。ビキニの水爆は広島原爆の一千倍もある。
これはただの恐怖ではない。人類は自らを破滅させる兵器をとうとう手中にした、ということだ。持ってはいけないものを持ってしまったということだ…。
◆ラッセルの問いかけ
彼は世界の人々に伝えるべき宣言を起草します。
<戦慄(せんりつ)すべき、しかし逃れることのできない問いがある。われわれは人類に終止符をうつべきか、それとも戦争を放棄すべきか>
宣言には、物理学者アルベルト・アインシュタインや湯川秀樹らノーベル賞学者らが署名し、ラッセル・アインシュタイン宣言として世界運動につながってゆく。
半世紀前、世界の知性が見抜いたのは人類全体の破滅可能性でした。想像力の所産であり、倫理のもつ力でもあります。人々には大戦の悲惨さという実体験、実感が伴ってもいました。
核実験は縮小に向かったものの一九八六年、人類は新たな核の恐怖にふるえることになりました。当時ソ連のチェルノブイリ原発事故です。平和利用のはずの原子力が深刻で広範囲の放射能汚染を招いてしまったのです。
とりわけ欧州の悩みは深いものでした。米ソ冷戦の前線として核ミサイル配備があり、核の恐怖は潜在していたからです。
チェルノブイリ事故の教えたことはじつに単純でした。原発は壊れることがあり、ひどい場合には大量の放射能を放出する可能性があるということです。その前の米国スリーマイル島原発事故の被害をはるかに超えていました。
それは広島、長崎の犠牲で始まった核の時代の新たな不安を示したのでした。核の不安は兵器だけではなかったのです。核と人類は共存できないという至言が思い出されます。私たちは広島、長崎に続き福島という三つ目の悲劇をえてしまったのです。
福島はチェルノブイリ以上の衝撃を世界に与えました。世界に誇るべき技術と労働資質をもつ国で重大事故が起きたのです。世界には地震国というだけでは片付けられない事故と映ったのではないでしょうか。たとえばドイツは、代替エネルギーがあるのなら原発は不要という明快な結論に早々と達しました。それがたとえ困難な道であろうとも、です。
しかし、原子力の研究はもちろん続けなければなりません。純粋な科学的知見はより深めねばならず、医療などの民生利用にも必要です。原発の廃炉や核廃棄物処理のためにも不可欠です。
◆人、自然の受ける被害
福島の事故で放出された放射性物質は、セシウム137(半減期約三十年)換算で広島原爆の一六八・五個分だったといいます。
この数字をどう考えたらいいのか。原爆では熱線や爆風、中性子線の被害が大きい。その通りでしょう。しかし私たちが今実感しているのは、原発過酷事故が人や社会、また自然に与える影響の途方もない大きさと深刻さなのです。それは世界共通の潜在的な不安だともいえるでしょう。
私たちは、半世紀前のラッセルに似た問いを発せねばならないのかもしれません。戦争を放棄できるのか、人類は果たして安全でいられるのか、と。
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人類の多様性とは斯くも現状認識に差異をもたらすものか
さて、如何であろうか。
8月15日から始まったこの「戦争と原発に向き合う」シリーズは三回目である。前回、前々回も「調子はこんなモン」と言えば大凡内容は察しがつこう。それだけ似たような社説を並べると言う事は、それだけ東京新聞が強調したい主張、と言う事になるが・・・章題にもした通り、彼我の現状認識差異は実に目も眩むばかりであり、当該社説にどう突っ込んだ物か、迷うほどだ。
読者諸兄にお尋ねしよう、上掲東京社説が、前半と後半で全く話がすり替わっている事にはお気付きだろうか。前半は冷戦時代から説き起こして核兵器の恐怖を語り、ラッセルだのアインシュタインだのの仰々しい固有名詞が並ぶ。それが「チェルノブイリ事故」を契機にして後半では「原発事故の恐怖」を列挙し、ドイツの「脱原発」を絶賛し、「広島原爆の一六八・五個分」などと言うオドロオドロシイ数字を上げ、最後にラッセルをパクッて以下のように〆る。
1> 私たちは、半世紀前のラッセルに似た問いを発せねばならないのかもしれません。
2> 戦争を放棄できるのか、人類は果たして安全でいられるのか、と。
ま、上記1>で「かもしれません。」と言うのが自信のなさの表れか、記者の良心が咎めたのかは判らないが。何しろ上掲社説の「チェルノブイリ事故」を契機とした大転換では、恰も最早核兵器はこの世に存在せず,原発事故だけが「核の恐怖」かのような書き方だから、「良心が咎める」可能性は大いにありえるだろう(*1)。ま、脱原発原理主義者に限らず原理主義者と言うのは「原理が最優先」であるから、理性だの良心だのに期待してはいけないが(*2)。
【Q1】 人類は戦争を放棄できるか?
現実の核兵器は諸兄ご承知の通りだ。地上核実験こそ禁止されたものの、核兵器保有国は米ソ/露に続いて中国、英国、仏国と国連常任理事国五カ国揃い踏み(*3)の上にインド、パキスタン、イスラエルがある。イランと北朝鮮は鋭意核兵器開発中で、核兵器を一時期保有しながら放棄したのは南アフリカだけ。核兵器の総数こそ米ソ核軍縮の為に冷戦時代ほどではないにせよ、核兵器保有国は増え、第三位の核兵器保有国・中国は軍拡路線まっしぐらだ。
一方で、戦争はと言うと、これまた局地戦から非正規戦、非対称戦争まで、「大国同士の全面戦争」がないだけで、実に多彩な戦争が「冷戦終結後」にも発生し、「人類は戦争と共存し続けて」居る。
「人類が戦争を放棄する」と言うラッセルが掲げ、アインシュタインも賛同したと言う半世紀前の宣言を実現する日は、「豹がその斑を全て洗い流し、ジャージー種の牛と同じ仕事を貰う日まで((c)ロバート・A・ハインライン)」来そうにない。
つまりは「人類が戦争を放棄する」目途なんて全くない、と言うのが私の現状認識だ。
「核兵器廃絶」の方がまだ可能性はあるだろう。核兵器なんかなくても人類は戦争が出来るし、実際核兵器がない幾千年もの間、人類は戦争してきたのだから。それどころか、核兵器がなければ、「人類滅亡の危機を犯して戦争する」可能性は減るのだから、寧ろ全面戦争はやりやすいだろう。
以上が私の「戦争観」であるが、当該東京新聞の主張とは全く異なるようだ。それはそれで構わないし、その差異は興味ある研究対象なのだが・・・上掲東京新聞社説に現れる「戦争観」は、甚だ曖昧だ。
社説前半は、冷戦下核兵器の恐怖を背景に、ラッセルを引用し、「戦争の放棄」を訴えている。だが、「如何にして」というのには殆ど触れていない。引用しているラッセルの宣言は、
3><戦慄(せんりつ)すべき、しかし逃れることのできない問いがある。
4> われわれは人類に終止符をうつべきか、それとも戦争を放棄すべきか>
とあるばかりだから、少なくとも「核兵器の使用による人類滅亡の恐怖」をトリガーとしての「戦争放棄」ではあろう。が、「核兵器の使用による人類滅亡の恐怖」には当然ながら核兵器の実戦配備が不可欠である。従って、「核兵器の使用による人類滅亡の恐怖」を(トリガーとしてばかりでなく)プレッシャーとしての「戦争放棄」には、「人類滅亡の恐怖」=核兵器実戦配備体制の維持が不可欠である。
「戦争放棄」した時点で「核兵器の必要性がなくなり、核兵器も廃絶できる」と言う主張なのかも知れないが、戦争なんてのは核兵器抜きで幾らも出来るのだから、「核兵器の使用による人類滅亡の恐怖」なしで「戦争放棄」出来る方策を示さない限り、そんな「核抜き戦争放棄体制」は構築も維持も出来ない。
よって、
【A1】人類が戦争を放棄出来る目途はない。少なくとも当該社説にはヒントすら示されていない。
<注釈>
(*1) 、と私には思われる(*2) 実際東京新聞は、脱原発原理主義に則って、選挙結果を無視しろと主張したことが、少なくとも二回ある。(1)「脱原発」の自己目的化-東京新聞社説「上関町長選 原発マネーと別れよう」を斬る! http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36039847.html(2)東京新聞の遠吠え―東京社説「山口県知事選 地域の選択 曲解するな」を斬る!(*3) 実際は話が逆だろう。「元々は第二次大戦の戦勝主要国で国連常任理事国を始めたが、米ソ英仏は戦勝主要国故に初期の核兵器保有国となり、中華人民共和国も核兵器を保有した為に中華民国に代わって国連常任理事国に成り果せた。」である。