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「文革」なんて言葉も「歴史的補遺」が必要になってしまったのだろうな。「文化大革命」の略で、中国共産党政権下で1966年から10年間に及んだ政治的大混乱の事。見ように拠っては「革命の継続」な物だから、当時の日本「知識人」・マスコミからは大絶賛されたが、その実数百万とも一千万人とも言う死者・行方不明者を出した政治的混乱。革命なんてものは、よほど上手くやる無血革命以外は死者・行方不明者を伴う政治的混乱に違いないのだが、何しろ文革はスケールが大きい。
だが、此処でその文革を引用したのは、「流血を伴う大規模政治混乱」だからではない。その混乱の一環として実施された「批孔批林」をはじめとする知識人批判・知識人攻撃故である。文革当時は毛語録を掲げて毛沢東原理主義を標榜した「紅衛兵」なるガキ共が、「知識人・知識階級はブルジョア的である」と断じて暴行を加えたり晒し者にしたりした。
そんな愚行であり野蛮でもある「文革の知識人批判」を私に想起させたのは、以下の毎日新聞コラムである。
だが、此処でその文革を引用したのは、「流血を伴う大規模政治混乱」だからではない。その混乱の一環として実施された「批孔批林」をはじめとする知識人批判・知識人攻撃故である。文革当時は毛語録を掲げて毛沢東原理主義を標榜した「紅衛兵」なるガキ共が、「知識人・知識階級はブルジョア的である」と断じて暴行を加えたり晒し者にしたりした。
そんな愚行であり野蛮でもある「文革の知識人批判」を私に想起させたのは、以下の毎日新聞コラムである。
転載開始=========================================
=================================転載完了【私説・論説室から】原子力ムラ復活は論外だ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2012080802000132.html
2012年8月8日
これで原子力規制の独立性が図れるだろうか。懸念は強まる一方だ。
政府が新たに発足させる原子力規制委員会の委員長候補になった田中俊一氏は前原子力委員会委員長代理で、元日本原子力研究開発機構の特別顧問である。
原子力委員会は原発推進派だけで核燃料サイクルを推進する秘密会合を恒常的に開き、政府の政策決定に影響を及ぼしていた問題があかるみに出た。後者の機構は高速増殖炉もんじゅを設置し、使用済み核燃料を再処理している。
委員候補の更田豊志氏は同じ機構の副部門長、もう一人の中村佳代子氏は日本アイソトープ協会主査。二人とも現役バリバリの原子力ムラ住人である。
原子力規制委員会設置法によれば、そもそも原子力の精錬、加工、貯蔵、再処理に係る個人や法人の従業者は委員になれない。現役の両氏が不適格なのは明々白々ではないか。
社民党の福島瑞穂党首によれば、政府は「委員就任前に辞任していれば問題ない、との理屈で人事を強行するつもり」なのだそうだ。それなら福島事故を起こした東京電力の前会長だって委員長になれてしまう。デタラメが過ぎる。
少なくとも三人の人事案は白紙に戻す。そのうえで国会の事故調査委員会が提言したように、透明な第三者機関が委員候補を選んで、国会が最終的に承認する。そんな手続きが不可欠である。 (長谷川幸洋)
「判断評価に知識・知識人は不要」とする暴論
さて、如何だろうか。
私が当該コラムに「文革の知識人攻撃」を想起した理由が判ろうか。
要旨説明するほども無いような、短いコラムである。要は、政府が新たに発足させる原子力規制委員会の委員/委員長候補に「原子力ムラビトが居る」から「原子力規制の独立性が図れない懸念がある」と批判している。逆に言えば「原子力規制の独立性」の為に「原子力規制委員会から原子力ムラビトを排除しろ」と主張している。
「原子力ムラ」と言えば昨今では悪の権化扱いであるから、「原子力ムラビトに反対!」と言って置けば相応にかっこよく見えるのだろうが、さて、上記毎日コラムの主張は「正しい」だろうか。
無論、私は「正しい訳がない!」と考えるからこそ「文革」なぞ思い出して、今回俎上に取り上げているのだが。
毎日コラムも頭冷やして考えて見るが良い。「原子力規制委員会のMission・目的・存在理由・あるべき姿」は何だ。「独立性」はその目的か?
否。断じて否。「独立性」は手段だ。「原子力規制委員会目的」「正しく原子力を規制する事」その「正しく」と言う点に「独立性」が関わってくるが、あくまで目的は「正しく規制する」だ。「正しく」判断し、「規制する」上で、「原子力ムラビトばかり集めて、外部意見・判断を軽視ないし蔑ろにした」と言う反省から、「独立性」を求められているに過ぎない。「独立性」は「正しく判断し、原子力を規制する」為の手段だ。
では、「正しく判断し、規制する」為には「独立性」さえ確保できれば良いか?
否。再び否。
「独立性」の保障と言うならば、単に原子力産業・原子量業界に無縁であるばかりでなく「原子力について無知」である方が、より強固に保証される。「何だか判らないが原子力ってのは恐ろしい」と言うだけの「ド素人」を「原子力規制委員/委員長」に担ぎ出せば、「原理力規制委員会の独立性」は高まるだろう。それで「正しく原子力を規制」出来ると思うか?
ひたすら脱原発・反原発の立場で言うところの「原子力規制」ならば出来るだろう。菅直人あたりでも担ぎ出せば、喜んで就任するに違いない。「脱原発こそ正しい」と言う立場からならば、その「独立性のみ原子力規制委員会」言い換えれば「原子力に対する専門知識皆無の原子力規制委員会」と言うのも「ありうる」どころか大歓迎なのだろう。「全原発は稼動停止してそのまま廃炉!」と主張するだけならば専門知識の「せ」の字も必要とすまい。
そうするのが、「全原発は稼動停止してそのまま廃炉!」と決定するのが「原子力規制委員会の目的」であり「正しく原子力を規制する事」ならば、な。
Negative.否定。
「原子力規制委員会の目的」、「正しく原子力を規制する事」とは、「原発を安全に運転し、稼動させ、発電させる事」である。無論安全でないと判断した原発を稼動停止したり、廃炉にしたりと言う事はありうるだろう。だが、「全原発は稼動停止してそのまま廃炉にする」のが目的ではない。
「原発を安全に運転し、稼動させ、発電させる」為には、原子力や原子力技術に対する知識が不可欠だ。我が国で原子力や原子力技術に対する知識を最も持っているのは、所謂「原子力ムラビト」や、原発を設計製造するメーカーや、原発を運転する電力会社なのである。彼らを完全に排斥しつつ「正しく原子力を規制しよう」と言うのは、暴挙だ。
此処まで書けば、当該毎日コラムに私が文革を連想したのも判って頂けよう。当該毎日コラムは、原子力着せ委員会から「原子力ムラビト排斥」を訴えた。「独立性」を旗印にしているが、それは原子力技術・原子力知識の排斥を訴えるのとほぼ同義である。そこに「知識人はブルジョワ」として暴行した文革の紅衛兵にあい通じるものを、私が感じたからだ。
ま、毎日コラムが未だ文革の夢覚めやらぬ紅衛兵であろうが知ったことではない。
だが、原子力規制委員会から原子力ムラビトを排斥しようと言う言説は問題だ。「原子力ムラビト」に非難される点があるとするならば、外部の意見・判断を軽視して「原子力ムラビト内の判断」に固執した密室性を非難されるべきであって、その専門知識や経験をも否定されるべきではない。否、寧ろ、その専門知識と経験は、「正しく原子力を規制する」原子力規制委員会の目的に大いに役立つ筈だ。
敢えて言おう。論外なのは、「原子力ムラビト排斥」の方だ。
原子力ムラビトの知識と経験を活かしてこそ、正しく原子力を規制でき、原子力規制委員会の実効を挙げられる。
無論、先述の通り、「全原発は稼動停止してそのまま廃炉」と原子力規制委員会が決定する事を、目的としない限り、だが。
如何に、毎日コラム。
私が当該コラムに「文革の知識人攻撃」を想起した理由が判ろうか。
要旨説明するほども無いような、短いコラムである。要は、政府が新たに発足させる原子力規制委員会の委員/委員長候補に「原子力ムラビトが居る」から「原子力規制の独立性が図れない懸念がある」と批判している。逆に言えば「原子力規制の独立性」の為に「原子力規制委員会から原子力ムラビトを排除しろ」と主張している。
「原子力ムラ」と言えば昨今では悪の権化扱いであるから、「原子力ムラビトに反対!」と言って置けば相応にかっこよく見えるのだろうが、さて、上記毎日コラムの主張は「正しい」だろうか。
無論、私は「正しい訳がない!」と考えるからこそ「文革」なぞ思い出して、今回俎上に取り上げているのだが。
毎日コラムも頭冷やして考えて見るが良い。「原子力規制委員会のMission・目的・存在理由・あるべき姿」は何だ。「独立性」はその目的か?
否。断じて否。「独立性」は手段だ。「原子力規制委員会目的」「正しく原子力を規制する事」その「正しく」と言う点に「独立性」が関わってくるが、あくまで目的は「正しく規制する」だ。「正しく」判断し、「規制する」上で、「原子力ムラビトばかり集めて、外部意見・判断を軽視ないし蔑ろにした」と言う反省から、「独立性」を求められているに過ぎない。「独立性」は「正しく判断し、原子力を規制する」為の手段だ。
では、「正しく判断し、規制する」為には「独立性」さえ確保できれば良いか?
否。再び否。
「独立性」の保障と言うならば、単に原子力産業・原子量業界に無縁であるばかりでなく「原子力について無知」である方が、より強固に保証される。「何だか判らないが原子力ってのは恐ろしい」と言うだけの「ド素人」を「原子力規制委員/委員長」に担ぎ出せば、「原理力規制委員会の独立性」は高まるだろう。それで「正しく原子力を規制」出来ると思うか?
ひたすら脱原発・反原発の立場で言うところの「原子力規制」ならば出来るだろう。菅直人あたりでも担ぎ出せば、喜んで就任するに違いない。「脱原発こそ正しい」と言う立場からならば、その「独立性のみ原子力規制委員会」言い換えれば「原子力に対する専門知識皆無の原子力規制委員会」と言うのも「ありうる」どころか大歓迎なのだろう。「全原発は稼動停止してそのまま廃炉!」と主張するだけならば専門知識の「せ」の字も必要とすまい。
そうするのが、「全原発は稼動停止してそのまま廃炉!」と決定するのが「原子力規制委員会の目的」であり「正しく原子力を規制する事」ならば、な。
Negative.否定。
「原子力規制委員会の目的」、「正しく原子力を規制する事」とは、「原発を安全に運転し、稼動させ、発電させる事」である。無論安全でないと判断した原発を稼動停止したり、廃炉にしたりと言う事はありうるだろう。だが、「全原発は稼動停止してそのまま廃炉にする」のが目的ではない。
「原発を安全に運転し、稼動させ、発電させる」為には、原子力や原子力技術に対する知識が不可欠だ。我が国で原子力や原子力技術に対する知識を最も持っているのは、所謂「原子力ムラビト」や、原発を設計製造するメーカーや、原発を運転する電力会社なのである。彼らを完全に排斥しつつ「正しく原子力を規制しよう」と言うのは、暴挙だ。
此処まで書けば、当該毎日コラムに私が文革を連想したのも判って頂けよう。当該毎日コラムは、原子力着せ委員会から「原子力ムラビト排斥」を訴えた。「独立性」を旗印にしているが、それは原子力技術・原子力知識の排斥を訴えるのとほぼ同義である。そこに「知識人はブルジョワ」として暴行した文革の紅衛兵にあい通じるものを、私が感じたからだ。
ま、毎日コラムが未だ文革の夢覚めやらぬ紅衛兵であろうが知ったことではない。
だが、原子力規制委員会から原子力ムラビトを排斥しようと言う言説は問題だ。「原子力ムラビト」に非難される点があるとするならば、外部の意見・判断を軽視して「原子力ムラビト内の判断」に固執した密室性を非難されるべきであって、その専門知識や経験をも否定されるべきではない。否、寧ろ、その専門知識と経験は、「正しく原子力を規制する」原子力規制委員会の目的に大いに役立つ筈だ。
敢えて言おう。論外なのは、「原子力ムラビト排斥」の方だ。
原子力ムラビトの知識と経験を活かしてこそ、正しく原子力を規制でき、原子力規制委員会の実効を挙げられる。
無論、先述の通り、「全原発は稼動停止してそのまま廃炉」と原子力規制委員会が決定する事を、目的としない限り、だが。
如何に、毎日コラム。