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廃絶」に逃げ込もうと言う算段か
さて、如何だろうか。
何と言うか・・・朝日の方は「お花畑」と呼ぶのも恥ずかしいような、理想論と言うより空想論。だがそれでも「論」になっているだけ、「社説」と言いえよう。
東京新聞のコリャなんだ。なるほど「広島は原爆忌で脱原発を宣言すべきだ」と言う主張はある。それが東京新聞の主張であり「社説」なのだろう。だが、大半はナントカ言う詩人の紹介で、その〆は以下の一文である。
東1> 8・6。平和宣言に耳を澄まして、今はまだ言葉にならない何かを感じ、何かを始められるよう、ヒロシマに心を傾けます。
これは「祈り」かも知れないが、主張でもなんでも無い。「言葉にならない何か」を感じたところで、何も始めようがない。これがコラムと言うなら許容も出来ようが、新聞社の主張たる「社説」だと言うのだから、恐れ入る他ない。
言うのが遅れたが、私は福島原発事故を経てなお原発推進論者だ。だから脱原発原理主義の東京新聞や朝日とは「宗教が違う」事は重々承知している。
さらには、私は我が国の核武装を少なくとも容認している。我が国の核武装は我が国の取りうる選択肢の一つだし、「広島・長崎核攻撃の惨禍」や「日本国憲法」に拠って「我が国の核武装」を禁じる道理はないと考えている。憲法は必要に応じて変えてもよければ廃しても良い物だ(*1)し、広島・長崎核攻撃の犠牲者達が後人たる我ら・我が国に対し「安全保障よりも核保有国とならないことを優先して要求する」とは思わない。
所詮死者の声を聞くのは「生者の耳」なのであるから、「生者の耳」次第で「届かぬ死者の声」があろうと言う事は認めるが、逆に「生者の耳」次第で聞こえてしまう空耳だって、あろうさ。
つまりは「核なき世界・核廃絶」を目指そうと言う朝日や東京新聞と、私とは核兵器に関しても「宗教が違う」。私は「核廃絶」なんて実現するとは全く信じていないし、実現する方策どころか目途すらない、と思っている。また、「核なき世界」が現状よりマシな世界、とも思わない。普通に考えれば「核なき世界」は「タダ一国の核兵器保有国に拠って支配されてしまいかねない世界」である。その「唯一の核兵器保有国」に我が国がなってやろうという「深謀遠慮」でも前提にしない限り、「核なき世界」が現状よりマシな訳がない。
そんな私の視点からすると、「脱原発をグローバルな流れにする為に、核廃絶と脱原発を日本が先導しよう」などと言う、突っ込み所だらけ(*2)のお花畑社説を掲げる朝日も、ナントカ言う詩人を題材に「原発も原爆も同じで人間と相容れない」とだけ主張する東京社説も、噴飯モノとしか言いようがない。
<注釈>
(*1) ソリャま、そうやたらにはやるべきではないが、憲法上の制約よりも安全保障上の必要のほうが、少なくとも議論としては優先すべきである。安全保障上の必要から、憲法改正なり廃却なりが必要となれば、その手続きを進めるだけ、の話だ。(*2) 数え上げれば・・・①「脱原発」は現状グローバルな流れではない、どころかせいぜいドイツ、スイス、日本限定だ(まあ、だからこそ「グローバルな流れにしよう」と言う主張かも知れないが ②大東亜戦争後70年間「核廃絶」を訴えて、現状の核拡散状態だ。これを「脱原発」と組み合わせる事でどんな相乗効果が期待出来るというのか。具体的に、北朝鮮やイランの核開発をどう阻止し、その上で現状の核保有国の核兵器をどう放棄させるのか。
分析・朝日社説
では、その噴飯物の中でも一応「論」の形を成す朝日社説を見ていこう。全体は四つのパラグラフに分かれ、一応「起承転結」に近い展開となっている。
第一パラグラフは、序章だ。核抑止論に先ず触れ、
朝1> だが実は、世界は何度も、核戦争へ転がり落ちそうになったことがある。
として、「偶発核戦争になりそこなった一事例」を挙げた上で、次の一文で第一パラグラフを〆る。
朝2> だからこそ、原爆と原発事故を体験した日本には、歴史的使命がある。
朝3> 核エネルギーによる両方の惨事を知る身として、そのリスクを世界からなくしていく役目である。
「素晴らしい!朝日社説の言う通りだ!」と賞賛してしまう人も、ソリャ世の中にはあるんだろうさ。だが、「宗教の違う」異教徒たる私にはアホらしくて仕方がない。
先ず第一に朝日社説は「核戦争に転がり落ちそうになった」事例を以って「核抑止論」を否定している訳だが、これを「事実として核戦争に転がり落ちなかった実績」には数えず、「核兵器なんかあるから核戦争に転がり落ちそうになった」と論じている。だが、「偶発的な戦争勃発」は別に核兵器の専売特許ではない。「核なき世界」にだって冷戦はありうるし、偶発的戦争勃発だって、当然可能性がある。早い話、「米国からの(通常弾頭型)ミサイル発射」をソ連が探知したとしたら、やはり「世界大戦に転がり落ちそうになる」事は間違いようがない。
「核なき世界」では世界大戦は「核戦争」にはならないが、それが大東亜戦争(太平洋戦争)/第二次大戦以上の惨禍となることは間違いない。
で、問題は、「世界大戦に転がり落ちる」可能性と「世界大戦の惨禍」とを考慮の上で、「核なき世界」と現状の「核兵器のある世界」と、何れがマシか、と言う事だ。
核兵器の存在は、「世界大戦の(予想)惨禍」を大きくするだろう。だがその分、「世界大戦に転がり落ちる可能性」を低減する。リスクで言えば、核兵器の存在は「世界大戦」と言うリスクの頻度を下げて深刻度を上げるものだろう。で、その「下げた頻度」で以って「米ソ冷戦」を終結まで「熱戦=世界大戦」に至らせなかった。立派な実績であり、事実だ。朝日の言う「偶発核戦争の可能性」は、その実績を損なう物でもなんでもない。
で、もっと噴飯モノなのが上記朝2>「原爆と原発事故を体験した日本には、(核兵器廃絶と脱原発と言う)歴史的使命がある」と言う断言・思い込みなのであるが、まあこいつは後にも出てくるので、後述しよう。
第二パラグラフは、核拡散する現状を嘆きながら、国際NGO「グローバルゼロ」による「2030年までの核廃絶提唱」に一縷の望みを懸けている。しかしながら、「米ロは10年以内に核兵器を8割減らすべきだと提言」したところで、その意味するところは「中国が世界一の核兵器保有国となる」以外の何者でもない。ソリャ中国としては大喜び。朝日も大喜びかも知れないが、我が国にとっての利益とは到底思えない(*1)。
第一、こいつは「提言」だけで、別に「米ロが10年以内に核兵器8割減らす交渉を始めた」訳でもなんでもない。いわば、「願望の表明」にしか過ぎない。
第三パラグラフは「隠せぬNPTの限界 」と銘打つ。起承転結で言えば「転」にあたるが、「転」としては一寸弱い。現状の核拡散防止体制であるNPTがイラン核開発を抑止出来ないように限界があると論じ、「NPTが原子力の平和利用=原発推進だから限界があるのだ」と論じる。これがだ最終パラグラフ「核兵器廃絶と脱原発の二人三脚」につながるのだが・・・・
先ず第一に、「NPTの限界」を示す事例として、イランだけを挙げて北朝鮮を挙げないところが「朝日らしい」と言うべきだろう。
第二に、現状のNPTとは異なり「原子力の平和利用を認めない、脱原発核不拡散体制」の方が現状のNPTよりも有効な核不拡散政策であると断じる根拠がまったく示されていない。せいぜいが「(福島原発事故の)放射能禍」と言う表現から、「原発事故の惨禍」に頼ろうと言う意図が辛うじて読めるが、実際に死者をも出したチェルノブイリ原発事故を経てなお「あわよくば核兵器を保有」と考える国に対して、「脱原発の核不拡散体制」なんて物がどうして有効だと信じられるのか、「宗教の違う」私なんぞにはサッパリ判らない。
で、「脱原発核不拡散体制」なんて物の有効性は置いといて(*2)、当該社説は「結」・最終パラグラフに突入してしまう。
<注釈>
(*1) だからこそなおのこと、朝日は喜びそうだが。(*2) ないし、その有効性は「自明の理」と断じて