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「シミュレーションゲーム」なるものが、一頃流行した事がある。またの名を「ウォーゲーム」。地図に似たボードの上で、部隊や戦車や航空機などの兵器を現す紙のコマを動かして、あらゆる時代あらゆる場所(※1)の戦争・戦闘を「シミュレーション」模擬するゲーム。凝ったのになると、地形を立体のジオラマで現し、コマはミニチュア模型を使い、射線の判定=見える/見えないの判定をミニチュアの潜望鏡で行うなんてモノまであった。今でも細々と発売はされているらしいが、最近じゃぁ雑誌「歴史群像」の創刊20周年記念付録で久々に見た程度。「流行した」頃でさえメジャーとは言い難かったが、今はそれよりもずっとマイナーな「趣味の世界」になってしまった。
このシミュレーションゲームと言う奴、遡ると19世紀はプロイセンの兵棋演習Kriegsspielであり、白地図の上に部隊の移動等を書き込んで戦闘の勝敗を決する文字通りの「図上演習」であったという。これをボード上のコマで現すようにしたのがアメリカ軍で、我が国にそれを持ち込んだのが秋山真之だ、ってのは、確か司馬遼太郎の「坂の上の雲」にある話。つまりは秋山真之が我が国ウオーゲーマー第一号、と言う事らしい。
図上演習を机上演習に簡略化・簡易化し、手軽に行えるようにしてしまった合理的精神、言わば「戦争のゲーム化」が「如何にもアメリカ的」と私には思われるし、その合理的精神が秋山真之の好みにもあったのだろう、と私には思われる。「戦争をゲームにするなんて不謹慎だ!」と怒り出す人もありそうだが、実際のところ戦争にあるギャンブル性はゲームにも通じるものがあるし、軍人と言うものは治に居て乱を忘れず、常に乱=戦争について考える事を求められるのだから、その思考の材料として「戦争ゲーム」と言うモノがあっても別に構うまい。実際、図上演習・机上演習は部隊を動かして行う「本物の」演習ほどに費用もかからず、繰り返し回数も稼げるから、現代の軍隊でも活用されている。(※2)
ま、私のような民間人(※3)がそんな「戦争ゲーム」を趣味として楽しむのは、「戦争そのものにあるゲーム性・ギャンブル性」の魅力(※4)もさることながら、「歴史の追体験」と言うのが魅力だろう。無論その「追体験」はゲーム化され、抽象化され、時に戯画化カリカチュアライズされた「追体験」なのではあるが、「バルチック艦隊を視野に捕らえ、砲撃を喰らいつつどの距離まで接近して東郷ターンを決め、同航戦に持ち込むか」とか、「索敵機からの限られた情報を元に、どの時点で攻撃部隊の発艦を命じるか」とか、歴史上のキーパーソンたちの苦悩と決断を垣間見る(※5)事が出来るし、また「ゲームとして楽しむ」事が出来る。
国家の危急存亡が懸かった戦争なんて言う大事(おおごと)をも、「ゲーム化」する事で抽象化すると共に、ある部分(※6)「追体験」できてしまう。それこそが「戦争ゲーム/シミュレーションゲーム」の魅力であり、タイトルにもした「思考の遊戯化」の威力である。
そんな「思考の遊戯化」による「歴史の追体験」なんて事を考えるのはウォーゲーマーばかりではないらしい、と言うのが上掲AFP通信記事。
> 「コレイカ」は計画経済下でいかにして生き延びるかを教えてくれるゲームだ。
> 慢性的な商品不足に悩まされ、肉は稀少品でオレンジは珍品。
> 何時間も、ときに何日間でさえも列に並ぶのが当たり前で、闇市場では定価の2倍以上を支払わなければ必需品が買えない――。
> 制作の意図は、
> 鉄のカーテン(Iron Curtain)がなくなる1989年以前にはごく簡単な日用品の買い出しに付き物だった「退屈さ」と「不条理さ」を後世に伝えることだという。
なにしろ、
> 制作したのはポーランド政府機関で、
> 近現代の歴史を記録しナチス・ドイツ(Nazi German)政権下と社会主義時代の犯罪を訴追する「国民記録機関(IPN)」だ。
と言うから、「国民記録機関(IPN)」なるなかなかゴツイ名前のお役所が、「社会主義社会での市民生活」を「追体験」し、後世に伝えるために作ったと言うゲームだ。伊達や酔狂でこのボードゲーム「コレイカ」を作っている訳ではない、らしい。
但し、「「退屈さ」と「不条理さ」を後世に伝える」為のゲームが、果たして、プレイして楽しいかと言うと、相当疑問に思える。「シミュレーション性とゲーム性の相克」と言う事もで出来ようが・・・
やっぱり、「戦争ゲーム」の方が、「燃える」よなぁ。
「雷爆転換急げ!!」
<注釈>
(※1) 歴史上の戦争から、近未来の戦争、果ては仮想世界からSFまで(※2) 「実際に部隊を動かす事」に伴う諸々の困難は、「本物の」演習でなければ仲々判らないし、身につかないが。(※3) 少なくとも職業軍人ではない。(※4) 戦争にそう言う「楽しみ方」があるというのは紛れも無い事実だろう。限られた情報。迫られる決断。何もしなければ過ぎ行くだけの時間。その中で己が行動を選択し、その選択が美事決まった時の快感。オマケに懸かっているのは一国の運命から自分自身の生命なんだから、競馬競輪なんざ裸足で逃げ出すギャンブル性だ。
(※5) 「追体験」と言っても、あくまでも「垣間見る」までだ。「戦争ゲーム」を楽しむ我々は、間違っても自艦を沈められて海水浴を強制されたり、戦死してしまったり、しない。(※6) ソリャ無論、全部ではないさ。ゲーム上で連合艦隊が壊滅したとて、日本がロシアに占領される訳ではない。