応援いただけるならば、クリックを⇒ https://www.blogmura.com/
産経の「賢者に学ぶ」と言うのは、仲々興味深い連載記事である。無論「賢者」とか「識者」とか言う肩書きは相当に恣意的な物であるから(*1)、「本当に賢者か否か」は十分慎重に判断すべきである。それ即ち「賢者」だの「識者」だのの言説は、十分に眉に唾つけながら読むべきである(*2)と言う事だが。
今回取り上げる「賢者に学ぶ」の「賢者」は哲学者・適菜収氏。同氏の「賢者に学ぶ」は以前当ブログでも取り上げた。「B層グルメブーム」を題材に、国民の衆愚化を警告する(*3)仲々興味深い記事であった(*4)。
今回の記事もまた仲々。先ずは御一読、願おうか。
今回の記事もまた仲々。先ずは御一読、願おうか。
<注釈>
(*1) 例えば、「賢者一級国家検定試験」なんてものがあって、これに合格しないと「賢者」とは名乗れないし呼ばれない、と言うモノではない。この連載記事で言う「賢者」も、産経新聞が与えた肩書きでしかない。(*2) 他者からの情報なんてものは、須らく眉に唾つけながら受信すべきもの、であるが。(*3) B層グルメ論に見る、一般大衆の知的退廃 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36928767.html(*4) そうであればこそ当ブログでも取り上げた。また一方で哲学者・適菜収氏を「賢者と認めた」と言う事でもある。
転載開始=========================================
【賢者に学ぶ】哲学者・適菜収 「民意に従え」は政治の自殺=================================転載完了
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120706/plc12070603110001-n1.htm
2012.7.6 03:11 [橋下大阪維新]
消費税増税法案をめぐり政界で混乱が続いている。社会保障と税の一体改革を目指す野田総理に対し、衆院の採決では72人が造反。民主党は分裂した。こうした中、「国民の皆さんが納得しない」「増税は民意に背く」などと言い出す議員まで現れた。愚の骨頂である。そもそも、政治家は政策決定において、安易に民意に従ってはならないのだ。政治家は有権者の御用聞きではない。政治家がやるべき仕事はただ一つ。議会で議論することである。移ろいやすい民意、熱しやすい世論から距離を置き、過去と未来に責任を持ち、冷静な判断を下すことである。わが国の将来にプラスになるなら増税すべきだし、マイナスになるなら阻止すべきである。
その際、民意は関係ない。
「民意に従う」「国民の判断を仰ぐ」ことが正しいなら、すぐにでも議会を解体して、すべての案件を直接投票(民主主義)で決めればいい。現在では技術的にそれは可能だ。しかし同時にそれは、政治の自殺を意味する。直接投票で物事が決まるなら知性は必要なくなるからだ。
人類の知の歴史が明らかにしてきたことは、民主主義の本質は反知性主義であり、民意を利用する政治家を除去しない限り、文明社会は崩壊するという事実である。諸学の父・アリストテレスは、著書「政治学」において民意を最優先させた場合の民主政を、僭主政(せんしゅせい)(正当な手続きを経ずに君主の座についた者による政治)に近い最悪のものと規定した。
マッカーシズムとベトナム戦争を痛烈に批判したウォルター・リップマン(1889~1974年)は、ジャーナリズム論の古典「世論」で民意の危険性について分析している。「なぜなら、あらゆる種類の複雑な問題について一般公衆に訴えるという行為は、知る機会をもったことのない大多数の人たちをまきこむことによって、知っている人たちからの批判をかわしたいという気持から出ているからである。このような状況下で下される判断は、誰がもっとも大きな声をしているか、あるいはもっともうっとりするような声をしているか(中略)によって決まる」
平成17年8月、郵政民営化関連法案が参議院で否決された。首相の小泉純一郎は激怒し「国会は郵政民営化は必要ないという判断を下した」「郵政民営化に賛成か反対かを国民の皆様に問いたい」と言い衆議院を解散した。これは憲政史上類例を見ない暴挙であり、わが国の議会主義が死んだ瞬間である。職業政治家の集団である参議院の判断を無視し、素人の意見を重視したのだから。
この20年にわたるメディアの《民意礼賛》がおかしな政治家を生み出している。橋下徹大阪市長は「僕が直接選挙で選ばれているので最後は僕が民意だ」と、二言目には民意を持ち出し、自己正当化を行う。これはナチスのアドルフ・ヒトラーが使った独裁のロジックとまったく同じものだ。歴史的に見て、デマゴーグは常に民意を利用する。リップマンが指摘したように、ステレオタイプ化した世論、メディアが恣意的(しいてき)につくりあげた民意は、未熟な人々の間で拡大再生産されていく。政治家の役割は、こうした民意の暴走から国家・社会・共同体を守ることである。(てきな おさむ)
「議会は、民意の集計所ではない」と言う主張に、目から鱗の思い
さて、如何だろうか。
何しろ、タイトルからして挑発的だ。「『民意に従え』は政治の自殺」とある。二言目には「民意の体現者」を自称する橋本大阪市長や、「国民の生活が第一党」などと言う名前の新党をイケシャアシャアと立ち上げようとしているらしい小沢一郎などからは、抗議の声なり大非難なりが来そうなタイトルだし、普通の人でも一寸ギョッとしそうなタイトルだ。だが・・・本文を一読されれば、哲学者・適菜収氏の真意は明らかだろう。
即ち、(多分)哲学者・適菜収氏がつけたタイトル(*1)の意味は、以下のように要約できよう。
① 議会は民意の集計所ではない。
② 議会は、議員の知性を駆使して議論する場である
③ 民意の集計で政策が決まるならば、IT技術を駆使して(*2)直接住民投票すれば事足りる。
④ 従って、「民意に従え」ば良いのならば、議会も議員も不要である
以上の論理の元で、哲学者・適菜収氏は、
1> 政治家の役割は、こうした民意の暴走から国家・社会・共同体を守ることである。
と、結論付ける。これは非常に強い直接民主主義の否定であり、「民意の否定」、「民意による決定・決断の否定」である。
と同時に、非常に強い議会制民主主義の肯定、間接民主主義の肯定でもある。
この「間接民主主義の肯定と、直接民主主義の否定」と言う、一見矛盾にも見える主張の根拠を、哲学者・適菜収氏は以下のように示している。
2> 直接投票で物事が決まるなら知性は必要なくなるからだ。
3> 人類の知の歴史が明らかにしてきたことは、
4> 民主主義の本質は反知性主義であり、
5> 民意を利用する政治家を除去しない限り、文明社会は崩壊するという事実である。
特に上記4>は、先行記事でも取り上げた同氏の「B層グルメ論」にもあい通じるものだが、「一般大衆、不特定多数に知性を期待出来ない/すべきではない」と言う理念であり、一種の選民思想でもある。ある意味「賢者らしい」とも言いえよう。
無論、その理念に猛烈に反発する人も、あるだろうが。
だが、少なくとも、「民意に阿らず、民意の暴走から国家・社会・共同体を守る政治家」は、民主主義の宿敵にして宿痾・宿命とすべからざる衆愚政治に対する防波堤・防御壁たりうると、期待出来る。民意を忖度せず、人気取りに走らず、己が知性と良心にのみ従って議会で議論をし、「過去と未来に責任を持ち、冷静な判断を下す」政治家は、確かに一つの理想である。また、駐留米軍の配置からエネルギー政策まで「何でもかんでも民意で決める」よりは、誤りが少ないと期待できそうだ。
無論、そんな「民意に阿らない議員」を、選挙で選出し続ける限り、であるが。
而して、実在の議員の相当部分は、「民意を集計するIT技術の代用」となる事に汲々としているように思われる。即ち、民意に迎合する政治家・首長の事例は枚挙に暇が無い。
とは言え、「一般大衆、不特定多数に知性を期待出来ない/すべきではない」とするならば、普通選挙制である限り、その一般大衆が選挙で選ぶ議員が「民意反映機関」と化さない保証は全くない。政治家自身に「民意の暴走を止める覚悟と決意」を求めるのは正当と思われるし、石原都知事にそんな片鱗を見出す事も出来るのだが、「悪貨は良貨を駆逐する」じゃ無いが、「民意に阿る議員」は「民意の暴走を食い止める覚悟の議員」を駆逐しそうに思われる。
哲学者・適菜収氏の「『民意に従え』は政治の自殺」と言う主張には大いに賛同するが、「少なくとも選挙の際の選挙民には、一定の知性・理性的判断・正気に返る事、が求められる」のではなかろうか。
さもなければ、『民意』に従う自殺志願の議員ばかりになりそうだ。
ああ、つまりは民主主義国家の命運・将来は、やはり根源的に、国民自身にかかっている、と言う事だ。
如何に、国民。
何しろ、タイトルからして挑発的だ。「『民意に従え』は政治の自殺」とある。二言目には「民意の体現者」を自称する橋本大阪市長や、「国民の生活が第一党」などと言う名前の新党をイケシャアシャアと立ち上げようとしているらしい小沢一郎などからは、抗議の声なり大非難なりが来そうなタイトルだし、普通の人でも一寸ギョッとしそうなタイトルだ。だが・・・本文を一読されれば、哲学者・適菜収氏の真意は明らかだろう。
即ち、(多分)哲学者・適菜収氏がつけたタイトル(*1)の意味は、以下のように要約できよう。
① 議会は民意の集計所ではない。
② 議会は、議員の知性を駆使して議論する場である
③ 民意の集計で政策が決まるならば、IT技術を駆使して(*2)直接住民投票すれば事足りる。
④ 従って、「民意に従え」ば良いのならば、議会も議員も不要である
以上の論理の元で、哲学者・適菜収氏は、
1> 政治家の役割は、こうした民意の暴走から国家・社会・共同体を守ることである。
と、結論付ける。これは非常に強い直接民主主義の否定であり、「民意の否定」、「民意による決定・決断の否定」である。
と同時に、非常に強い議会制民主主義の肯定、間接民主主義の肯定でもある。
この「間接民主主義の肯定と、直接民主主義の否定」と言う、一見矛盾にも見える主張の根拠を、哲学者・適菜収氏は以下のように示している。
2> 直接投票で物事が決まるなら知性は必要なくなるからだ。
3> 人類の知の歴史が明らかにしてきたことは、
4> 民主主義の本質は反知性主義であり、
5> 民意を利用する政治家を除去しない限り、文明社会は崩壊するという事実である。
特に上記4>は、先行記事でも取り上げた同氏の「B層グルメ論」にもあい通じるものだが、「一般大衆、不特定多数に知性を期待出来ない/すべきではない」と言う理念であり、一種の選民思想でもある。ある意味「賢者らしい」とも言いえよう。
無論、その理念に猛烈に反発する人も、あるだろうが。
だが、少なくとも、「民意に阿らず、民意の暴走から国家・社会・共同体を守る政治家」は、民主主義の宿敵にして宿痾・宿命とすべからざる衆愚政治に対する防波堤・防御壁たりうると、期待出来る。民意を忖度せず、人気取りに走らず、己が知性と良心にのみ従って議会で議論をし、「過去と未来に責任を持ち、冷静な判断を下す」政治家は、確かに一つの理想である。また、駐留米軍の配置からエネルギー政策まで「何でもかんでも民意で決める」よりは、誤りが少ないと期待できそうだ。
無論、そんな「民意に阿らない議員」を、選挙で選出し続ける限り、であるが。
而して、実在の議員の相当部分は、「民意を集計するIT技術の代用」となる事に汲々としているように思われる。即ち、民意に迎合する政治家・首長の事例は枚挙に暇が無い。
とは言え、「一般大衆、不特定多数に知性を期待出来ない/すべきではない」とするならば、普通選挙制である限り、その一般大衆が選挙で選ぶ議員が「民意反映機関」と化さない保証は全くない。政治家自身に「民意の暴走を止める覚悟と決意」を求めるのは正当と思われるし、石原都知事にそんな片鱗を見出す事も出来るのだが、「悪貨は良貨を駆逐する」じゃ無いが、「民意に阿る議員」は「民意の暴走を食い止める覚悟の議員」を駆逐しそうに思われる。
哲学者・適菜収氏の「『民意に従え』は政治の自殺」と言う主張には大いに賛同するが、「少なくとも選挙の際の選挙民には、一定の知性・理性的判断・正気に返る事、が求められる」のではなかろうか。
さもなければ、『民意』に従う自殺志願の議員ばかりになりそうだ。
ああ、つまりは民主主義国家の命運・将来は、やはり根源的に、国民自身にかかっている、と言う事だ。
如何に、国民。
<注釈>
(*1) 偶に筆者ではなく、編集部がタイトルを決める事があるそうだから、「多分」とした。(*2) とは直接書いていないが、ま、そう言う意味だろう。
<参考>当ブログの民主主義関連記事
(1) 民主主義概論民主主義は絶対善ではない。だが次善ではある。 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/34312605.html
(2)真の民主主義国家は最強である(楽観的観測) http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/23943306.html
(5)「一書に曰く」-日本書紀に見る、異説を排さぬ知恵- http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/21306445.html