「教室で進化論に異議」教師に認める法案、米テネシー州で成立か   http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2870323/8764350
 
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 宗教が科学に優先する」と言うのは、知性と理性こそ人類最強の武器と信じ、逆立ちしたって一神教徒ではない不信心者である私のような人間には想像し難く、且つ耐え難い状態である(※1)。が、歴史的に見ると決して稀有な状態ではない。
 
 有名なところでは西欧の中世に於いて、宗教的学問=神学が最上位の学問とされ、それ以外の学問は自然科学も含めて「神学の下僕」と位置づけられた。数学とて「神の栄光を示すための道具」と考えられた時代である。
 大陸は支那の「アジア的停滞」とも揶揄された状態の一因は、学問とは即ち四書五経なる聖典の丸暗記(※2)であり、それが同時に立身出世の道であった科挙制度にあり、その聖典=四書五経をある種宗教的なものと考え、本来の学問の意味を考えれば、これまた一種「宗教が科学に優先した状態」と言いえよう。ま、正確には「四書五経と言う『宗教』ばかりが偏重され、本来の学問が蔑ろにされた時代」である。「アジア的停滞」もむべなるべし。
 卑近なところでは冷戦時代の社会主義陣営・東側。自然科学を含む学問に「思想性」が求められた(※3)というから、これまた社会主義思想と言う宗教が、通常の健全な、分けても自由な学問に優先された事例と言えよう。
 以前記事にもした通り(※4)科学とは方法論であり、異説とて検証さえされれば無条件に受け入れる、寛容と柔軟性なのである。それ故に、ニュートン力学では説明出来ない事象が、新たなアインシュタイン相対論に拠って説明出来るようになり、一方で相対論が関わらないような事象( 我々が日常接する事象の大半はこちらに属する )はニュートン力学が十分通用するから、機械工学の大半はニュートン力学で設計・製造・作動出来てしまう。常に検証に曝され、鍛えられる点及び検証のルールでは、古典的なニュートン力学も現代的なアインシュタイン相対論も全く同等で平等であるからこそ「科学的」なのだ。
 
 生物学の古典とも言えるダーウイン以来の「進化論」もまた、古典となるまで検証に検証を重ねられている理論だ。それが覆る日が何時の日か来るだろうことは長期的には間違いない(※5)し、検証と言うのはある意味「ダーウイン進化論の(少なくとも一時的な)否定」ではあるのだが・・・
 
 AFP通信が伝えるのは、そんな進化論の米国での教えられ方。まあ、御一読の程を。
 

<注釈>

(※1) と言う事は、逆に言えば現在の日本、私の周囲環境は「科学が宗教に優先している」若しくは「科学と宗教が並存している」状態と言う事になる。幸いにも、と言うべきか。 
 
(※2) それは一種の人文科学、ではあろうが 
 
(※3) それで居てあろうことか、「科学的社会主義」などと称していたのだから、今更ながら度し難い。 
 
(※4) 科学と民主主義   http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/27314702.html 
 
(※5) 無論、人類文明がそれ以前に滅びなければ、だが。但し、人類が現在有する程度(或いはそれ以上の)知性を他の種が引き継ぐならば、彼らが「ダーウイン進化論」を覆すかも知れない。 
 

アシモフよ・・・・アシモフよ・・・・


 さて、如何であろうか。
 
1> 米国で、キリスト教保守派と科学者たちがまたもや衝突している。
 
 何とも刺激的な書き出しだ。「「教室で進化論に異議」教師に認める法案、米テネシー州で成立か」と言うタイトル共々、「科学と宗教の対立と言うのが記事の背景となっているのは明らかだ。
 
 だが、私のような不信心者はいきなり突っ込んでしまう。「科学と宗教じゃ、守備範囲が違うだろう。と。
 
 無論「科学は、少しばかりでは無神論に、極めれば宗教へと人を誘う」とも言う。だが「科学を究める」とは、多分、大学教授になったくらいでは全然足りなくて、アインシュタイン級の大科学者にならないと「宗教へと誘われ」そうにない。つまり私を含む世の大半の人間にとって、科学は「無宗教へ誘う」レベルに過ぎず、「この世の実利実益は科学により、あの世や冠婚葬祭の儀式及び心の問題は宗教による」と言う「棲み分け」が出来ている。少なくとも日本人の相当部分はそうだろうと、私には思われる。だから、「進化論を否定する教育をしろ」と息巻く日本人は極少数だ。尤も、日本におけるキリスト教徒は1割を超えることが無い/超えたことが無いそうだから、「造物主(※1)を含む宗教」の普及率が低い、と言う背景もありそうだ。
 
 さはさりながら、上掲AFP記事の報じるテネシー州で成立しそうな「「教室で進化論に異議」教師に認める法案」とは、以下のような条文で在ると言う。
  
2> 「教員には、生徒が授業で学ぶ既存の科学的学説の長所と欠点を客観的に理解し、分析し、批判し、再検討する手助けをすることが認められる」
3> 「(同法案が)特定の宗教的学説や非宗教的学説を奨励するものと解釈してはならない」
 
 成程、上記2>は明確に科学的学説を(中略)批判し、再検討する手助けをすることが認められるとしており、進化論に限らず一般的に「科学的学説」を「批判・再検討する手助け」を「認めて」居る。確かにこれは、その「科学的学説」を教える立場の教員には異例のこと、ではあろうが・・・先述の通り「異説・異論・新説・奇説も従来の学説も同じルールに則って検証され続ける」のが科学であるから、その意味では「科学的な」態度だ。本来の科学的学説に加えてその批判検証まで教えなければならないのは教員にとって大変そうだが、「理想的な科学教育である」とも言えそうだ。態々上記2>の様に特定の宗教的学説や非宗教的学説を奨励するものと解釈してはならないなんて釘も刺されているから、厳密にこの法律に則る限り、「科学的学説を教える授業」は「進化論を教える授業(多分、生物)」を含めて、長くなることはあってもおかしな事にはならない、筈だ。
 
 だが、AFP通信のタイトルが示し、報じるとおり、この法律はそんな甘い結果にはなりそうにない。
 
4>  ACLUテネシー支部のへディー・ワインバーグ(Hedy Weinberg)代表の説明によると、
5> 法案推進者らは「天地創造説をあまり唱えておらず、むしろインテリジェント・デザイン(Intelligent Design)を主張している」という。
6>  インテリジェント・デザインとは、生命がより高次の知的存在によって設計されたものであることを示す科学的な根拠があると主張する説。
7> 「進化論に異論を唱え、インテリジェント・デザインとネオ天地創造説を教室で教えられるようにするというのは、とても絶妙で賢いやり方だ」
8> とワインバーグ氏は指摘する。
 
 と、AFP通信は報じるから、このワインバーク氏なる人物が言うように、この法案推進者は「進化論にに異論を唱え、インテリジェント・デザインとネオ天地創造説を教室で教えられる」事を望んでいるらしい。だが、その「インテリジェント・デザイン」だの「ネオ天地創造説(※2)」こそ正に上記3>で言う特定の宗教的学説や非宗教的学説であろうが。即ち、上記3>で、その法律の条文そのもので奨励するものと解釈してはならない」と明記されている筈だ。
 
 であるからして、私には上記2>~3>の条文を持つ法律で上記7>進化論にに異論を唱え、インテリジェント・デザインとネオ天地創造説を教室で教えられる」状態にしようと言う同法律推進者の意図が判らない・・・と言うよりは、正気の程を疑わざるを得ない。進化論さえ否定できれば良いか、同法律の内上記3>の条文は無視する/無視されると確信しているのでも無ければ、その主張主旨そのものが成立しない。
 
 さらには、先述の通り「ダーウイン進化論に異を唱える」と言うのはある意味「科学的態度」なのであるが、その「異を唱える」アンチテーゼとして持ち出すのが「インテリジェント・デザインとネオ天地創造説」では全く相手にならない。ダーウイン進化論並みとは言わぬまでも、せめて科学的学説として検証された論理を持ってこなければ、科学的とは言われまい。また、そんな「特定の宗教的学説」を持ち出すものだから、AFP通信に「科学と宗教の衝突」と報じられもするし、教室を科学的学説を教える場(※3)から不毛な神学論争の場へと変じてしまうだろう。
 
 であると言うのに、上記7>「化論に異論を唱え、インテリジェント・デザインとネオ天地創造説を教室で教えられるようにするというのは、とても絶妙で賢いやり方だ」とは・・・ACLUテネシー支部のへディー・ワインバーグ氏とやらが、何を以って「絶妙」とし、何を以って「賢いやり方」とするのか、是非ともご教示願いたいところだ。
 
9>  米非営利団体ディスカバリー・インスティテュート(Discovery Institute)は、
10>「進化論など議論の余地のある科学的問題について、
11> 科学教師らが客観的かつ十全に議論する学問的自由を守り、
12> 良質な科学教育を推進する」ものだとテネシー州の法文を称賛している。
 
 と、同記事はディスカバリーインスティテュートの同法文に対する「絶賛」で〆ている。
 
 確かに、同法文を報じられる範囲で読む限り、前述の通り「高度な科学的授業」となる筈であり、上記10>~12>の「絶賛」に私も同意しうる。
 
 だが、上記10>で言う進化論に限らず、科学的学説なるものは、常に「議論の余地あるもの」として検証され続けるものであり、進化論なりニュートン力学なりの古典的学説は、長い年月その検証に耐えてきた信用と実績がある。それに対し異を唱えるならば、異を唱える方も相応に検証されていてしかるべき。ここで言う検証とは、無論科学的検証だ。
 
 況や、同法文を以ってダーウイン進化論に異を唱えるばかりか「インテリジェント・デザイン」だの「ネオ天地創造説」だのの、似非科学どころか似非宗教を持ち込もうと言う同法律推進者達は、全く非科学的であるとしか考えようが無い。
 
 「非科学的」。日本では相当強い悪口であるこの言葉は、米国では違うらしい。
 
 ああ、アシモフよ、故アイザック・アシモフ老よ。
 貴男が名エッセー「夜の軍隊」で嘆じ、警告したとおり、「夜の軍隊=無知なる大衆」は米国を占領しそうな勢いですぞ。

<注釈>

(※1) 私の知る限り、日本神道の八百万の神は、天地は創造しても動植物は創造していない。人間は「当然のように」八百万の神の子孫であるし、動植物も文字通り神代の昔から存在する。従って、八百万の神は天地創造主ではあっても、造物主ではない。
 とは言え、「だから進化論を受け入れ易い」とは断じ難いんだが・・・やっぱり「造物主様が御造りになったと聖書聖典に明記されて居ると言うのに、『他の種から進化した』とは何事か。神への冒涜だぁ!」と言う事なんだろうか。ウーン、理解できない。興味深いが。 
 
(※2) 何がどう「ネオ(新しい)」のかサッパリ判らないが 
 
(※3) 忘れちゃいけないな。学校が授業で教えるのは、科学的学説の方。この場合はダーウイン進化論の方だ。進化論に対し異説がありうることを教えるのは科学的立場からも正しいが、インテリジェントデザインだのネオ天地創造説だのの「異説」の方を教えるのは、教育機関としての学校の自殺だろう。