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(3.)リスクとリターン
以上の考察の間、私はあくまでも「発電手段」ないし「電力供給手段」としての太陽光発電所と原子力発電所について論じてきた。「電力の安定供給」がエネルギー政策の第一目標である以上、評価項目No1は当然「電力供給手段」としての評価だから、だ。太陽光発電のイメージである「クリーン」とか、昨今の原発のイメージである「危険」とかは、意図的に無視している。「クリーン」も「危険」も、発電量発電力には、直接には全く関係ないからである。
無論、東日本大震災とその後の福島原発事故にて顕在化したその「原発の危険」こそが、「安全神話の崩壊」だの「『絶対安全』の嘘」等と表現され、菅直人を筆頭とする「反原発派」「脱原発派」の隆盛をもたらしている事は私も認めよう。
だが、原発を太陽光発電と同様に「一発電手段」と見なしたならば、その圧倒的優位、特に現状に於ける圧倒的優位は前項の議論で証されたものと確信できる。
では、発電手段としての原発の圧倒的優位は、如何なる「危険」をも圧倒するものであろうか。
Negative、否。「如何なる危険をも圧倒する」なんてものは、世の中滅多にあるものではない。そんな絶対善の例は、原理主義者でなければ見つけることは難しかろう。言い換えれば、原発の発電手段としての優位には「許容しうる危険レベル」がある。この点、私も多くの「反原発」論者、「脱原発」論者達に同意する。
Negative、否。「如何なる危険をも圧倒する」なんてものは、世の中滅多にあるものではない。そんな絶対善の例は、原理主義者でなければ見つけることは難しかろう。言い換えれば、原発の発電手段としての優位には「許容しうる危険レベル」がある。この点、私も多くの「反原発」論者、「脱原発」論者達に同意する。
では、福島第一原発事故で「実証」された原発の危険は、先述の発電手段としての原発の優位性を凌駕するものであろうか。言い換えれば、福島原発事故で実証された原発の危険は、原発という発電手段を放棄するに足るものだろうか。
再びNegative、否。少なくとも私はそう主張する。今回事故を起こすに至った福島第一原発が日本でも有数の古い原発であることも、福島原発よりも震源に近い女川原発が基本的に無傷であり、少なくとも放射性物質拡散という事態は免れている事も判断材料ではある。
また、我が国がドイツど同様に脳天気にも「脱原発」を宣言し原子力技術を放棄したとて、この世には日本製以外の原発を保有しあまつさえ輸出しようと言う国が掃いて捨てるほどあるのだから、日本の「一国脱原発」は「日本発の原発事故を起こさない」程度の効果はあっても、そこまでで、大陸発、半島発、あるいは大陸や半島産の原発事故を免れるものではない。言うまでもないが我が国のある緯度に於いては、高空の風は偏西風であり、季節による強弱はあっても方向はほぼ一定で西風、大陸や半島から我が国土へ吹き付けている。
ああ、無論、大陸や半島に今後も建設されることまず確実な原発が、我が国設計もしくは我が国建造のものとなる可能性は低い。従って我が国が「脱原発」を為して原子力技術を放棄するか否かが、「大陸ないし半島発の原発事故」の発生確率に与える影響は、間接的だろう。
だが、一朝事故が起きたとき。原子力技術を保持する我が国と、脱原発で原子力技術を失った我が国とで、どちらがどれだけ安全か。「どれだけ」は議論の余地はあっても、「どちらが」に疑念の余地はあるまい。
「脱原発を果たしつつ、原子力技術は保持する」という虫の良い選択肢が、一応考えられるが、「考えられる」だけだ。原発がなくては原子力技術を維持する経済的メリットはないから、普通は失われる。「国としては脱原発しつつ、原発の輸出はする」という非常に虫の良い選択肢は、ドイツが選ぼうとして選べなかったそれだ。第一「自国には作らないが、外国には輸出される原発」を買おうなんて酔狂な国は、そうザラにはあるまい。
ならば問題は、先述の原発の発電手段としてのメリットに加え、上記の原子力技術保持のメリットがあるのに対し、原発を維持し運用することによる、今回の福島原発事故のようなリスクを、どう評価するか、である。
それはつまり「リスク」というものをどうとらえるか、にも関わってくる。「安全神話の崩壊」だの「「絶対安全」の嘘」だのと喧伝する向きは、リスクゼロを求め、「絶対安全」を求める傾向にある。また、それらを求めるならば、いかに些細なリスクであろうと「許容しない」事ができるから、我が国設計我が国建造の原発と言えども「リスクがある」として許容しないことができよう。そんな向きが半島や大陸の原発をどう考えるかは・・・聞くだけ野暮か。「大陸や半島の原発由来の放射能ならば身体に良い」と言い出さなければ見つけもの。「大陸や半島にも脱原発を訴えていく」とか何とかお茶を濁すに違いない。北朝鮮の核開発一つ阻止できずに、中国を世界屈指の核大国に放置したままで、その中国を含む半島・大陸に「脱原発を訴え」たとて、「訴える」だけにしか終わるまいに。
さらには、普通に考えれば、安全に「絶対」はない。「より安全」の積み重ねがあるばかりだ。時にその積み重ねは、新幹線のような「創業以来乗客の死者は一人も出していない」と言う不敗の「絶対安全神話」を実現してしまうのであるが、常にすべてにそれが実現できる訳がない。
私に言わせれば、安全に絶対はないし、「絶対安全」を唱える者はそれだけで嘘つきと断言できるし、すべきである。その「絶対安全」を信じればその時点で「安全神話」の誕生であるし、左様な「安全神話」は崩壊するのが普通だ。
況や「安心を政府に求める」或いは「安心を政府に保証させることを認める」なんてのは、狂気の沙汰だ。
安心なんてのは心の問題だ。心の持ちよう一つで、いくらでも「安心しない」事が出来る。「安心するように心を持つ」のは可也の修業が要りそうだが、逆に「安心しない心を持つ」のは誰でも簡単に出来る。それでも「安心を政府に保証させることを認める」と言う事は、政府に無限責任を負わせる事に他ならない。それでは政府は強請られ放題の集られ放題。賠償金の財源何ざぁ、幾らあっても足りるものか。
安心なんてのは心の問題だ。心の持ちよう一つで、いくらでも「安心しない」事が出来る。「安心するように心を持つ」のは可也の修業が要りそうだが、逆に「安心しない心を持つ」のは誰でも簡単に出来る。それでも「安心を政府に保証させることを認める」と言う事は、政府に無限責任を負わせる事に他ならない。それでは政府は強請られ放題の集られ放題。賠償金の財源何ざぁ、幾らあっても足りるものか。
この世にリスクはあまたあるし、生きると言うことはそれらリスクとつきあう事だ。屋外を歩いているときに隕石が当たって死ぬ確率だって、部屋の空気のウチ酸素分子がブラウン運動で一定時間以上自分の周りからなくなって窒息死する確率だって、「ゼロではない」。だからといって前者をおそれて屋外にでないと言うのは愚かであるし、後者に至っては避けようがない。
故に、リスクは、原発事故のリスクも含めて、定量的に評価すべきである。福島原発事故は原発の安全性を高め、リスクを減らす貴重な教訓とすべきである。が、その原発を運用するリスクは、上記のメリットに比べて十分許容可能なリスクである、と、私は主張する。その根拠の一つとして、3.11東日本大震災以前の安全基準と、恐らくは菅直人の「陣頭指揮」と称する現場擾乱、それらによる水素爆発というカタストロフィーの連鎖に関わらず、福島原発事故では未だに誰一人放射能で死んではいない事を挙げよう。
福島原発事故を教訓として、今後原発の安全はさらに高められる。それは、原発の発電コストを押し上げるだろうが、先頃公表された福島原発事故によるその時点の賠償額を繰り込んでも、なお原発は火力発電よりも安価に電力を供給するのである。
人類の英知は脱原発なぞに使われるべきではない。先述の通り、大容量畜放電技術に投資して「再生可能な自然エネルギー」をまともに役に立つ発電手段に育て上げるのも結構だが、当座の安定した安価な電力確保のために原発と原子力技術を放棄すべきではない。
言い換えれば、原発を活用し当面の電力を確保できるからこそ「再生可能な自然エネルギー」を発電の主体と為しうるのであり、ドイツやイタリアのように欧州で「一国脱原発」を宣言するのは、格好は良いかも知れないが、実に無責任な話。それで「再生可能な自然エネルギーの開発に邁進するのはドイツやイタリアの勝手であるが、少なくともフランスの原発にも原子力技術にも感謝こそすれ非難はできないはずだ。
(4.) 脱原発論を越えてー今こそ必要な「入原発」
何しろ、脱原発・反原発論は猖獗を極めている。「猖獗を極める」とは、悪疫とか悪習に対して使われる否定的表現だが、敢えてこう表記する。広瀬隆なんてのは「欧米の原発の事故率に対して日本の原発の事故率が低いのはおかしい」とか何とか理屈にならない理屈を振り回すエセ学者だが、「反原発」では老舗だからまだ一貫性がある。大江健三郎なんてのは文学者としても大嫌いだったが(文章が下手な物書きってのは自己矛盾だと思うぞ )ニワカ脱原発論者と知ってますます嫌いになった。まあ、以前から、好きになるような理由の少ない奴だったが。小林よしのりの「脱原発論」は実はいくらか期待していて、私には珍しいことに週刊誌Sapioを買うことまでしたが・・・2回でやめた。買う価値を認めなかったから。立ち読みでたくさんだと判断したから。
これら猖獗を極める脱原発論・反原発論の一つの特徴は、放射能に対する無知ないし誤解、あるいは曲解である。確かにそれは原発の一大特徴であるし、最近は秋葉原でも放射能計測装置が売れ線になっているそうで、世間一般の関心も高い。なにより、人間は直接には見ることも感じることもできないものだから、その「未知の恐怖」は扇動にはもってこいの材料だ。実際扇動している。
だが、福島原発事故以前ならば「微量な放射線は健康によい」と信じられ、ある範囲で実践されて事を指摘する者は少ない。ラドン温泉とかラジウム温泉とか呼ばれるものがその一例で、少なくともここを訪れる者は「喜々として」放射能を浴びていた訳だ。今反原発・脱原発に忙しい輩は、ラドン温泉・ラジウム温泉などには近づきもしないのかも知れないが、それらの温泉に入り、場合によっては温泉水を飲んだりした者に、深刻な健康被害は報告されていないと言う事実は、否定のしようがあるまい。
これらラジウム温泉・ラドン温泉などの意味するところは、放射能を定性的に、あるいはありなしの「01(ぜろいち)」で論じることの無意味さである。ま、当然の話だ。放射能は微量とはいえ天然自然に福島原発事故も原発も核兵器もはかった頃からあるのだから。従って「放射能ゼロを目指す」というのは、聞こえは良いし、良いキャッチコピーではあろうから商売には良かろうが、健康的にも科学的にも意味がない。むしろ、「放射能がある」被災地や被災地由来品に対する差別を助長し、その復興を妨げる、非人道的言辞だ。
私が、いわゆる脱原発論反原発論を胡散臭く思い、「猖獗を極める」と否定的表現をする理由の一端がこれだ。
以上長々と述べてきたが要約すれば以下のようになろうか
(1)放射能のリスクは、冷静に定量的に議論されるべきであり、感情的・定性的に議論されるべきではない。
(2)放射能のリスクを別にすれば、原発の発電等のメリットは圧倒的である。
故に、今我が国に必要なのは、上記 (1)、(2)を踏まえた冷静で深い議論であり、猖獗を極める脱原発論・反原発論(それは上記(1)を無視している者ばかりだ )ではなく、入原発論ないし新原発論である。
本記事がその入原発論/新原発論の嚆矢となるならば、幸いこれに勝は希有であろう。