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ピアノ販売17年ぶり増加、震災後の買い替え需要
http://www.afpbb.com/article/economy/2857775/8466921
ピアノ販売17年ぶり増加、震災後の買い替え需要
http://www.afpbb.com/article/economy/2857775/8466921
人はパンのみにて生きるにあらず
章題にした「人はパンのみにて生きるにあらず」は、聖書の言葉、だそうである。「神の口から出る一つ一つの言葉によって生かされている」と、続くそうだ。が、再三繰り返すとおり私は逆立ちしたってキリスト教徒でもなければ、一神教徒でもないので、「パン(食物)以外に必要なものが、「神の言葉」かよ!」と、思わず突っ込みを入れてしまう。古代ローマの民主政が衆愚政治に堕し
た時、ローマ市民が求めたものは「(無料の)パンと見世物/サーカス(娯楽)」であったし、社会保障の最低基準とされる「最低限の文化的生活」と言う表現にも「文化的」と修飾語が付くように、「生存の為の最低限の保障=水と食物」以上のモノが、社会保障にも求められていると言う事だろう。無論、そんな保障なんざぁ歯牙にもかけない様な、つまり「生きる為のパン」にすら事欠く政府・政権・国家は、掃いて捨てるほどあるのだが。
翻って我が日本はと言うと、少なくとも「生きる為のパン」には事欠かないように思う。「失業率が高い」と言ってもアメリカの半分だし、その「失業」率の中には「働きたくても働けない」者ではなく「働く気の無い」者が含まれているだろう。何故ならば「働く気の無い者」は働かなくても喰えるのであれば真っ先に「働かなくなる」であろうから、「失業率のベース=下駄」を為すであろうと予測されるからである。そ奴等は就職斡旋が如何に充実しようとも、働く事はあるまいから。
だが、先述の通り、キリスト教徒ならずとも、「生きる」に必要なのは、食物=生命活動の糧ばかりではない。「最低限の文化的生活」とか「神の言葉」とか表現される「食物以上のモノ」とは、詰まる所「心の糧」であろう。それが宗教的な色彩を帯びれば「神の言葉」と表され、私のような不信心者(*1)には「最低限の文化的生活」となろう。
そんな「命の糧」や「心の糧」の心配を、日常には殆どせずに済むのは、我が国の繁栄と安定の賜物であるが、昨年3.11の東日本大震災とそれに伴う津波は、そんな日常を吹き飛ばす一大カタストロフィであった事は確かだ。AFP通信が報じるのはその我が国に於ける3.11東日本大震災後の一点景。
1> 2011年の国内のピアノ販売台数が17年ぶりに前年を上回り、前年比11%増と
なったことがわかった。
2> 静岡県楽器製造協会が13日、発表した。
3> 東日本大震災で壊れたピアノの買い替え需要があったという。
ピアノと言うのは今でも一般家庭では相当高級な家財であろう。場所も取るので、なおの事貴重な家財であるし、同時に今回のような緊急避難時にはとても持ち出せない、重くてデカくて自走しない家財だ。だから、今回の東日本大震災で被災したピアノと言うのが、相応の数に登った事は間違いないし、それが上記3>「壊れ
たピアノの買い替え需要」につながると言うのは、ありうる話だろう。
だが、一寸考えて見てほしい。あなたの家にピアノがあったとして、昨年の3.11東日本大震災と津波でそのピアノが被害を受けたとする。買い替えを考えるほどの被害だ。その震災から1年を経ていない此の時点で、貴方はそのピアノを、買い換えているだろうか。
ピアノが被害を被るぐらいだから、そのピアノを置いた部屋や、家屋も相応の被害が出ているだろう。当該報道記事の写真にある様に、津波で流されて野ざらしと言うのは極端にしても、買い替えしたいと思うぐらいの損害をピアノが受けたのだから。ひょっとすると建て替え、或いは引越しを余儀なくされているかも知れない。少なくとも、仮設住宅に住んでいてはピアノを置くのは難しいだろう。震災以来1年近く経つから、建て替えでも工期は間に合いそうではあるが、建て替えにもピアノの買い替えにも、即断即決に近い迅速さが要りそうだ。それだけの事を、貴方なら為せるだろうか。為すだろうか。
見方を変えて見よう。今回報じられているのは、あくまでも昨年のピアノ販売台数が17年間減少傾向にあったのが増加に転じた、と言うだけである。上記1>「前年比11%増となった」と言うから一寸無視し得ない、有意な差であろうと言えるが、上記3>「東日本大震災で壊れたピアノの買い替え需要があった」と言うのは静岡県楽器製造協会の推定ないし主張にしか過ぎない。静岡県楽器製造協会は商売だから、「何故売れたのか」は相応に分析しているだろうが、分析誤りと言う事はありうるだろう。「東北地方など被災地を中心にピアノの売り上げが伸びた」と言うデータが仮にあったとしても、それが「買い替え需要」であるか否かは、顧客のアンケート回答によるか、当て推量でしか出て来そうに無いし、アンケートが真実を答えている、とも限らない。
何を言いたいのかと言うと、「① 東日本大震災と津波による被災 ⇒ ② ピアノが壊れる(ピアノ以外にも壊れる) ⇒ ③ ピアノの買い替え需要発生 ⇒ ④ ピアノが売れて、楽器製造業者はラッキー」 と言う、単純な因果関係では済まないいだろう、と言う事だ。
端的に言って、ピアノなんてものは、「無しでも済ませられるモノ」。いわば「贅沢品」だ。その「贅沢品」を、東日本大震災後の上記②の状況下で買うというのは、並大抵の事とは思われない。況や、特に被災地で、新たにピアノを買うと言うのは、相当な決断だろう。
東日本大震災と津波と言う、有史以来ではないようだが「千年に一度」とは言いうる大災害を被って1年も経たぬ内に、「ピアノを買おう」と決心し、実行する日本人、なかんづく東北人が相当数居た事を、AFPの報道は伝えている。
そんな「決断」を東北人に為させたものは何だろう。東日本大震災と津波と言う大災厄を被り、兎も角命の糧、生計の道は確保できたであろう被災者達が、「ピアノ購入」に踏み切った理由は。
それが「心の糧を欲したから」ではなかろうか、と私は考える。想像ないし推測するだけだ。断言するつもりも主張するつもりも無い。そんな材料は持ち合わせていない。章題に「人はパンのみにて生きるにあらず。」と、ガラにもなく聖書を引用して見せたのも、その推測故だ。
それと同時に、その「推測」に、東北人の、ひいては日本人の、強靭さを感じたが故に、記事のタイトルを「地震にも負けず」とした。
楽観的、ないし主観的な想像である。空想或いは妄想と言うべき、かも知れない。
だが、もし此の「推測」が当たっているならば・・・東日本大震災と言う大災厄が新ためて照射した、我が日本の、日本人の、誇るべきありようの一つに追加できよう。
くどい様だが、事実としてわかっているのは「昨年一年のピアノの売り上げが17年ぶりに増加に転じた。」と言うだけであり、どうも「東日本大震災の被災地で特に増加した」らしい、と言う事だけである。「東日本大震災で壊れたピアノの買い替え需要」と言うのは静岡県楽器製造協会の分析ないし主張に過ぎないし、況やそれを「被災地の我が国民が心の糧をピアノに求めたから」と言うのは私の想像にしか過ぎない。第一、「ピアノが、日本人に、被災地の人たちに、心の糧を提供しうる(と思われている)」と言うのが前提になっている。一般論としてはそう間違っていないと思うが、「日本人に」「被災者に」と限定すると、疑念無しとはしない。
だが、私は楽観主義を心がける愛国者なのでね。上記のような想像を巡らす訳だ。
真実や、如何に。
<注釈>
(*1) 間違っちゃぁいけないんだが、不信心ではあっても、無神論ではない。日本
人は一般的に「不信心」と言うよりは「多信心」であり、宗教的無節操であるか
ら、根っこの所に無意識にまで至る日本神道を抱えながら、クリスマスに「きよし
この夜」を歌い、年末に第九を聞き、結婚式を教会で挙げてもなんら怪しまな
い。そう、先日あった「聖ヴァレンタインの日」もそうだな。