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チベット人僧侶また焼身自殺、1年で15件に  http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2849715/8274033
 
 AFP通信が報じるは、「中華人民共和国」に於けるチベット人僧侶の焼身自殺が此の1年で15人を数えたと言う報道。毎月以上のペースでチベット人僧侶の焼身自殺が続いている事を伝えている。
 
 「中華人民共和国」に於けるチベット人僧侶焼身自殺については、以前にも記事にした(*1)。中国側公式発表の木で鼻をくくったような、良く言えば現実的、中立的には共産主義的、端的には即物的俗物的にして生物学的「生」しか理解できない不具を大いに批難した記事だ。
 
 それは、裏を返せば未だ焼身自殺を続けているチベット僧侶達に対する感情移入ないし理解を、私が抱いていることを意味する。
 
1>  英ロンドン(London)に本部を置くNGO「自由チベット(Free Tibet)」によると、
2> 目撃者の話では、22歳の男性は体に火をつける際、
3> チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ(Dalai Lama)の帰還を訴えていたという

 
と、報じられているのだからなおさらだ。これまた何度も記事にしているが、私はダライ・ラマ師を尊敬している。私自身は日本人の典型的なことに形ばかりの仏教徒兼日本神道信仰者であり、宗派はダライ・ラマ師とつながっていないが、そんな「宗教の違い」は私がダライ・ラマ師を尊敬する障害にはならない(*2)。
 さらに言うならば、「中華人民共和国」に対する私の批難・批判は、上述の俗物根性に止まらない。経済発展と軍備拡張に裏打ちされた中華思想の実害は、毒入り餃子事件、長野占領、尖閣沖「漁船」体当たり攻撃と、エスカレートこそすれ抑制の兆しさえないのだから、当然だ。
 
 だが、私の「中華人民共和国」批判は、単なる批判でしかない。
 
4>  「自由チベット」のステファニー・ブリグデン(Stephanie Brigden)代表は、
5> 14人もの人々が焼身自殺を図ったことは外国政府に対する「痛烈な批判」であり、「国際社会は対応に失敗した」と声明で訴えた。
6> 「こうした抗議行動は、世界の指導者たちがチベットの絶望的な状況に見て見ぬふりをする限り続くだろう」
 
 タイトルにもした通り、チベット人僧侶達は、文字通り自らの生命を賭して(*3)、国際社会に訴えているのである。
 
 ところで・・・
 
 今回の記事では、一昔前の北朝鮮を一々「朝鮮民主主義人民共和国」と呼び習わしたの如く、大陸は支那のことを一々「中華人民共和国」と、態と表記した。
 
 その意味するところ、意図するところにお気づきであろうか。
 
 現状、「中華人民共和国」は、尖閣諸島から沖縄へ向けての領土的野心を明らかにし、以前から併呑を狙う台湾・中華民国ともども帝国主義的野心をあからさまにしている(*4)が、チベットやウイグルなどは「既に併合されてしまった国民」である。チベットや言うぐるなどは、現状「中華人民共和国」に併呑されて、AFP通信報じるとおり
 
7>  中国では多数派の漢(Han)民族がチベット人の歴史的居住地域に移住を進めており、
8> 国内の多くのチベット人が政府による宗教弾圧や文化抹消の行為だと批判している。
9> だが中国側は、チベット人は信教の自由を享受しており、また巨額の投資によって近代化がもたらされ、生活水準が向上したと主張している。
 
と、中国側に主張されている訳だが、歴史的に見ても、宗教的に見ても(*5)チベットやウイグルが漢族に支配される理由はない。言い換えれば、チベットやウイグルなどが「中華人民共和国」の一部とされていることは、歴史的誤りであり、バルト三国がソヴィエト連邦から独立したように、分離独立するのが道理である。
 
 故に、「中華人民共和国」と、国名に「」(カギ括弧)をつけて表記したのである。それは、「まともな国ではない」と表現する為に。
 
 生きてだに、死したる人の多き世に
  死して生きたる、君ぞ尊き
乃木大将殉死に際し、与謝野晶子が詠んだ歌(多分)―
 

<注釈>

 
(*2) これまた、「極めて日本的=宗教的に無節操」と承知しつつ。その「宗教的無節操」が如何に有り難い事かを、知るが故に。 
 
(*3) 「不退転」とか「命を賭けて」とか、散々繰り返すくせに、なんら為すところなく、議員を辞めることすらしないような奴バラは、爪の垢でも煎じて呑むが宜しかろう。 
 
(*4) かつて、米ソ両大国を指して「覇権主義」などと非難していたくせにな。ま、例に拠って例のごとくのご都合主義的ダブルスタンダードなのだが。大陸に「覇者」ならぬ「王者」・君子が君臨したことなぞ、神代の昔・堯舜帝の時代にしかないのだから。 
 
(*5) 共産党政権下の「信教の自由」なぞ、「思想の自由」と同じぐらいあてにならない、どころか、「無い」と断言してしまってさして誤りにはならない。