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当ブログをある程度読まれた方にはわかろうが、私の主張と産経の主張とは、あい通じることが多い。それは、三赤新聞=朝日・琉球新報・沖縄タイムスの主張と私の主張が大抵対立するのと同じぐらい確かなことだ。その一例を挙げれば、先行記事にした「前沖縄防衛局長のオフレコ酒席での発言を暴言として琉球新報が報道した件を」を斬ったコラム・産経抄を支持した以下の記事である。
産経抄、美事に斬る-防衛局長「犯す前に、犯すと言うか」発言 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36383864.html
が、この産経抄を受けてのことであろうか。東京新聞のコラム「私説・論説室から」が「オフレコ破りを支持する」と銘打って一文を載せている。
これは看過もなるまい。
これは看過もなるまい。
断っておくべきだろう。私と産経新聞に直接の共通利益は無い。私は産経新聞の購読者である事は認めるが、株主でも無ければ、従業員でもない。主張が一致する事が多いのは、「他人ながらも気が合う」からに過ぎない。それでも、こんなタイトルで東京新聞にコラムが掲載されれば「コリャ私に喧嘩を売っているね」と感じ、嬉々としてその喧嘩を買ってしまうのである。
本記事のタイトルを「産経に代わりて」としたのはそのためだ。「不義を討つ」のではなく、「産経に代わりて、喧嘩を買う」ためである。
ではその喧嘩相手、東京新聞コラムを御一読願おうか。
ああ、東京新聞コラム御一読の前に、上記URLに転載した産経抄及び私の記事を御一読願えれば、さらに幸甚である。
本記事のタイトルを「産経に代わりて」としたのはそのためだ。「不義を討つ」のではなく、「産経に代わりて、喧嘩を買う」ためである。
ではその喧嘩相手、東京新聞コラムを御一読願おうか。
ああ、東京新聞コラム御一読の前に、上記URLに転載した産経抄及び私の記事を御一読願えれば、さらに幸甚である。
転載開始=========================================
【私説・論説室から】
オフレコ破りを支持する
防衛省の沖縄防衛局長が記者とのオフレコ懇談で不適切な発言をした問題で更迭された。沖縄の歴史や米軍普天間飛行場移設問題を考えれば、政府高官の発言はまったく不適切であり、更迭は妥当である。そして「オフレコ」とされたにもかかわらず、第一報を書いた琉球新報の判断も正しかったと思う。新聞の側には「記者と情報源の信義を守るべきだ」という理由で、オフレコ破りは許されないという意見もある。だが新聞にとって、もっとも大事なのは読者に対して「なにを報じるのか」ではないか。私はオフレコ問題について、次の例を挙げることにしている。「実は、もう戦争に負けているんだ」とか「もう原発は炉心溶融を起こしているんだ」と記者がオフレコで役人から聞いたとき、どうするか。答えは「書く」。理由は簡単だ。それは読者に伝えるべき情報であるからだ。たとえ役人に「おまえとは二度と会わない」と言われようと、そんなことは記者が悩めばいい話である。なぜ役人との信義を守るべきかと言えば、相手に信頼されたいからだろう。突き詰めて言えば「次の情報がほしいから」だ。それは自分の商売の話である。「人間として信義則は当然」などとキレイな言葉で語られたりもするが、一皮むけば仕事上の計算も入っている。それよりも読者との信義がはるかに重要であると考える。(長谷川幸洋)
=================================転載完了
姑息な論点ずらし?―コリャ、喧嘩にならんぞ
さて、如何であろうか。
率直に言おう。「拍子抜け」。あまり面白くない。というより、つまらない。
元来「オフレコ情報をどう扱うか」と言うのはジャーナリズムにとって永遠のテーマとは言わないまでも、宿命的課題ではあるのだ。さはさりながら、先行する産経抄が強調した「信義」は、確かに取材対象との信義ではある。一方東京新聞の主張は、
1> 新聞の側には「記者と情報源の信義を守るべきだ」という理由で、オフレコ破りは許されないという意見もある。
2> だが新聞にとって、もっとも大事なのは読者に対して「なにを報じるのか」ではないか。
率直に言おう。「拍子抜け」。あまり面白くない。というより、つまらない。
元来「オフレコ情報をどう扱うか」と言うのはジャーナリズムにとって永遠のテーマとは言わないまでも、宿命的課題ではあるのだ。さはさりながら、先行する産経抄が強調した「信義」は、確かに取材対象との信義ではある。一方東京新聞の主張は、
1> 新聞の側には「記者と情報源の信義を守るべきだ」という理由で、オフレコ破りは許されないという意見もある。
2> だが新聞にとって、もっとも大事なのは読者に対して「なにを報じるのか」ではないか。
として、「読者との信義」を取材対象=情報源との信義よりも優先すべきと主張し、「オフレコ破りを支持」している。
だが、産経抄を先行御一読いただいていれば明らかだろうが、産経抄の主張は盲目的な「オフレコ破りは許さない」ではない。オフレコを宣言され、其処への同席を許されたのだから、その席でオフレコにしかねる情報・発言があったならば、オフレコに出来ない事を宣言し退席すべきだった、と、「オフレコ破りの作法」を示している。
私の先行記事と来たら更に慎重で、琉球新報記者はひょっとすると産経抄示す「オフレコ破りの作法」を実践したかも知れない、と前置きしつつ、実践していないならば「朝日の子分ならそんなモノ」と、はっきり言って、馬鹿にしている。
勿論、東京新聞の長谷川幸洋記者は、当該産経抄を読むことなく(*1)このコラムを書いている可能性はある。単純に、作法などと言う付帯条件は付けずに、「オフレコ破り」の是非だけを論じ、「読者との信義」の前には「オフレコ破りを支持する」と、琉球新報の名前まで挙げて支持しているのだから、考えられるケースは二つだ。
(1) 琉球新報は、産経抄示した「オフレコ破りの作法」を実践した、ないし実践したものと東京新聞は考えている。
(2) 「オフレコ破りの作法」よりも「読者との信義」が優先されるから、その場で何も言わずに後にオフレコ情報を記事にした琉球新報を支持する
もし上記(1)であるならば、産経抄と東京新聞「私説・論説室から」との間には何の対立も矛盾も無い。私も当該コラムを斬る理由がなくなる。唯、当該コラムからは、「琉球新報記者はオフレコ破りの作法を守った」と言う事が全く読み取れず、上記(1)東京新聞の考えが読めないだけだ。
もし上記(2)であるならば、こちらは産経抄と「オフレコ破りの作法」について東京コラムは決定的に対立しており、私も「斬る理由」が充分にある。先行記事にもした通り、作法すら守らぬオフレコ破りは、取材対象・情報源との信義にもとるばかりではない。事実上オフレコ取材そのものを否定する、ジャーナリズムの自殺である。東京新聞や琉球新報がジャーナリズムとして自殺するのは、言わば両紙の勝手であるが、その自殺に巻き込まれて、オフレコ取材と言うものが成り立たなくなるのは、正統なジャーナリズムとしては大問題だ。
故に、「読者との信義をオフレコ破りの作法より優先する」新聞社は、その旨明言すべきである。そうであれば取材対象=情報源としては、左様に明言する新聞社を除いた席で、オフレコ発言を行い、まともなオフレコ取材は可能であろう。
言い換えれば、今回問題となった前沖縄防衛局長を囲む形の「オフレコ酒席」での琉球新報記者の行動に拠って、上記(1)と上記(2)の判別は出来るのだから、東京新聞は「読者との信義をオフレコ破りの作法より優先する」新聞社と自ら宣言したか否かも判定できる訳だ。
朝日や毎日、読売、沖縄タイムスのような、「読者との信義をオフレコ破りの作法より優先」しそうな各紙も、是非とも東京新聞を見習って、いずれであるか明言して欲しいものだ。無論、明言した以上は、それを守るもまた、信義である。
ところで、もし上記(2)が正しいのならば・・・
> 「人間として信義則は当然」などとキレイな言葉で語られたりもするが、一皮むけば仕事上の計算も入っている。
> それよりも読者との信義がはるかに重要であると考える。
私の先行記事と来たら更に慎重で、琉球新報記者はひょっとすると産経抄示す「オフレコ破りの作法」を実践したかも知れない、と前置きしつつ、実践していないならば「朝日の子分ならそんなモノ」と、はっきり言って、馬鹿にしている。
勿論、東京新聞の長谷川幸洋記者は、当該産経抄を読むことなく(*1)このコラムを書いている可能性はある。単純に、作法などと言う付帯条件は付けずに、「オフレコ破り」の是非だけを論じ、「読者との信義」の前には「オフレコ破りを支持する」と、琉球新報の名前まで挙げて支持しているのだから、考えられるケースは二つだ。
(1) 琉球新報は、産経抄示した「オフレコ破りの作法」を実践した、ないし実践したものと東京新聞は考えている。
(2) 「オフレコ破りの作法」よりも「読者との信義」が優先されるから、その場で何も言わずに後にオフレコ情報を記事にした琉球新報を支持する
もし上記(1)であるならば、産経抄と東京新聞「私説・論説室から」との間には何の対立も矛盾も無い。私も当該コラムを斬る理由がなくなる。唯、当該コラムからは、「琉球新報記者はオフレコ破りの作法を守った」と言う事が全く読み取れず、上記(1)東京新聞の考えが読めないだけだ。
もし上記(2)であるならば、こちらは産経抄と「オフレコ破りの作法」について東京コラムは決定的に対立しており、私も「斬る理由」が充分にある。先行記事にもした通り、作法すら守らぬオフレコ破りは、取材対象・情報源との信義にもとるばかりではない。事実上オフレコ取材そのものを否定する、ジャーナリズムの自殺である。東京新聞や琉球新報がジャーナリズムとして自殺するのは、言わば両紙の勝手であるが、その自殺に巻き込まれて、オフレコ取材と言うものが成り立たなくなるのは、正統なジャーナリズムとしては大問題だ。
故に、「読者との信義をオフレコ破りの作法より優先する」新聞社は、その旨明言すべきである。そうであれば取材対象=情報源としては、左様に明言する新聞社を除いた席で、オフレコ発言を行い、まともなオフレコ取材は可能であろう。
言い換えれば、今回問題となった前沖縄防衛局長を囲む形の「オフレコ酒席」での琉球新報記者の行動に拠って、上記(1)と上記(2)の判別は出来るのだから、東京新聞は「読者との信義をオフレコ破りの作法より優先する」新聞社と自ら宣言したか否かも判定できる訳だ。
朝日や毎日、読売、沖縄タイムスのような、「読者との信義をオフレコ破りの作法より優先」しそうな各紙も、是非とも東京新聞を見習って、いずれであるか明言して欲しいものだ。無論、明言した以上は、それを守るもまた、信義である。
ところで、もし上記(2)が正しいのならば・・・
> 「人間として信義則は当然」などとキレイな言葉で語られたりもするが、一皮むけば仕事上の計算も入っている。
> それよりも読者との信義がはるかに重要であると考える。
この東京コラム〆の一文は、実に奇怪である。「読者との信義」と言うのは、つまるところは販売部数とも言えよう。であるならば、「読者との信義」と言うのも「キレイな言葉」であり、「一皮むけば仕事上の計算」であろうに。
如何に、東京新聞。
如何に、東京新聞。
<注釈>
(*1) 或いは読んでいても「オフレコ破りの作法」指南は無視して、