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東京新聞に対して、私が一家言もニ家言もあることは、当ブログをある程度読まれてて居る方(*1)には明らかであろう。が、今回東京社説は、先ずは虚心坦懐ご一読願いたい。
私の一家言、ニ家言、三家言は、後で出て来るのであるから。
<注釈>
(*1) 「そんな奇特な方がどれくらいあるかはさて置き」って常套句も飽きて来たが、ここの所アクセス数は一日三桁行かない日も多いから、少ないのは事実であろう。「現実認識は戦術の第一歩」である。
転載開始=========================================
東京社説 放射線を教える フクシマを忘れずに
Tweet 2011年11月28日福島第一原発事故をきっかけに、学校でどう放射線を教えるかが問われている。正しい知識の欠落は偏見や差別の温床にもなりかねない。「フクシマ」の現実を思いつつ学ぶ授業を期待したい。
ナガサキでの被爆体験の語り部を続けている横浜市の米田チヨノさん(85)は、心を痛めている。フクシマの人々が、冷たい仕打ちに遭っていると耳にしたからだ。
子どもが転校先で「放射能がうつる」といじめられた。大人でさえ宿泊を拒まれたり、診察を断られたりと、やりきれない出来事が相次いだ。
米田さん自身のつらい記憶と重なった。かつて近所におすそ分けしたレンコンが「原爆がうつる」と捨てられたり、丈夫な子を産めるのかと先方に不安がられ、娘の縁談が壊れたりした。
「放射能を知らないから心配になる。きちんと教えてほしい」と米田さんは言う。被爆者としての切実な思いが伝わってくる。
唯一の被爆国なのに、原発の有用性や安全性ばかりを強調する教育が進められてきた。一方で、世論が大きく割れるようなテーマゆえに、学校での突っ込んだ授業は敬遠されがちだった。
子どもが原子力や放射能と真正面から向き合う機会は乏しかった。フクシマの厳しい現実に直面し、ようやくその過ちに社会全体が気づいた。それが実情だろう。
中学校の理科では来春から放射線の授業が本格化する。医療や農工業への活用という主に利点を学ぶ。原発事故を受けて理科や社会などの教科書の記述を見直す動きも出ている。
文部科学省は小中高生向けの副読本を作った。放射線の効用と併せ、被曝(ひばく)による人体への影響や身を守る方法を紹介している。
けれども、フクシマの惨状や原発の限界といった目の前の生々しい問題はほとんど取り上げられていない。これでは地元の先生や親、子どもはどう感じるだろう。
日本環境教育学会は授業案を提供している。故郷を追われた人々の苦悩や、食品や土壌の放射能汚染の広がりを見つめ、偏見や差別、将来のエネルギー政策を考える取っかかりを与える。
担当した小学校の先生は「抽象的な知識を頭に入れるだけでは意味がない。現実に対応し、未来を描く力を育みたい」と言う。
フクシマが問いかけるものと向き合いつつ原子力や放射能を学ぶ。乾いた科学の知識に血を通わせるような営みが大切だ。
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科学は「乾いている」のが当たり前だ
さて、如何であろうか。
当該社説はタイトルを「放射線を教える」と銘打っている。チョイと意外なようだが、私も放射線教育には、特に初等教育には大賛成である。だから、当該社説の前半部分は珍しいぐらいに東京社説と私の意見とは一致している(*1)。即ち、「放射線に対する無知が偏見を生み、福島差別を惹起している。故に、正しい放射線知識が必要であり、放射線教育が必要である。」と言う論理には、「我が意を得たる想い」と言っても良いぐらいだ。
そうは言ってもこれは東京新聞の社説だ。東京新聞始めとするマスコミ各社がオッペケペーな放射能や放射性物質に対する無知をものともせずに煽った放射線ヒステリーが福島差別を助長しているのだから、どの面下げてこんな正論を東京新聞が吐けるのか、とも思う。だが、「反省なき転向」はマスコミの伝統であるし、本件に関する限り、その「転向」は「反省なき」でも「転向」しないよりはマシか、と思われた。
そう、次のパラグラフまでは、だ。
1> 文部科学省は小中高生向けの副読本を作った。
2> 放射線の効用と併せ、被曝(ひばく)による人体への影響や身を守る方法を紹介している。
その次のパラグラフから、いよいよ東京新聞は本領を発揮する。最後の最後のパラグラフで論旨を捻じ曲げた、先行記事にした毎日社説(*2)よりはまだマシかも知れないが。
3> けれども、フクシマの惨状や原発の限界といった目の前の生々しい問題はほとんど取り上げられていない。
4> これでは地元の先生や親、子どもはどう感じるだろう。
逆に言えば、東京社説は放射能教育について、「フクシマの惨状や原発の限界といった目の前の生々しい問題」を取り上げろと言っている。それは何かと言うのが次のパラグラフだろう。
5> 日本環境教育学会は授業案を提供している。
6> 故郷を追われた人々の苦悩や、食品や土壌の放射能汚染の広がりを見つめ、
7> 偏見や差別、将来のエネルギー政策を考える取っかかりを与える。
「日本環境教育学会の授業案」として巧妙に責任は回避しているが、ここでいう①「故郷を追われた人々の苦悩」②「食品や土壌の放射能汚染の広がり」を教えろ、と言う事である。
此の内①は間接的ながら放射線教育ではあろう。「原発事故」と言う事態の影響の大きさが実践されたのだから、その避難地域の広さだとか、避難期間の長さだとかに相当な安全係数がありそうだから、科学的とは言い難いが、避難していることの影響を受けているのは事実であるから。
だが、②はどうか。なるほど出荷停止になった農産物、畜産物はある。検出されたホットスポットはある。食品については「国の暫定基準を超えた」のが問題視されての出荷停止であるが、「国の暫定基準を超えた」と言うのが如何なる意味を持つかと言うのが正しく放射線教育であり、それは「その汚染された食品を毎日常食したら健康に影響あるかも知れない」でしかなく、偶々食ったとか、お土産か何かで数回食った所で「屁でもない」と言う事を正しく教えるのが科学的放射能教育である。
「土壌の放射能汚染」も同様だ。あちこちで見つかったと報じられる放射能スポットが、何十年前から違法投棄されていた放射性物質が原因であったりするのは、その程度の放射能がその程度の範囲に影響したところで福島原発事故とは何も関係ない、と言う事であり、天然自然にも放射能はあるということである。
言い換えれば、「偏見や差別の根拠となるような放射能汚染は今回福島原発事故でも起きていない。」と教える事こそ、科学的放射能教育である筈だ。
だが、東京社説は次のように当該社説を〆る。
8> 担当した小学校の先生は「抽象的な知識を頭に入れるだけでは意味がない。
9> 現実に対応し、未来を描く力を育みたい」と言う。
10> フクシマが問いかけるものと向き合いつつ原子力や放射能を学ぶ。
11> 乾いた科学の知識に血を通わせるような営みが大切だ。
上記11>「乾いた科学の知識に血を通わせる」実に上手い言い回しだ。上記8>~9>「抽象的な知識を頭に入れるだけでは意味がない。現実に対応し、未来を描く力を育みたい」 と言う言い方も実に巧妙だ。「血を通わせる」のが「フクシマの惨状」であり、「現実に対応」が「食品や土壌の放射能汚染の広がり」なのであろう。
だが、章題にもした通り、科学と言うのは本来感情や情念の入り込む余地はない。数値であり、データであり、乾いているのが当たり前だ。
そうであればこそ、「正しい放射線知識」を有していれば、昨今の放射能パニックにも理性と知性で対処でき、福島差別などと言う唾棄すべき状態にも陥らずに済むのである(*3)。
現状までに検知検出された食品や土壌の放射能汚染に対して「騒げ」と教えるようでは、放射線教育と呼ぶに価しまい。
<注釈>
(*1) ああ、「社説を斬る」シリーズにならないぐらいに。(*2) 蛇足か、本音か―毎日社説「米部隊の豪駐留 日本も重層的な安保で」を笑う http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36339686.html(*3) 無論、「正しい知識」の他に「冷静な判断」も必要ではあるが。知識は、判断の補助材料にはなるが、判断そのものにはならない。