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先行記事にもした通り、天才落語家にして落語界の革命児・立川談志師匠が亡くなられた。享年75歳。自らつけた戒名は、「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」と言う。死後まで洒落を利かそうと言うのは、国会議員を努めると言う異色の経歴と毒舌で知られ、生前から半ば伝説化していた談志師匠に相応しいと、私には思われる。
談志が死んだ―大落語家・立川談志師匠死去 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/36335966.html
「暗いニュースばかりだ。」と言うのは、良いニュースである。 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/folder/1106014.html?m=lc&p=16
立川談志師匠が天才落語家であったという事は、恐らく衆目の一致するところであろう。独自に「立川流落語」を創設した反骨精神を「落語界の革命児」と呼ぶのも、異存ある者は少なかろう。
だが、私は、立川談志師匠に、「革命児」以上のモノ、「理想的革命家」を見出すのである。
ま、暫時お付き合い願おうか。
(1.)体制派から見た反体制派
予め断っておくべきだろう。私は基本的に体制派の人間だ。(*1)
より正確に言えば「『反体制派』と言う奴を先ず疑ってかかる」人間だ。
「苛政は虎よりも猛なり( ひどい政治は虎よりも害がある)」と言う。だが、無政府状態は大方の苛政よりも酷い状態を現出する。無政府状態は「政府の権限・権威が及ばない」状態であるから、ある意味「自由な」状態であるが、それは同時に無法地帯と言う事である。性善説に従うならば、無法地帯でも秩序は保たれそうである(*2)。だが、基本的に性悪説を支持する私は、そんな無法状態は、無法者の跳梁跋扈に帰着するに違いないと断じる。それは「大方の苛政よりも酷い状態」である、とも。
現存する体制は、そんな無政府状態=無法状態に陥る事を防いでくれる。他方「反体制派」は、一時的にであれ長期的にであれ上述の無政府状態=無法状態を甘受しなければ「反体制派政権への移行」=革命/クーデター/政権交代は成就しない。平和的な政権交代ぐらいならば、無政府状態の期間は極限出来て無法者が跳梁跋扈する前に無政府状態を終らせる事が期待しうるが、革命やクーデターでは、普通はそうは行かない。無血革命であっても相当に危うい事になる。
<注釈>
(*1) 急いで付け加えるが、私は今の日本の民主主義体制は、欠陥はあると承知しつつ支持している。その意味で「体制派」である。が、散々記事にもしている通り、民主党は野党時代から大嫌いであり、現民主党政権は野党時代よりもさらに嫌いであり、「反民主党政権」派ではある。今、民主党が政権与党の座にあるのが、正しく日本の民主主義体制が一定範囲で有効であった結果である事を承知しつつ。(*2) 東日本大震災直後の被災地に、そんな性善説の事例を見出せることには私も同意する。だが、世界全体や世界の歴史を通じては、そんな事例は誠に稀有である。稀有であるが故に、東日本大震災直後の被災地、ひいては現代日本は、尊重すべき状態であることにも同意する。が、そんな尊重すべき状態に、依存すべきでもなければ、普通は期待すら出来ない。
(2.)「革命家」たる条件
であるならば、反体制を標榜し、現体制の打倒を目指す者は、無政府状態=無法状態に陥る期間を極限する事に意を用いるべきである。そのためには、無血革命のような混乱の少ない政権移譲に留意するのもさることながら、「反体制」政権確立後の新政府・新体制について、明白なビジョンが必要な筈だ。言い換えれば、「反体制派」は単に「現体制に反対する者」と言うだけでは不足であり、明白な新体制を思い描けており、そのための手段を具体化しておくのが、少なくとも理想的だ。
言うなれば反体制派は「不平家」と言うだけでは全く力不足で、「革命家」でなければならない、少なくとも「革命家を目指す」可きなのである。
一方で「反体制」「反主流」と言うのは、見方によっては格好良いものである。既存の体制を非難するのであるから、大抵は「新しい」ものであるし、「新しい」理論で既存の「古い」権威を批判するのには、「仕分け人」にあい通じる痛快感もあろうから、ともすると、「ヤクザや不良が女にモテル」なんてぇ事になり、あまつさえ「硬派(*1)」等と呼ばれる事もあるようだ。
その結果、なのであろうか・・・ポーズとして、ファッションとして、口先だけで身命を賭さずに、「反体制」を気取る者は多い。否。そんな「反体制」、「革命家ならずして、なろうともしない反体制派」が大半であると断じるのが、先述の通り私をして「『反体制派』と言う奴を先ず疑ってかかる」人間たらしめているのである。
つまりは私が体制派であるのは、「自称・反体制派」への不信の現れであり、暁天の星の如く希少な「革命家」の故(*2)、なのである。
<注釈>
(*1) 私に言わせるならば、反体制を標榜して「硬派」なんてぇのは、笑止千万なのである。(*2) 、而して、銀河中心部よりもまだ多そうな「自称・反体制派」の故
(3.)大落語家・立川談志の反骨
上述の「反体制」観及び「革命家」観を以って、今は亡き立川談志師匠の生涯を顧みるならば、其処に現出するのは口先ばかりの「自称・反体制派」ではありえない。毒舌家としても知られる談志師匠であるから、不平家であることは確かであろうが、不平家に止まろう筈がない。
その証左が、柳家小さんと言う、これ以上の体制派もあまり居なさそうな大師匠を頂きながら、出奔して設立してしまった「立川流落語」であり、その家元として育て上げた立川流一門である。言わば、現体制に飽き足らずに国外逃亡し、独立国を建国してしまったようなものだ。口先ばかりの「自称・反体制派」では為し得ないことである。況やその独立国が一定の繁栄を見せている処が、スローガンしかなくて実行・実績と言えば暴徒化ぐらいしかない「オキュパイ」運動=「反格差」デモとは大違いであり、「理想的革命家」と私が断じる所以である。
重複になるが、私が立川談志師匠を「理想的革命家」とするのは、① 口先やポーズばかりの反体制ではなく、自ら立川流落語を創設し、 ② 立川流落語家元として後進の育成にあたり、 ③ 立川流落語で育った後進が一定以上のの活躍を見せて いるからである。「落語界の革命」であるから、銃弾飛び交う流血の事態とは程遠いし、また元の師匠であり破門された柳家小さん師匠との関係も不思議な友好関係であったようだが(*1)、それは「理想的革命家」としての立川談志師匠の功績を、貶めるものではあるまい。
<注釈>
(*1) 「真に戦う者同士は、真の敵同士ではなく、友達だ。」―マサイ族の諺(だったと思う)―
(4.)星を継ぐ者
その「理想的革命家」立川談志はこの世を去り、「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」と言う、洒落は利いているが仰々しい名前で呼ばれるようになってしまった。先述の通り、彼が引き起こした「落語界の革命」は、それこそ「一定の目処を得」ているのだから、スーパーゾンビ菅直人と言えども引退出来るようなタイミングではあるが、スーパーゾンビと違ってこの世から引退してしまった談志師匠(*1)は、最早お遍路も何も出来ず、「今度は落語の革命!?」などと言う芸能音痴の落語好き(*2)の期待も、虚しいものとなってしまった。
そう、最早「理想的革命家」立川談志師匠がその革命家ぶりを発揮して、理想的な革命を遂行する事は適わない。
だが、彼の遺志を継ぐことは出来る。
或いは、彼が実践して見せた「理想的革命」に学ぶ事なら、彼のような天才ならざる凡人にも、そう、私にも、可能であろう。彼のように「理想的革命」を遂行する事は可也期待薄であるし、第一、私がなしたい、為せそうなのは「落語界の革命」とは全く異なるものとなろうが。彼に学び、実践するならば、ある意味「彼の遺志を継いだ」事にもなろう。
未来は、楽観主義者のものなのだから。
悲観主義者では、新たな未来に到達する前に、力尽きるか挫けてしまう。
新たな未来を切り開き、其処に至ることが出来るのは、楽観主義者だけだ。
而して、立川談志師匠・戒名「立川雲黒斎家元勝手居士」の為した「理想的革命」は、楽観主義を抱くに充分な根拠である。
我々は、立川談志師匠の魂魄と共に前進する。
前へ!
「ならば、行って我らの正統な遺産を要求しようではないか。
我々の伝統に敗北の概念はない。今日は恒星を、明日は銀河系外星雲を。
我々を止められる力など、この宇宙には存在しないのだ。 」―J・P ホーガン「星を継ぐもの」から、クリス・ダンチェッカー教授―
<注釈>
(*1) 言うまでもなかろうが、私がこの世から引退して欲しいと願うのは、圧倒的にスーパーゾンビの方だ。勿論、ルーピーも一緒にだ。(*2) 左様、私の事だ。
(A)おまけ
「革命」「革命」と繰り返していたら、自分が左翼かの様な錯覚を覚えるぞ。
これが「言霊の威力」と言うものかな。