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AFP通信が報じるは、アフガニスタン戦争の最前線。ジョイスティックで操作し、遠隔操作砲塔で戦う「実戦」は、ゲーム的であり、倫理的に問題だとする報道。此の「ゲーム的戦争」は、私に御厨さと美の漫画を思い出させた。
1. 御厨さと美・作「俺の嫌いな戦争」
「俺の嫌いな戦争」と言う御厨さと美のSF短編漫画がある。4ページほどの小品だから、それこそあっという間に読み終わってしまうが、かなり印象的な作品だ。
背景は宇宙戦争。主人公は宇宙戦闘艇の艇長で、タイトルの通り此の宇宙戦争を嫌っている。戦争嫌いは珍しくもないが、振るっているのは、その戦争が嫌いな理由だ。
曰く、「退屈だから嫌い」だ。
彼の宇宙戦闘艇に乗り込んでいるのは彼一人で、後はコック兼給仕のロボットが一体だけ。完全自動の迎撃システムで管制された必殺の「カスケード砲」は、「恒星を輪切りに出来る」そうで、接近する敵の宇宙戦闘艇を、発電機の微かな唸り音と共に消滅させてしまう。ある程度接近されると今度はこちらが消滅させられるそうだが、「その事は余り考えないようにしている。」
完全自動の迎撃システムは、寝ている間に戦闘が終了している事を起床してから知る始末で、「何で人間が乗っているのか判らない」ぐらい。確かに「退屈な戦争」だ。
一方、引用したAFP記事は現代のアフガニスタン戦争。遠距離から遠隔操作砲塔CROWSを使って実施される任務は、テレビゲームの感覚であると言う事実と、そんな発達したテクノロジーによる戦争には倫理的懸念があると言う報道だ。
「ゲーム感覚な戦争」なのであるから、ある意味「楽しい戦争/楽しめる戦争」であるが、上述の「俺の嫌いな戦争」の「退屈な戦争」とあい通じる物があると、私は考える。
「俺の嫌いな戦争」が描くは、兵器の発達=威力及び射程の増大と自動化によって「退屈になってしまった」戦争。AFP通信が報じるは、大射程と遠隔監視センサにより、兵士は安全に、「ゲーム感覚」で任務遂行できるようになった戦争。両者に共通するのは、戦争テクノロジーの発達と、それに伴う戦争と言う現実の希薄化だ。
背景は宇宙戦争。主人公は宇宙戦闘艇の艇長で、タイトルの通り此の宇宙戦争を嫌っている。戦争嫌いは珍しくもないが、振るっているのは、その戦争が嫌いな理由だ。
曰く、「退屈だから嫌い」だ。
彼の宇宙戦闘艇に乗り込んでいるのは彼一人で、後はコック兼給仕のロボットが一体だけ。完全自動の迎撃システムで管制された必殺の「カスケード砲」は、「恒星を輪切りに出来る」そうで、接近する敵の宇宙戦闘艇を、発電機の微かな唸り音と共に消滅させてしまう。ある程度接近されると今度はこちらが消滅させられるそうだが、「その事は余り考えないようにしている。」
完全自動の迎撃システムは、寝ている間に戦闘が終了している事を起床してから知る始末で、「何で人間が乗っているのか判らない」ぐらい。確かに「退屈な戦争」だ。
一方、引用したAFP記事は現代のアフガニスタン戦争。遠距離から遠隔操作砲塔CROWSを使って実施される任務は、テレビゲームの感覚であると言う事実と、そんな発達したテクノロジーによる戦争には倫理的懸念があると言う報道だ。
「ゲーム感覚な戦争」なのであるから、ある意味「楽しい戦争/楽しめる戦争」であるが、上述の「俺の嫌いな戦争」の「退屈な戦争」とあい通じる物があると、私は考える。
「俺の嫌いな戦争」が描くは、兵器の発達=威力及び射程の増大と自動化によって「退屈になってしまった」戦争。AFP通信が報じるは、大射程と遠隔監視センサにより、兵士は安全に、「ゲーム感覚」で任務遂行できるようになった戦争。両者に共通するのは、戦争テクノロジーの発達と、それに伴う戦争と言う現実の希薄化だ。
2. 戦争の「希薄化」―時代の流れ
「人類は永遠の闘争で強くなった。」とは、アドルフ・ヒトラー著「我が闘争」の一節だそうだ。「永遠の平和で人類は滅びるだろう。」と続くところが如何にもヒトラーだが(*1)、「闘争」を「競争」を含む広義に解釈するならば、前半は肯けるモノがあるし、後半の「永遠の平和」の心配なんぞしなくても良さそうだから、人類は「永遠の平和」で以って滅びそうにはない(*2)。「闘争」を「戦争」と狭義に解釈しても、「人類の歴史は戦争の歴史」と言っても過言ではないのだから、前半は少なくとも一理ある。だが、その人類史≒戦史を通じて、戦争そのものは、大いに変貌・変遷している。
先述の「戦争テクノロジーの発達に伴う戦争現実の希薄化」と言うのも、不可逆とはいえないが、一定の傾向だ。素手に拠る格闘戦から、棍棒による殴り合い、刀槍に拠る斬り合い・突き合いは弓・石弓・さらには銃火器による射撃戦に取って代わられ、その射撃も見える目標を撃つ直接射撃から、間接射撃となり、航空機による爆撃はミサイル攻撃に肩代わりされつつある。AFP通信伝えるアフガニスタン戦争の現状が、遠隔操作砲塔や無人機による監視と攻撃であると言うのも、上記の戦史の流れからすると、従来の傾向の延長でしかない。
何故そんな「戦争の希薄化」傾向になるかといえば、極単純には「その方が効率よく勝てるから」だろう。AFP通信報じる「ゲーム感覚」は、「自軍の損害最小化」でもある。負けたら怪我したり死んでしまったりするようなゲームだったら、任天堂Wiiと言えども売れないだろう(*3)。
1> だが米軍は、
2> 無人機の使用は高レベルの指揮官の監督下で運用されている任務に最適なツールであり、
3> 「実際に前線に兵士を送ったほうが不要な流血が増える」と主張している。
と、AFP通信は「米軍の主張」を批判的なトーンで伝えているが、此の米軍の主張は上記の戦史からしても全く正しい。軍や軍人は戦争に対しては勝つ事が目的であり、戦争を人道的にすることよりも、効率よく勝利する事の方を優先する。況や、「自軍将兵の流血と言う痛みを以って戦争現実を実感するため」と言う倫理的理由で、自軍の損害を甘受するような選択を、する訳がない。従って、遠隔操作砲塔CROWSにせよ、無人機にせよ、益々広範囲で利用されるようになり、またそれらの兵器技術も発達するだろう。
先述の「戦争テクノロジーの発達に伴う戦争現実の希薄化」と言うのも、不可逆とはいえないが、一定の傾向だ。素手に拠る格闘戦から、棍棒による殴り合い、刀槍に拠る斬り合い・突き合いは弓・石弓・さらには銃火器による射撃戦に取って代わられ、その射撃も見える目標を撃つ直接射撃から、間接射撃となり、航空機による爆撃はミサイル攻撃に肩代わりされつつある。AFP通信伝えるアフガニスタン戦争の現状が、遠隔操作砲塔や無人機による監視と攻撃であると言うのも、上記の戦史の流れからすると、従来の傾向の延長でしかない。
何故そんな「戦争の希薄化」傾向になるかといえば、極単純には「その方が効率よく勝てるから」だろう。AFP通信報じる「ゲーム感覚」は、「自軍の損害最小化」でもある。負けたら怪我したり死んでしまったりするようなゲームだったら、任天堂Wiiと言えども売れないだろう(*3)。
1> だが米軍は、
2> 無人機の使用は高レベルの指揮官の監督下で運用されている任務に最適なツールであり、
3> 「実際に前線に兵士を送ったほうが不要な流血が増える」と主張している。
と、AFP通信は「米軍の主張」を批判的なトーンで伝えているが、此の米軍の主張は上記の戦史からしても全く正しい。軍や軍人は戦争に対しては勝つ事が目的であり、戦争を人道的にすることよりも、効率よく勝利する事の方を優先する。況や、「自軍将兵の流血と言う痛みを以って戦争現実を実感するため」と言う倫理的理由で、自軍の損害を甘受するような選択を、する訳がない。従って、遠隔操作砲塔CROWSにせよ、無人機にせよ、益々広範囲で利用されるようになり、またそれらの兵器技術も発達するだろう。
即ち、「戦争テクノロジーの発達に拠る戦争現実の希薄化」傾向は今後も続くだろう。
<注釈>
(*1) 白状すると、私は「我が闘争」の此の引用した一節しか知らない。
(*2) 誠に幸いな事に。私は「永遠の平和」を実現して人類が滅びてしまうよりも、後悔と悔恨と苦悩しながらも、人類が戦争しながら生存し続ける方を選ぶ。
(*3) それ以前に、玩具としての発売を禁止されるだろうが。
3.戦争の本質
ここで一歩下がって、戦争の本質と言う奴を考えてみよう。
戦後平和教育の然らしむるところでは、「戦争=絶対悪、平和=絶対善」であり、「戦争=絶対悪、悪即斬」で話題終了。本質を考えるまでもなく「悪」の一字で御仕舞いになりそうだが、左様な思考停止は全く建設的でないし、それ以上に戦争を防ぐ上でも平和を構築する上でもまるっきり役に立たない。無論、私のようなひねくれ者は、「絶対悪」なるモノに対しては「絶対善」と同様に警戒警報を発令してしまうから、「戦争=絶対悪」等と考えたりはしない。しないからこそ、「私的戦争論」なんて記事も書けるのだ。
「戦争の本質」を考える上では、「戦争の目的」を考えるのが宜しかろう。古今東西数多あり、浜の真砂は尽きるとも、世に戦争の種は尽きまじき、その戦争の「目的」は、極単純には「敵に勝つ事」であろう。「敵に勝つ」と言っても形は種々あることには留意すべきだ。一番判りやすいのは敵国の占領・支配であるが、敵勢力の屈服と言う形もあるし、植民地や資源の争奪戦ならばその獲得量の多さが「敵に勝つ事」になろう。宗教戦争ならば、宗教的象徴の占有なり破壊と言う形もありうる。その勝利の形は、「国益の増進」「国富・国力の増大」となることが多いから、当ブログで繰り返している「外交は国益追求の手段であり、弾丸を使わない戦争」と言う表現の妥当性を担保している。但し、特に宗教的意味合いの強い戦争では「異教徒の殲滅ないし減少≒虐殺」が目的=勝利条件だったりするから、こういう戦争は「国威の発揚」にはなっても、直接国益とは結びつかない・・・と言っても、始ってしまうと最も止め難く、往々にして最も残虐な戦争になるのは、此の手の宗教戦争と、その亜流であるイデオロギー戦争なのであるが。
とは言え、広義に「戦争に勝つ事」が「戦争の目的」であるとするならば、「戦争の本質」は「勝利の追求」と言う事になろう。その「勝利」が多くの場合は国益に適うものであるから、「戦争は外交と並んで国益追求の手段」と断じても、多くの場合この断言は正しい。また、「勝利の追及」が「戦争の本質」であるから、勝利のための手段、手順を開発・考案・計画し、実施するのが「戦争のプロセス」と言う事になる。それ即ちドクトリンや戦術、兵器や新技術の開発・生産・配備であり、訓練や作戦計画立案、作戦の実施や戦果評価である。言うまでもないだろうが、此の「戦争の本質」「戦争の目的」から「戦争のプロセス」に至る間には、倫理だとか人道的見地だとか、或いは戦争現実の臨場感だとか言った要素は本質的には作用しない。それらは、「戦争のプロセス」を立案・実施する上での参考条件ないし制約条件とはなりうるが、「勝利の追求」のように組み込まれて本質的な条件ではない。従って本質的に戦争とは非倫理的、非人道的になりがちなものである。当たり前の話しだ。
また、「勝利の追求」の一環が「自軍損害の最小化」なのであるから、その本質的条件の前には「戦争を痛感する」倫理的条件なぞは無視ないし軽視され、AFP通信報じるようなゲーム的戦争=希薄現実的戦争になるのも無理からぬところだ。
戦後平和教育の然らしむるところでは、「戦争=絶対悪、平和=絶対善」であり、「戦争=絶対悪、悪即斬」で話題終了。本質を考えるまでもなく「悪」の一字で御仕舞いになりそうだが、左様な思考停止は全く建設的でないし、それ以上に戦争を防ぐ上でも平和を構築する上でもまるっきり役に立たない。無論、私のようなひねくれ者は、「絶対悪」なるモノに対しては「絶対善」と同様に警戒警報を発令してしまうから、「戦争=絶対悪」等と考えたりはしない。しないからこそ、「私的戦争論」なんて記事も書けるのだ。
「戦争の本質」を考える上では、「戦争の目的」を考えるのが宜しかろう。古今東西数多あり、浜の真砂は尽きるとも、世に戦争の種は尽きまじき、その戦争の「目的」は、極単純には「敵に勝つ事」であろう。「敵に勝つ」と言っても形は種々あることには留意すべきだ。一番判りやすいのは敵国の占領・支配であるが、敵勢力の屈服と言う形もあるし、植民地や資源の争奪戦ならばその獲得量の多さが「敵に勝つ事」になろう。宗教戦争ならば、宗教的象徴の占有なり破壊と言う形もありうる。その勝利の形は、「国益の増進」「国富・国力の増大」となることが多いから、当ブログで繰り返している「外交は国益追求の手段であり、弾丸を使わない戦争」と言う表現の妥当性を担保している。但し、特に宗教的意味合いの強い戦争では「異教徒の殲滅ないし減少≒虐殺」が目的=勝利条件だったりするから、こういう戦争は「国威の発揚」にはなっても、直接国益とは結びつかない・・・と言っても、始ってしまうと最も止め難く、往々にして最も残虐な戦争になるのは、此の手の宗教戦争と、その亜流であるイデオロギー戦争なのであるが。
とは言え、広義に「戦争に勝つ事」が「戦争の目的」であるとするならば、「戦争の本質」は「勝利の追求」と言う事になろう。その「勝利」が多くの場合は国益に適うものであるから、「戦争は外交と並んで国益追求の手段」と断じても、多くの場合この断言は正しい。また、「勝利の追及」が「戦争の本質」であるから、勝利のための手段、手順を開発・考案・計画し、実施するのが「戦争のプロセス」と言う事になる。それ即ちドクトリンや戦術、兵器や新技術の開発・生産・配備であり、訓練や作戦計画立案、作戦の実施や戦果評価である。言うまでもないだろうが、此の「戦争の本質」「戦争の目的」から「戦争のプロセス」に至る間には、倫理だとか人道的見地だとか、或いは戦争現実の臨場感だとか言った要素は本質的には作用しない。それらは、「戦争のプロセス」を立案・実施する上での参考条件ないし制約条件とはなりうるが、「勝利の追求」のように組み込まれて本質的な条件ではない。従って本質的に戦争とは非倫理的、非人道的になりがちなものである。当たり前の話しだ。
また、「勝利の追求」の一環が「自軍損害の最小化」なのであるから、その本質的条件の前には「戦争を痛感する」倫理的条件なぞは無視ないし軽視され、AFP通信報じるようなゲーム的戦争=希薄現実的戦争になるのも無理からぬところだ。
4.戦争のゲーム性
「ウォーゲーム」と言う聊か物騒な名前で呼ばれる一群のゲームが、かつてあった。商品として書店や玩具店の店頭に並んだそれは、「シミュレーションゲーム」とも呼ばれ、古今東西の戦争から近未来の仮想戦、果てはSF的設定の戦争まで、紙のマップと紙のコマで再現「シミュレート」するものだった。「PCゲーム「大戦略」を紙で再現したモノ」と言うと凡そのイメージはつかんでいただけようか。或いは極めて抽象化されている将棋やチェスを具体化し、盤面には地形をつけて山や川があり、コマは「歩」や「僧正」なんて曖昧な物ではなくて「第501独立重戦車大隊」や「零式艦上戦闘機52型丙」など部隊や兵器を具体的に表したモノ、とも言える。ついでに言えば盤面をチェスや将棋のように格子状に並んだ四角い枡目で区切ると、「斜めに動くと距離的には大いに得をしてしまう」事から「六角形の枡目(*1)」で区切られたゲームが多かった。
それら「ウォーゲーム」がゲームと言う商品として流通し、今でも少数ながら流通して居ると言う事実は、AFP通信報じる「ゲーム的戦争」よりもさらに進んで、戦争そのものに内在するゲーム性或いはギャンブル性を示している。
先述の通り戦争の本質は「勝利の追求」であるから、少なくともある部分は知恵比べだ。「ウォーゲーム」の勝利は、それがゲームと言う商品であるだけに、勝利条件を実際の戦争以上に自由に設定できる。これにより「勝利」の意味を変える事で、「「宇ウォーゲーム」は「戦争のゲーム性」をより高める事が出来る。例えば、米国人大好きな(*2)「アラモの戦い」は、米国守備隊が玉砕=全滅してしまう「負け戦」だが、全滅するまでの期間を勝利条件と設定する事で、「面白いゲーム」とすることが出来る。同様に大東亜戦争(太平洋戦争)で我が軍が玉砕=全滅した「硫黄島の戦い」も「面白いゲーム」と言えるほどゲーム性を高める事が出来るはずだ。
無論「勝利の意味」=勝利条件を変えてしまっているのだから、ゲーム「硫黄島の戦い」の勝利は史実の大東亜戦争(太平洋戦争)の勝敗とは直結しないし、勝敗に関わらずそれはシミュレーション=仮想又は模擬でしかない。
だが、「戦争の本質」が「勝利の追求」である以上、そこにゲーム性が内在するのは疑いようがない。先述のSF漫画「俺の嫌いな戦争」では「退屈になってしまった戦争」が描かれているが、そんな時代の戦争でも、主人公の乗る宇宙戦闘艇など兵力の配置を考え、攻勢守勢の判断を下し、機を見て攻勢に出て「勝利を追求する」ゲーム性は、上級司令部にはあるに違いないのである。
「人類は戦争が好きだから、その英知に関わらず戦争している。」と言うのは、映画「アンツィオ上陸作戦」でロバート・ミッチャム演じる従軍記者が出した「衝撃の」結論。
だが、戦争の本質が「勝利の追求」であり、ゲーム性を内在している以上は、「戦争好きの人間」が居なくなる事はなさそうだ。
豹がその斑を全て洗い流し、ジャージー種の牛と同じ仕事を貰うぐらいにならない限り。
「俺は戦争が好きなんだ。病み付きだ。
俺の一日は靴職人の40年より長い。」
それら「ウォーゲーム」がゲームと言う商品として流通し、今でも少数ながら流通して居ると言う事実は、AFP通信報じる「ゲーム的戦争」よりもさらに進んで、戦争そのものに内在するゲーム性或いはギャンブル性を示している。
先述の通り戦争の本質は「勝利の追求」であるから、少なくともある部分は知恵比べだ。「ウォーゲーム」の勝利は、それがゲームと言う商品であるだけに、勝利条件を実際の戦争以上に自由に設定できる。これにより「勝利」の意味を変える事で、「「宇ウォーゲーム」は「戦争のゲーム性」をより高める事が出来る。例えば、米国人大好きな(*2)「アラモの戦い」は、米国守備隊が玉砕=全滅してしまう「負け戦」だが、全滅するまでの期間を勝利条件と設定する事で、「面白いゲーム」とすることが出来る。同様に大東亜戦争(太平洋戦争)で我が軍が玉砕=全滅した「硫黄島の戦い」も「面白いゲーム」と言えるほどゲーム性を高める事が出来るはずだ。
無論「勝利の意味」=勝利条件を変えてしまっているのだから、ゲーム「硫黄島の戦い」の勝利は史実の大東亜戦争(太平洋戦争)の勝敗とは直結しないし、勝敗に関わらずそれはシミュレーション=仮想又は模擬でしかない。
だが、「戦争の本質」が「勝利の追求」である以上、そこにゲーム性が内在するのは疑いようがない。先述のSF漫画「俺の嫌いな戦争」では「退屈になってしまった戦争」が描かれているが、そんな時代の戦争でも、主人公の乗る宇宙戦闘艇など兵力の配置を考え、攻勢守勢の判断を下し、機を見て攻勢に出て「勝利を追求する」ゲーム性は、上級司令部にはあるに違いないのである。
「人類は戦争が好きだから、その英知に関わらず戦争している。」と言うのは、映画「アンツィオ上陸作戦」でロバート・ミッチャム演じる従軍記者が出した「衝撃の」結論。
だが、戦争の本質が「勝利の追求」であり、ゲーム性を内在している以上は、「戦争好きの人間」が居なくなる事はなさそうだ。
豹がその斑を全て洗い流し、ジャージー種の牛と同じ仕事を貰うぐらいにならない限り。
「俺は戦争が好きなんだ。病み付きだ。
俺の一日は靴職人の40年より長い。」
-ラビノフ軍曹(ピーター・フォーク)@映画「アンツィオ上陸作戦」-
<注釈>
(*1) 六角形を「枡目」と呼んで良いかは、迷うところだが。(*2) 私もジョン・ウエイン監督主演製作映画「アラモ」で大好きだが。