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アリステア・マクリーンというのは英国の冒険小説作家。元はグラスゴーの英語教師(※1)だったが、ある時書いた冒険小説「女王陛下のユリシーズ号 H.M.S.Ulysses(※2)」が処女作にして大ヒット、その後もヒットを飛ばし続け、映画の脚本も手がけたりして、「最も多くの作品が映画化された作家」としてギネスブックにも(少なくとも一時期)乗っていた人。映画化された小説だけでも「ナバロンの要塞」「ナバロンの嵐」「荒鷲の要塞」「北極基地/潜航作戦」などがある。
であるからして、マクリーンは冒険小説作家としての成功者であり、と同時に「我が心の師」の一人でもある。
アリステア・マクリーンを「我が心の師」たらしめている理由の一つが、「最後の国境線 the Last Frontier」である。
1950年代も末の冷戦華やかなりし頃。「プラハの春」に続く「ハンガリー動乱」が「人間の顔をした社会主義」を掲げてソ連軍の戦車に粉砕された数年後のハンガリーを舞台に、偽装亡命で東側に拉致された弾道学の権威ジェニングス教授を奪還すべく、英国情報部員マイケル・レナルズ大尉は秘密警察AVOの恐怖が支配するハンガリーに単身潜入する。頼みの綱は、長いこと東側で西側への脱出亡命者を支援する組織を束ねる伝説の英雄・イリューリン少将・通称「ジャンシ」の現地協力だった。
伝説的な指導者ジャンシとその相棒で変装の名人・伯爵。娘にして当然ヒロインのジュリアと、巨人サンダー。それに主人公レナルズ大尉というこぢんまりした救出チームとハンガリー秘密警察AVOの息詰まる対決と逆転劇は確かに劇的だが、それだけでは「我が師」とするには足らない。
お決まりとは言え主人公と恋に落ちるヒロイン(※3)とか、ジャンシがその妻に見せる「愛情」とか、伯爵の神算鬼謀ぶりとか、サンダーの超人的な怪力ぶりとか、登場人物の織りなす物語は、感動的ですらあるが、これとて「我が師」と呼ぶほどのものではない。
マクリーンを「我が師」たらしめ、「最後の国境線」から名科白を当ブログにも何度も引用するのは、その幕間とも言うべきシーンから。例えば、漸く開放なった( と思われた)ジェニングス教授が共産主義独裁体制に怒りをぶつけるのを伯爵とジャンシが窘めるシーンとか、レナルズ大尉とジャンシが捕まって化学的拷問を受け、それにうち勝つべく話をするシーンなど。そこで語られるのは、共産主義体制の当時の現状と将来であり、東欧を中心とした近現代史であり、究極のところ国境線・人種や民族、宗教の境目というものは人の心の中にあると言うジャンシの持論である。本書のタイトルが「最後の国境線」とあるのも、この「人の心の中にある国境線」に依っている。
その意味では、ジャンシは私が「滅多に居る者ではないから、そう自称する奴には厳重警戒」と訴える世界市民の一人なのである。但し、ジャンシは上記の通りただの「世界市民」ではない。「世界は一つ」とか「人類皆兄弟」とかスローガンを掲げたり歌に歌ったり小説に書いたりしているだけの自称「世界市民」とは全く異なる。
「国境線は最後には人の心にしかない」と信じつつ、厳然とある共産主義独裁体制と、東西間の「自由格差」と言う現実を認識し、これに敢然と戦いを挑んでいる。その方法は軍事的手段・暴力ばかりではないが、それらも含んでいる。戦術が具体的ならば、戦略も明確だ。
「わしらはこれからも長い暗い道を歩いて行くが、
止めどもなく歩き続けたくはない。」-ジャンシ-
言うなれば、ジャンシは「戦う世界市民」であり、戦っているからこそ、我が師たり得ているのである。
言うなれば、ジャンシは「戦う世界市民」であり、戦っているからこそ、我が師たり得ているのである。
<注釈>
(※1) 英国の英語教師だから、「国語教師」が正しいか。(※2) 原題をそのまま訳せば「英国軍艦ユリシーズ号」となるが、H.M.SはHer/His Majesty's Shipの略だから、邦題はあながち間違いではない。と思いきや、小説の舞台は第2次大戦だから、英国は国王キング・ジョージⅥ世の統治下。H.M.Sを「国王陛下の軍艦」とは出来ても「女王陛下の軍艦」とするのは正しくない。(※3) 尤も、その恋の落ち方や表現は、結構特異/特徴的ではあるが。「それはそんなに明らかなことなのですか。」
「知らぬは当人ばかりだね、他の誰にも分かり切ったことさ。」