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 「新聞案内人」ってのは、新’S(あらたにす)の特設コーナー。新’Sと言うのは朝日、日経、読売の三紙が横並びで社説だとか一面記事だとかを紹介するサイトであるから、当ブログ「社説比較」シリーズを書く時には良く利用しているが、「新聞案内人」はタイトルを眺めるだけと言う事が多い。まあ、この3紙が揃ったところで「比較の妙」は殆ど出て来ない(*1)し、そんな3紙の選んだ「新聞案内人」だから、大概は取り上げるほどもない言説なのだが・・・今回は元朝日新聞記者が書いた「菅首相の続投は是か非か」である。こいつはちょいと、食指が動くね。
 
 先ずは例によって、ご一読願おうか。
 

<注釈>

(*1) 再三主張している通り、日本の新聞を比較するのならば、産経と朝日を比較するのが手っ取り早い。
転載開始==========================================================================

菅首相の続投は是か非か

栗田 亘 コラムニスト、元朝日新聞「天声人語」>  http://allatanys.jp/B001/UGC020005220110712COK00858.html
 
 このところ、親しい仲間(50代から70代までの男女数人)が集まると大議論になる。菅首相続投の是非である。
 7月12日掲載の朝日新聞世論調査によれば、菅内閣の支持率は15%。鳩山内閣末期の17%をも下回った。NHKの調査でも16%。これから出てくる他社の数字も似たり寄ったりに違いない。
 これまでなら、私たち仲間の意見は、議論の余地なく、世論調査の数字にほぼ沿っていた。ところが、菅内閣に限っては、仲間うちで、首相の続投支持と続投反対がほぼ半々なのだ。
 続投支持派は、「再生可能エネルギー特別措置法案」に代表される菅首相の「脱原発」政策に共感する。原発をすぐに廃止するか、段階的に廃止するかはさておき、これからの日本は脱原発をめざさねばならない。しかし、政権が交代すれば、つぎの内閣は間違いなく「脱原発」から離れるだろう。となれば、いろいろあっても、ここのところは菅政権を断固支持するべきだ、という。
 7月5日の朝日新聞夕刊に、作家の池澤夏樹さんが「終わりと始まり」と題するエッセイを寄稿した(7月中は購読無料の「朝日新聞デジタル」で検索できる)。
 エッセイには〈政争でなく政策を ぎりぎりまで居座ればいい〉との見出しが添えられている。
 菅首相の脱原発への姿勢は一貫している、と池澤さんは説く。初当選した翌々年の1982年に、衆院委員会で再生可能エネルギーの普及を訴えた。今回も浜岡原発の停止を中部電力に申し入れ、政府のエネルギー計画を白紙とした。「発送電分離」に言及し、G8サミットでは1000万戸の家にソーラー・パネルを置くという構想を発表した。そのどれにも池澤さんは賛成だ。
 そして〈あまり勘ぐりたくないと思いながら〉、一連の「政局の混乱」は〈要するに、電力政策の転換への抵抗が理由なのではないかと考える。主体は産業界、経済産業省、自民党、ならびに民主党の一部であるのだろう〉と書く。
 〈彼には失策も多々あるだろう〉と認めつつも、〈今、菅首相には罵詈雑言に耐えて電力政策の転換の基礎を作ってほしい。策謀が必要ならそれも使い、とんでもない人事も実行し、ぎりぎりまで居座り、改革を一歩進めてほしい〉〈なぜならば、福島の惨状を見れば明らかなとおり、原発に未来はないからだ。ドイツとスイスとイタリアに次いで、原子力からの賢明な撤退を選ぼう〉と結ぶ。
 仲間の続投支持派の意見は、この池澤さんの文章にほぼ尽きていると言っていい。
 私たちの仲間は、続投反対派も「脱原発」という点、「原発に未来はない」と考える点では、続投支持派と一致している。
 正直にいえばフクシマまでは、そこまで真剣に脱原発を思わなかった。けれどもフクシマ以後も原発推進を唱える人の主張には賛成しかねるのである。
 しかし、菅首相の続投には反対する――なぜなら、池澤さんのいうように「菅首相の脱原発への姿勢は一貫している」とは、どうも思えないからである。
 たとえば「ストレス・テスト」だ。
 玄海原発の再稼働をめぐって、海江田経産相は現地の首長らと会談し、安全を保障した。経産相によれば、閣僚懇談会の席で菅首相もその方向を是認していた、という。
 ところが周知のごとく、そのあと菅首相はストレス・テストを持ち出した。閣内は蜂の巣を突いたようになり、7月11日になってようやく、政府の統一見解である、と発表された。
 しかし、時期や方法はなお、まったく定まっていない。
 続投反対派は、こんな状態では菅政策の実現はとうてい覚束ないだろう、と危ぶむ。〈彼には失策も多々あるだろう〉とは池澤さんの言葉だが、未曽有の事態のこのときに「多々ある」では首相失格だと断じる。
 確かに菅首相は「脱原発」をめざしているように見える。けれども、打ち出す政策はどれも「思いつき」の印象が強すぎる。
 それより何より、目的がいいからと言って、担当閣僚を説得もしないで我一人突っ走る姿勢はそれでよろしいのか。
 よろしいはずはない。なぜなら、それはファシズムに通じるからだ。ヒトラーだって、自分の理想に忠実だった。理想は、ファシズムによって実現へと近づいたではないか。目的が手段を正当化するのでは、民主主義の政治とはとうてい相容れない。――これが続投反対派の主張の大筋だ。
 では聞くが、菅首相に替わる誰が「脱原発」をめざすのか。誰と、すぐに思い浮かぶ候補者などいないだろう。であれば、菅首相にできる限り続投させて、脱原発政策の基盤を築かせるべきではあるまいか。続投支持派は、そんなふうに切り返す。
 では聞くが、〈タヌキたちキツネの指示を聞き流し〉(7月7日の「朝日川柳」)のような統率力の乏しい内閣の責任者が、「脱原発」の礎を本当につくれるのか。回り道でも、せめて閣内を説得してから施策を掲げるのがスジだろう。続投反対派は、そんなふうに反発する。
 集まるたびに議論は果てしなく、結論は出ない。その中で一致するのは、菅首相の「雑草魂」のすさまじさである。1年交代で首相の座に就いた安倍、福田、麻生、鳩山といった二世、三世たちには及びもつかない粘り腰である。
 しかし、民主主義国家としては彼の振る舞いは……と、また議論が始まる。そもそも民主主義って何だ? と1人が言う。
 ノーベル文学賞を受けた大江健三郎さんは「戦後民主主義者に、国民的栄誉は似合わない」と文化勲章授与を断った。文化勲章は国家が与えるもの、という認識だろう。
 この場合、民主主義の「主義」とは、共産主義、社会主義などと同じ「イズム」であろうか。
作詞家の故・阿久悠さんは、昭和20年代の若かりし日を回想して〈民主主義とは一体いかなるものか、ぼくらは全くわからないままに、実に自分の都合のいいように使っていた。「民主主義やで」と、一言発すると、大人が恐れ入ってくれるのである。「そうか、民主主義か、しゃあないなあ」と大人が納得するのである〉と書いている。これより少し前、日本人は「民主主義」を「軍国主義」の代わりに連合国軍最高司令官・マッカーサー元帥から与えられた。民主主義的な手続きなど踏まないで。
 そんな話を仲間の一人が披露したあと「英語でいえば社会主義はソーシャリズム、共産主義はコミュニズム。イズムとは主義、説、考え方だ。しかるに民主主義はデモクラシーだ。イズムとはいわない。デモクラシーを民主主義と訳すのは間違っているのではないか」と問題提起した。
 おそらくは稚拙な議論だろうが、私たちはまじめである。
 「主義」は明治初期、英語のプリンシプル(原理、原則)の訳語として登場した。ところが明治の半ば、インディビジュアリズム(個人主義)などイズムの訳語にも「主義」が当てはめられるようになった。
 デモクラシーは、最初はカタカナで表記されていた。やがて「政治の原理」と解釈され「民主主義」という訳語が誕生する。大正初年、政治学者の吉野作造は「民本主義」という訳語をあてて「民主主義」を説いた。天皇制のもと、民主は恐れ多いとはばかったらしい。
 チャーチルは民主主義を指して「政体としては未熟だが、試してきたほかの制度より、まだまし」と言った。
 そう、民主主義とは「政体」である。イズムではない。
 とすれば、民主主義よりも「民主制」の方が訳語としては適切なのではないか。少なくとも、この仲間にあっては、そっちの方が理解しやすい。
 民主制とは、まだるこしいものだ。効果は、すぐには現れない。ずっと現れないことだって珍しくない。でも「試してきたほかの制度より、まだましなのではないか。とすれば、菅首相の振る舞いは……」と、議論は(当然)酒も入っているから、なおなお続くのである。
=========== 転載終了
 
 

朝日の記者ならこの程度か。

 さて如何であろうか。
 
 独断と偏見で言わせて貰えば、駄文である。結論=言いたい事が明確に伝わらないもしくは無いような文、なかんづく長文は、「駄文」としか評しようが無かろう。(*1)
 だが無駄な文章とは言えない。興味深い情報も含まれている。私にとって最も興味深いのは、この「菅首相続投是非」を論じるメンバー、恐らくは朝日新聞記者とそのOBと思しき連中のレベルの低さと言うか私との視点の相違である。まあ、朝日新聞記者とそのOBならば、私とは人種も宗教も異なるのは理の当然ではあろうが。
 何しろこの人たちは、引用記事のタイトルにもなった「ゾンビ首相の歩く政治空白」管直人の首相続投について賛否両論相半ばすると言うのだから、凡そ半数は「菅直人続投」論者なのである。しかもその理由が、管直人の掲げる「脱原発」にあり、できるところまで菅直人に「脱原発」をやらせてみようと言うのだから、今なお原発居推進論者を公言する私と彼らとの懸絶は、海よりも深く山よりも高いものがある。
 
 それも道理で、何しろ菅直人続投賛成派反対派を通じて、
 
> 私たちの仲間は、続投反対派も「脱原発」という点、
> 「原発に未来はない」と考える点では、続投支持派と一致している。
 
だそうであるから、彼らは押しなべて「脱原発派」なのだそうだ。なるほど、以下のような社説を掲げる朝日だけの事はある。OBになろうが、朝日は朝日と言う事だろう。
 
朝日社説 提言 原発ゼロ社会―いまこそ 政策の大転換を http://www.asahi.com/paper/editorial20110713.html?ref=any
 
 しかしながら、上掲記事では全く触れられていないのだが、「ベトナムへの原発輸出」を自らの功績の一つと誇ったのは間違いなくゾンビ首相菅直人その人なのである。
 
 無論世の中にはドイツのように「脱原発」を宣言し、自国内原発ゼロを目指しながら、電力が足らなくなったら隣国の原発から電力を買うばかりか、自国の原子力技術は放棄しない=原発の輸出は続けるなんて国もあるから、「脱原発と原発輸出(*2)は矛盾しない。」と強弁出来そうだが、そんな卑近の実績を無視して「昔から菅直人は脱原発だった」と絶賛する上掲記事や「元」を含む朝日記者の記憶力と判断力は一体どうなっているのか、誠に興味深いところである。朝日新聞なんかに勤めていたら、ダブルスタンダードもダブルシンクも身に付く、と言う事だろうか。
 

<注釈>

(*1) 急いで付け加えるならば、当ブログの記事に「駄文がない」等と主張する気はない。
 
(*2) 或いは間接的「原発輸入」さえも