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 さて、今回はちょいと趣向を変えた朝日と産経の対比を試みよう。朝日の方は例によって社説だが、産経のほ方は「from Editor」と銘打つコラムで、要は「編集後記」。これもまた社説と同様、新聞社の主張ではあろう。社説ほど前面にも立たず、注目はされまいが。
 
 両社に共通して取り上げて居るのは原発であり、福島第1原発事故を受けての今後の原発のあり方。ある意味「今最もホットな話題」であろう。
 
 先ずは産経コラムと朝日社説、ご一読願おうか。
転載開始==============================================================================

【from Editor】 極まるポピュリズム  

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110701/plc11070107360009-n1.htm
2011.7.1 07:35 (1/2ページ)
 中部電力の浜岡原子力発電所の全面停止について、総理は「国民の安全と安心のため」とおっしゃったんですが、“安全”というのは科学技術的に大丈夫と評価されるもの。対して“安心”ということについては、人によってどうしようもないくらい差がある。そういうところに行政が踏み込むことが妥当なのかどうか-。松浦祥次郎・元原子力安全委員長が先月、日本記者クラブの会見でこう述べた。
 安全は、科学技術上ここまで対応可能なら、あるいはここまでの基準を満たしているのなら「大丈夫」というもの。一方、安心は危険度(リスク)がゼロであって言いうるもので、多少でもリスクがある以上、国民個々で受け止め方に大きな差がある。松浦元委員長は、安全と安心は別の問題であると言いたかったのだろう。
 日本はいま、多くの先端科学技術の恩恵に浴する中で国民生活が営まれている。飛行機や自動車、高速鉄道など交通手段の高度化と多様化、携帯電話やインターネットなど通信手段の超便利化と低価格化。生活やビジネスのインフラは、歴史上かつてないほどの進化を遂げている。
 しかしこの現代文明は、進化と同時に人間へのリスクも増大させている。最近話題の携帯電話ががんの原因のひとつではないかとか、遺伝子組み換え作物の副作用はどうなのかとか、数え上げればきりがないほどリスク項目はある。そうしたことを科学技術的に安全度は高い(危険度は低い)と当局が判定して国家が運営されている。
 そこで原発問題だが、核分裂反応をエネルギーとして利用する原発は、それ自体がリスク存在ではある。そのリスクをうまくコントロールして国民生活に豊かさをもたらすのが現代文明だ。つまり、安全をとるか安心をとるかという二者択一の問題ではなく、総合的なバランスのなかで両立させていくことが求められている。
 「安心」がこれからの“売り”だと短慮し、自己の政権運営に最大限利用しようとたくらんだのが首相だ。リスクは、その有益性がどれほどのものであろうとも、廃止すれば「安心」をアピールできる。浜岡停止は、民主党の最大の武器であるポピュリズム(大衆迎合主義)がいかんなく発揮された出来事であったのだ。しかし、場当たり的な政策の代償は大きい。電力不足で経済はガタガタになる。雇用は失われ国民は貧困に向かう。新たな「不安社会」の始まりだ。(編集委員 小林隆太郎)
==============================================================================転載完了

転載開始==============================================================================

放射線と不安―感じ方の違い認めよう 

 http://www.asahi.com/paper/editorial20110630.html?ref=any
 放射線への不安が被災地から離れた場所にも広がっている。東京など首都圏でも、個人や市区町村が公園や通学路、給食の食材など、身の回りの線量を測っている。
 原発事故の現場に近い福島県とは切迫感に差がある。だが、一時的にせよ東京では水道水で、遠い静岡でも製茶で、放射性物質が基準を超えていた。日々発表される数字は常に過去のものであり、いま自分のまわりでどうなのかはわからない。不安を感ずるのも無理はない。
 まずは、わかりやすくきめ細かな情報を提供したい。
 原発事故から3カ月余り。市民が放射線の情報を理解して判断する力は上がっている。行政が単に「安心して」と広報して納得できた時代ではもうない。
 とくに、幼い子を持つ親世代の不安にどう応えるか。重要かつ難しい課題である。
 たとえば、厚生労働省が「妊娠中の方、小さなお子さんをもつお母さん」向けに出したパンフレットは「水道水は安全です」「外で遊ばせても心配しすぎる必要はありません」と簡潔にし、あえて具体的な根拠や数値を入れなかった。すると「かえって不安になる」と、親たちからの批判にさらされた。
 身近な市区町村や学校は、住民に理解と納得をしてもらううえで大きな役割を担う。砂場の砂に不安を覚える人がいれば、一緒に線量を測り、説明する。安全かどうか、見解が分かれる値なら、話し合って砂を入れ替えることもあってよい。
 低線量の放射線の危険は、わからないことが多く、受け止め方は人によって違う。子どもは大人より放射線の影響を受けやすいから、親世代は心配する。
 「子どものためなら、徹底的に安全策をとりたい」と考える人がいる。食材が心配で学校の給食を食べさせたくないから弁当を持たせる、野外活動が心配だから休ませる――。逆に「気にしすぎて野菜不足や運動不足になるほうが、子どもの成長に悪い」と考える人もいる。
 どこまで心配し、安全策をとるか。個人の価値観で判断が分かれるところが出てくる。
 鋭敏になっている子育て世代に上の世代が「心配しすぎだ」といっても、やすらげない。考え方の違いがあれば、互いの選択肢を封じることなく尊重し、語りあえる関係を守りたい。
 子どもの健やかな成長はだれもが望んでいる。放射線リスクの受け止め方の違いで社会に亀裂を生じさせ、原発事故の被害がさらに広がらないよう、子育て世代の不安を受け止めたい。
==============================================================================転載完了

基本認識の一致と今後の方針対立 朝日vs産経

 さて、如何であろうか。
 
 一見すると余り関連のない記事に見えるかも知れないが、「安心」と「安全」、及びその反対語である「不安」と「リスク」をキーワードに取ると、両者共通の基盤が見えてこよう。それは、産経記事の次の一節、松浦祥次郎・元原子力安全委員長の言葉として引用された言葉に端的に現れている。
 
産1> “安全”というのは科学技術的に大丈夫と評価されるもの。
産2> 対して“安心”ということについては、人によってどうしようもないくらい差がある。
 
 上記産1>~産2>に呼応する朝日社説の一節は以下のとおりだ。
 
朝1> どこまで心配し、安全策をとるか。個人の価値観で判断が分かれるところが出てくる。
 
 産経の方が「安全と安心は別である。」と言い、朝日は「安心できる安全レベルは人によって異なる」と言っているが、これは表現の違いで同じ事を言っている。即ち、朝日と産経はこの点で基本認識が( 珍しいぐらいに)一致している。
 
 だが、その先、安心のためにどこま安全を追求すべきかという視点からすると、朝日と産経は美事なまでに対立する。
 
 何しろ朝日の社説は次の一説をその締めとしているのである。
 
朝2> 鋭敏になっている子育て世代に上の世代が「心配しすぎだ」といっても、やすらげない。
朝3> 考え方の違いがあれば、互いの選択肢を封じることなく尊重し、語りあえる関係を守りたい。
朝4> 子どもの健やかな成長はだれもが望んでいる。
朝5> 放射線リスクの受け止め方の違いで社会に亀裂を生じさせ、原発事故の被害がさらに広がらないよう、
朝6> 子育て世代の不安を受け止めたい。
 
 「子育て世代の不安を受け止めたい」。言うだけならばタダだ。だから朝日社説がそれを主張したとて何の痛痒もあるまい。
 だが、例えば東京電力にとっては違う。「子育て世代の不安を受け止めたい。」 は一見誰も反対出来なさそうなコピーだが、「受け止め方は人によって違う。」を無制限に認めれば、東電にとっては無限責任となる。
 その無限責任を、既に福島原発事故を起こしている東電としては、今後の原発安全策もさることながら、事故に対する損害賠償と言う形で取らざるを得ない。「被害者」にして見れば強請り放題の集り放題と言う事であるし、朝日社説はそんば「福島原発事故被害者」に強請りタカリを奨励している事になる。
 
 一方産経記事は、
 
産3> 現代文明は、進化と同時に人間へのリスクも増大させている。
 
として、携帯電波による発ガン性、遺伝子組み換え作物など無数にある現代文明のリスクを挙げ、
産4> 核分裂反応をエネルギーとして利用する原発は、それ自体がリスク存在ではある。

産5> そのリスクをうまくコントロールして国民生活に豊かさをもたらすのが現代文明だ。
産6> つまり、安全をとるか安心をとるかという二者択一の問題ではなく、
産7> 総合的なバランスのなかで両立させていくことが求められている。
 
として、原発を少なくとも容認している。
 産経の原発容認は、産経記事の締めでさらに明らかになる。
 
産8> 「安心」がこれからの“売り”だと短慮し、自己の政権運営に最大限利用しようとたくらんだのが首相だ。
産9> リスクは、その有益性がどれほどのものであろうとも、廃止すれば「安心」をアピールできる。
産10> 浜岡停止は、民主党の最大の武器であるポピュリズム(大衆迎合主義)がいかんなく発揮された出来事であったのだ。
産11> しかし、場当たり的な政策の代償は大きい。電力不足で経済はガタガタになる。
産12> 雇用は失われ国民は貧困に向かう。新たな「不安社会」の始まりだ。
 
 これに対して朝日社説は、今後の原発をどうするか、その結果何が起こるか、全く触れてさえも居ないが、上記産8>の菅直人と同様に「”安心”を売り物」にしている。「互いの選択肢を封じることなく尊重し、語りあえる関係」「子育て世代の不安を受け止めたい」などの耳障りの良い美辞麗句ともども、正しく産経記事言うところのポピュリズム(大衆迎合主義)であろう。流石は菅直人擁護のベタ甘報道を続ける朝日、と言うところか。
 
 で、国民諸君に尋ねようではないか。
 
  諸君は「安心」を追求し、リスクを放棄し脱原発を目指す、朝日社説の示唆する方針を選ぶのか
 
 リスクとメリットのバランスを取り、得るべきメリットを得る産経記事の方針を選ぶか。
 
 賭けても良いが前者の場合、科学技術の進歩は間違いなく速度低下ないし停滞する。単に上記産11>~産12>の事態に至るばかりではない。
 
 如何に、国民。