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月刊誌Willに書いている佐藤優氏の論説によると、議論には情勢論と存在論の二レベルに分類できるそうだ。存在そのもの、存在意義に関わるような根幹根源的議論が存在論であり、それより下位の枝葉の議論が情勢論である。情勢論を戦術的判断、存在論を戦略的判断と言い換えると、一寸意味が違うかも知れないが、アナロジーとしては許される範囲ではないかと思われる。
さらに、佐藤優氏の論説は、今回の東日本大震災を戦後我が国のあり方を規定した「合理主義」「生命至上主義」「個人主義」に対する大いなる疑義の発露と捕らえ、その事例として原発事故に対する東電初めとする発電所職員や警官、消防官、自衛官達の献身的行動を挙げており、したがって今回の東日本大震災を考える際には情勢論のみではなく、より根源的な存在論が必要であると説く。
現・民主党政権や東電の対応などを非難したり批評したりするのは、皮相的な情勢論に過ぎない、と佐藤氏は断じる。その伝で行くと、当ブログなんてのも情勢論ばかり記事にしていて、全く皮相的な記事ばかりと言う事になりそうだ。「個人が趣味でやっているブログであって、社会の公器でもなければ、商売でも無い。」と言うのは一応理屈・言い訳として立つが、こと論説に関する限りは「日本のクォリティペーパー(笑)」大手新聞社におさおさ引けを取る気が全くない(独断で断言)当ブログとしては、これは聞き捨てならない論説だ。(*1)そうなると無理やりにでも情勢論ならぬ存在論をぶち上げない事には一寸気が済まない。( これは私の個人的感情に過ぎないが・・・感情ってのは大抵個人的なものだ。)
で、その存在論のために引用した記事は、東日本大震災で被災し、幸い家屋の損害は少なかったが、ライフラインは寸断され、今だ電気・ガス・水道がストップしたままなうえ、被災者は自宅に暮らしているため、逆に救援物資の配分が少ない、「救援格差」に於ける弱者にあたる宮城県・南三陸町の報告。
ついでに書いておけば、曽野綾子女史が確か指摘していたことであるが、東日本大震災のような大規模災害に於いて「全ての人に平等な救援」なぞ夢物語であるから、救援しやすいところから格差なんぞ気にせずに救援復旧するのが結果的に早道であり、「同じ被災者でも片やバーベキュー、片やおにぎりだけとは、救援格差だ!」などとしたり顔で報じるのは、よく言っても知ったかぶり、悪く言えば「一番平等なのは誰も救援しない事だ!」と言うのと同じぐらい暴論である。
それは兎も角、産経webが報じるその「被災弱者」である南三陸町62世帯268人の暮らしぶりはと言うと、震災以来3週間余りが経ち、手持ちの食糧は尽き、日に一度だけ2キロほど離れた避難所から軽トラで貰ってくる食糧で暮らしていると言う。
1> 住民らは、争うことなく、順番に家族の人数を申告し、その分を持って帰る。
2> 三浦さんは言う。
3> 「嘘の申告なんてないよ。集落自体が、避難所みたいなもんだから。
4> みんなで助け合い、信頼しているのさ」。
5> ほぼ人数分しかない物資が、住民全員に行き渡らなかったことはない。
如何であろうか。
確かに佐藤優氏の言う「個人主義」の対極にある風景であり、日本古来のムラ的互助社会の発現とも受け取れるし、「困ったときはお互い様」などと言う懐かしいフレーズが想起されるシーンでもある。その意味では古き良き日本の心温まる情景とも思える。
だが、私の受け止め方は違う。それは表題にも現れている。そう、私がこの南三陸町の情景に見出したのは、原始共産主義的理想像だ。
断っておくが、私は逆立ちしたって一神教徒ではないのと同じぐらい共産主義者ではない。私自身は金持ちでも資産家でも資本家でもない事を認めつつ、共産主義は20世紀の悪夢であり、ベルリンの壁崩壊に端を発する社会主義に対する資本主義の勝利は、「歴史的必然」などとは言わないが、「理の当然」とは考えている。その資本主義の優位を認める私が南三陸町の住民に「原始共産主義的理想」を見出すのは、「能力に応じて働き必要に応じて受け取る」共産主義的理想の、少なくとも後半を(*2)実現しているように見えるからだ。
共産主義を考える-20世紀の悪夢は、悪夢のまま終わるか? http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/31863998.html
5> ほぼ人数分しかない物資が、住民全員に行き渡らなかったことはない。
この一節に、その理想が凝集されている。一種の「新しき村」状態である。
無論、ここ南三陸町では未だまともな経済活動は出来ない状態であり、経済論としての「原始共産主義的理想」が実現しているわけではないだろう。また今後復旧復興されればこの「原始共産主義的理想」状態は、日本と言う国の巨大な資本主義的経済に飲み込まれ、少なくとも「公平に配分される救援物資によって露命をつなぐ」状態ではなくなるに相違なく、南三陸町内格差だって生じる事だろう。
それを「残念な事」と感じ「その状態を国家レベルまで拡大する」事を模索するような「共産主義」者ないし社会変革家、或いは「革命家」と言うのは私の柄ではない。
だが、東日本大震災とそれに伴う津波と言う未曾有の大災厄に曝され、多くを失った南三陸町に見えたものが、無政府状態と言う混沌でも、万民の万民に対する闘争でもなく、ムラ的互助社会であるという事実に、私は、佐藤氏の言う「個人主義の敗北」、或いは日本人の原点としての存在論を感じざるを得ない。
単純化してしまえば、渡辺昇一氏の言う日本人ドン百姓論。或いは、「我らは皆、陛下の赤子である。」と言うところだろうか。
<注釈>
(*1) って事は、「日本のクォリティペーパー(爆笑)」以上の価値を月刊誌Willに置いているということの表明でもあるのだが。(*2) それも、かつては数多あった共産主義国家の殆どが実現できなかったようなレベルの高さで。