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2. 私の「専業主婦史観」

 さて、今回の御題は「私の女性史観」なかんづく「私の専業主婦史観」である。専業主婦史を論じようというのだから、まずは専業主婦の定義を明確にすべきだろう。
 仙石は先行記事にした通り、専業主婦を戦後日本に特有の特異な存在と位置づけており、「男性中心社会が病む病気だ」と主張しているのだが、私には仙石の「専業主婦」観からして不可解である。と言うのも、私が専業主婦を定義するならば、「就業していない婚姻関係のある女性」となるからである。まあ、かなり大雑把な定義と言えよう。
 一方で、ここで定義した「就業」の方は季節労働やパートタイムも含み、「給料をもらう」と言うより「生計に資する」事を以って定義する広い範囲を考えており、その分「専業主婦」の範囲を狭くしている。
 この定義によるならば、「パートのおばちゃん」も「農家のお嫁さん」即ち農婦(*1)も、専業主婦ではない。
 
 さて、この定義に従った専業主婦は、現代日本にどれぐらいいるかと言うと、統計データは持ち合わせていないが、先ずはありふれた存在であるとは言えよう。パートに出ておらず、内職もしていない主婦ならば、大概「専業主婦」になる。その意味で「現代日本において、専業主婦は相応の数が居る。」と言う仙石の認識には私も同意する。また、その状態が戦後日本社会に一貫している事にも、同意する。
 
 では、「戦後の日本」ならざる範囲では、この「専業主婦」はどうであろうか。
 先述の通り、農業、なかんづく機械化されざる近代以前の農業はすべからく労働集約型の産業であり、農家の主婦は特に農繁期には貴重な労働力である。故に近代以前の農業では「専業主婦」はかなり少数であったろうと、推定できる。また、近代以前の、時代で言えば江戸時代以前の日本(*2)では農業人口が相当部分を占めていたのも事実だろう。何しろ江戸時代は鎖国していて海外との大規模な貿易はないから、食糧は日本国内で自給自足が原則。人口は今ほどではないが相応に居たから、その食い扶持を近代化以前の農業、それも殆ど人力で(*3)で稼いで居たのだから、当然そうなる。
 だが、農家以外の、士農工商で言えば、「士」「工」「商」の主婦達はどうだろうか。「武家の奥方」、「職工のカミさん」、「商人のカカァ」は・・・例外もあろうが基本的には「専業主婦」であろう。
 さらに遡って平安貴族の時代。「貴族の女房」は「源氏物語」「枕草子」などの平安文化の重要な担い手ではあるが、和歌や随筆や小説で生計に資せたとも思えないので、これまた大半は「専業主婦」であったろう。(*4)
 
 故に、近代化以前、江戸時代以前の日本に於いても、「専業主婦」は、少数派であるかも知れないが、随分前から存在はしていたと言えよう。
 
 では近代化以降、明治以降の日本はどうかと言うと、「士」の代わりに「官(*5)」になったが、「官僚の奥様」もやはり原則「専業主婦」であり、農業の機械化が始まって農業人口の減少が進んだ。その分「工」「商」が増えた形である。戦後特にその数を増した「サラリーマン」もまた「工」「商」の一種であろう。
 即ち、近代化以降、明治時代以降、日本の「専業主婦」は増え始め、ある時点で主婦の過半数を占めるに至ったと考えてよかろう。その「ある時点」を終戦前後と考えるならば、仙石言うように「専業主婦は日本に於いては戦後の風潮」と言うことになるのかも知れない。が・・・一寸信じられない。
 何しろ統計データ( http://www.stat.go.jp/data/nihon/zuhyou/16syo/n1600600.xls )によると、昭和55年・西暦1980年に於ける第1次産業就業人口は、就業人口の調度10%、10人に一人しかいないし、その後も減少を続けて、平成12年・西暦2000年には5%になっている。勿論この数値は第1次産業就業人口であるから、農夫ばかりでなく農婦も含むだろうし、漁師なども含んでいる筈だし、一方で2次産業3次産業にも「就業している主婦」が含まれている筈だし、全産業にわたって独身の就業人口も含んでいる筈だから厳密には言えないのだが・・・概略は掴めよう。
 それやこれやで「専業主婦が主婦の過半数を占めていた時代」と言うのは、日本においても戦前、それもかなり昔からであったように、私には思えるのである。
 
 一方今度は空間軸方向に広げて「専業主婦」を考えてみると、専業主婦は「就業している主婦」と同様我が国の専売特許ではないのだから、当然外国にも居るし、近代化以降の農業人口減少と近代化以前の農業が労働集約型であることなどは共通する部分が多い。さらに言うならば、少なくとも欧米列強諸国の近代化は日本よりも先行しているのだから、「専業主婦が主の過半数を占める時代」と言うのは、欧米列強諸国の方が日本よりも先輩であると断じる事ができそうだ。
 現状の欧米諸国では、ひょっとすると「就業している主婦=非専業主婦」の割合が高いために、専業主婦は少数派なのかも知れない。だが、そうなる以前に「専業主婦が主の過半数を占める時代」が相応にあったことは先ず間違いない。
 
 であるからして、先行記事及び先述の通り、仙石が
 
仙1> 専業主婦というのは、日本の戦後の一時期、約50年ほどの間に現れた特異な現象です。
 
と断言する根拠が、私にはサッパリ判らないのである。
 上述の通り、少数派ではあろうが「専業主婦」は日本においても平安時代まで遡れそうに思えるし、外国に目を転ずれば、少なくとも欧米列強は日本より先に「専業主婦が主婦の過半数を占める時代」を経験しているとしか思われないのである。
 
 さらに私に判らないのは、「仙4> (専業主婦と言う)男性中心社会の固定観念が病気である」即ち忌む可き存在であるとする仙石の思想である。

<注釈>
(*1)
 機械化された農業では、農婦ならざる「農家のお嫁さん」即ち農家の「専業主婦」もありうることとは思う。
 
(*2) 明治初期も含めてよいのかも知れないが。
 
(*3) 農耕馬ってのも、日本じゃ少数派だろう。
 
(*4) どうも推定に推定を重ねてばかりであるが・・・「私の専業主婦史『観』』と言うことで、御寛恕願おう。
 無論、ご指摘・反論は大歓迎である。
 
(*5) 職業軍人を含む。大日本国憲法には兵役があったから、成人男子は基本的にある期間軍に属していた。

 

3.キリスト教的原罪から「専業主婦」を考える

 キリスト教には「原罪」と言う考え方がある。人間は生まれながらにして、人間であるが故に、既に罪深いという考え方で、出典は最初の人類とされるアダムとイブの楽園追放、「失楽園」として知られているエピソードだ。
 このエピソードでは、全知全能たる(*1)神の作った楽園で平和に暮らしていた「最初の人類」アダムとイブ(*2)は、知恵の実を食べた罪に拠って楽園を追われ、さらに男のアダムには「労働の苦しみ」を、女のイブには「産みの苦しみ」を与えられたのだと言う(*3)。
 
  (a) 楽園を追放されたアダムとイブ  http://www.wa.commufa.jp/~anknak/a-kotowaza-01-kasekii.htm
 
 私はこの「原罪」と言う考え方は嫌いだ。
 まあ、嫌いと言うならば「全知全能の神」と言う時点で反発を覚えるのであるが、「人間は人間であるが故に罪=原罪を抱えている」では、あまりに救いが無さ過ぎる。
 
 
 況や、勤労や出産が原罪ゆえの神罰と言うのは、最早、噴飯モノとしか言いようが無い。
 
 さはさりながら、「人間には原罪があり、それ故に男には勤労、女には出産の苦しみが与えられている。」とするキリスト教の考え方が、かつては欧米諸国で絶大な影響力を持ち、今でも一定の影響力を保っている事も、この考え方が「主婦の専業主婦化」を促進する事も、認めないわけにはいかない。言うまでもないが就労している専業ならざる主婦は、「出産と勤労」と言う神罰の二重払いを科せられる公算大だからである。
 であるならば、現在欧米諸国に一定数見られ、仙石が賞賛してやまない「就業しており専業ならざる主婦」と言う存在は、以下の何れかの条件が必要と考えられる。
 
 ①原罪故の神罰の二重払いを克服できる強靭な精神力を持つ女性
 ②「子供を産まない(*4)」と言う選択をした女性
 ③キリスト教的原罪意識からの解放(*5)を果たした女性
 
 どの条件にしても、結構なハードルのように私には思われる。上記の内③だけは、非キリスト教徒たる私なんぞにはデフォルト状態であるが、キリスト教徒には厳しい条件だろうと想像する。それは、裏を返せば、「キリスト教の神は、主婦が専業主婦たることを望みたもう。」と言うことになる。
 
 私は非キリスト教徒であるから、キリストの神が何を望みたもうかにはさして関心はないし、原罪意識はもっと無い。さらには先述の通り、「勤労や出産は原罪に対する神罰」なんて教えには、思いっきり反発を感じるのであるが、「(キリスト教の)神は、専業主婦を望みたもう。」などと言われると(*6)、「おや、案外話のわかる奴じゃないか。」と思ってしまう。「結果的な利害の一致」と言うことであろうが(*7)、結果的に利害が一致するからこそ、協力できるのであろう。

<注釈>
(*1)
 癖にこの世を作るのに七日もかかったらしいが。
 
(*2) 厳密に言うならば、最初の人類はアダムで、その肋骨からイブが作られたことになっている。従って、「女性は人類ではない。」とも解釈できるし、神は自らに似せて人類を作ったとされていることから、「全知全能の唯一神たる神は、男性である。」とも解釈できる。
 
(*3) と言う事は、近代以前の農家の主婦には欧米キリスト教諸国でも一般的に見られる農繁期の主婦労働と言うのは、「労働の苦しみ」の内には入らないと見做されていた訳だ。
 
(*4) 「結婚しない」を含む
 
(*5) 「キリスト教棄信」を含む。
 
(*6) ああ無論、どこかの教会なり司教なりがそんなことを言った訳ではないのだが。
 
(*7) 何しろ、原理的には全く同意できないのであるから。

 

4. 前進せよ、「専業主婦」

 私とキリスト神との共同戦線の成否に関わらず、私自身が「専業主婦」を「男性中心社会の病気」とも「現代に於いては忌むべき存在」とも見做さず、仙石に全く同意できない事は既に述べて来たとおりだ。
 医学の発達により、出産がキリスト教発祥の頃ほどの難事でなくなったのは事実だが、それでも女性の生涯屈指の大事である事に変わりはない。育児もまた然りである。
 故に、私は、「主婦」は現代に於いても専業たるに価する大業であると考えるし、少なくとも自らの意思で「専業主婦」たらんとする女性を、強く支持する。
 
 最終的には個々の女性の自由意志の問題に帰着するであろうが、「職業に貴賎は無い。」のと同様に「専業主婦と就業している主婦との間に、貴賎の差なぞある筈が無い。」と私は考える。
 
 如何なものであろうか。