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転載開始=====================================================================
「嫌中」と「嫌共」は違う http://allatanys.jp/B001/UGC020002420101227COK00723.html
 日本人の中国人嫌いが増えているようです。
 今月発表になった内閣府の「外交に関する世論調査」によれば、「日中関係は良好ではない」との回答が過去最悪の9割近くに達したそうです。中国に「親近感を感じない」との回答も8割近くになりました。テレビや雑誌に出てくる「中国」のイメージも、あまり良くはありません。新聞に掲載される記事や読み物も、どちらかと言うと、対中警戒感の強い内容が多いようです。
 ひょっとしたら、日中関係は戦後最悪の時期を迎えてしまったのかもしれません。
 けれども、結論を先に言うと、私たち日本人は重大なミスを犯しているのではないか。混同のミスです。どのような混同かと言えば、中国共産党政府と中国人とを一緒くたにしているということです。
○中国政府の意図
 沖縄県・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件はどのように考えても先方に非がありました。一部に漁船の船長は酔っ払っていたという説もありますが、中国海軍は漁船を使って既成事実を作る行動をあちこちの領海近辺で実行していますから、偶発的な事件とみなすのは無理がある。
 あれ以来、中国海軍は尖閣諸島周辺への漁船監視船派遣を常態化させると言っています。中国政府の意図は推して知るべしです。
 船長を含む船員の拘束中、レアアースの禁輸に出たのも「嫌中」に拍車をかける結果になりました。日本人があっと驚いたのは、船長を釈放した直後、先方が「これで一件落着」という姿勢を示すどころか、返って補償を求めてきたことでした。
 事件をきっかけにあちこちで反日デモが起きました。中国ではデモは全て届け出制ですから、当初、デモは当局も容認していたと考えられます。ひょっとしたら、対日圧力を強めるため、デモを利用しようとさえしていたかもしれない。そのうち、反日デモが反体制に転化する恐れが生じ、デモを取り締まり出しました。
 中国共産党政府がその一党独裁体制の問題点をさらけ出したのは、ノーベル平和賞を与えられた作家・劉暁波氏の授賞式出席禁止です。当人だけではなく、家族の出席も禁止した。のみならず、日本を含め世界各国に対して公式の出席を差し控える要請をした。「お前さん方、何様だと思っているの?」と言われてもいたし方がないほどの傲慢さです。
 さらに、噴飯ものだったのは、ノーベル平和賞に対抗して、「孔子平和賞」を設けたことでした。
 この対応を見ていて思うことは、中国共産党政権がゆとりを失っているということです。場合によっては、中国共産党一党独裁の地盤が、かつてなく緩み始めているのかもしれません。
○鄧小平が生きていたら
 ここで、もし鄧小平あたりが生きていたら、どんな対応するだろうかと想像するのも楽しいことです。
 劉暁波氏の受賞に不快感程度は表明することでしょう。また、劉暁波氏は監禁されているのですから、釈放するわけにはいかないにしても、家族の式典出席くらいには目をつぶったのではないか。やり方はいくらでもある。ましてや、各国に式典出席を止めるよう要請などは絶対にしなかったでしょう。孔子平和賞の設置など、草葉の陰の孔子様が仰天するような決定は論外です。この一件で、どれほど中国のイメージを傷つけたことか。そう考えると、いまの中南海の住人たちは不肖の息子たちです。
 これら一連の行動は、全て中国共産党政府の決めたことであり、中国人全体の総意であると判断すべきではありません。共産党政権と中国人とは、切り離して考えるべきなのです。
では、多くの中国人はどんなことを考えているのか。おそらく大部分は無関心でしょう。「尖閣諸島」がどこにあるのか分からない人の方が多いのではないか。いや「尖閣」の字も知らないのではないか。事件が発生すると、たちまち街行く人々が「けしからん」といきり立つ日本とは、その辺が根本的に異なります。1億2千万人と14億人との間には、大変なスケールの違いがあると考えておかなければなりません。
 個人的な話で恐縮ですが、私は中国で生まれ育ちました。だから、ある程度彼らの感覚は分かるような気がしますし、中国人のことは愛憎を交え、ずっと考えてきたつもりです。独断を許されるなら、彼らは日本人よりはるかに個人主義に徹底しており、しかも超現実主義者たちです。かの毛沢東が「中国人は撒かれた砂のような民族で、容易に団結できない」と語ったことは有名です。おまけに中国には、たくさんの少数民族がいる。放っておけば、バラバラになってしまう遠心力が絶えず働いている。
 だからこそ、共産主義という強烈なイデオロギーが必要だったのであり、鄧小平以降、経済中心主義になってから、中国人をひとつにまとめるセメダインとして愛国主義を用いた。愛国主義の軸になったのが反日教育でした。だから、反日は共産党の都合によるものだったと言えなくもない。
○共産党独裁に批判的なインテリ
 「尖閣諸島」の「尖」の字も知らない人たちに、「日本は好きか、嫌いか」と問えば、「嫌い」と答えることでしょうが、次の瞬間、日本のことなど忘れてしまうことでしょう。
 また、国際関係をしっかりと考えているインテリの間では、共産党一党独裁に批判的な人も相当数います。中国のニュースサイトである「環球網」のコメント欄では、ノーベル賞の価値を否定する意見が多いが、中には中国人にノーベル賞に値する研究業績が少ないことを指摘する意見もちゃんとあります。
 ただ、共産党一党独裁を批判する意見は、弾圧されますから、表面には出てこないだけの話です。
 結論を言いましょう。「嫌共」(共産党一党独裁)と「嫌中」とは違う。二つを混同しないこと。
 私たちにできることは、隣の大国で民主化が進み、いろいろな意見が花咲く日を待つことです。その日は、いずれやってくると確信します。
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「中国はいつか民主化するから、それまで仲良くしておきましょう。」と言うお花畑的「日中友好論」

 全文を転載したのは、元日本経済新聞論説主幹にして作家だと言う水木 楊 氏の論説。
 平たく言えば「悪いのは中国共産党独裁政権だから、中国政府を嫌っても良いが、中国人は嫌うな。」と言うこと。
 
 なるほど記述されるとおり、基本的に中国には言論の自由はなく、デモは政府の許容したものだけであるから、そのマスコミに流布している言説も、反日デモの暴徒化も、「共産党一党独裁政権の性」に出来ない事もなさそうだ。
 
 だが、それは、「中国共産党政府が反日的言動や行動を支持し、容認しており、日本人に嫌われて当然の存在である」ことを示しており、「中国共産党一党独裁政権下では、中国国民の民意は政府に反映されないから、中国共産党政府と中国国民=中国人の意見は乖離している」可能性があると言っているだけだ。
 
 中国政府の主張・言動が、現状の報道であり、流布している言説であり、反日デモであり、日本人が当然嫌うべき対象であるとしても、それは「中国政府の言論・思想統制下にない、即ち現状ではない想像上の中国人」を好きになる理由には全くならない。
 
 第一、中国共産党が、その一党独裁政権の上に鎮座ましましている以上、如何に「インテリの一部が共産党に批判的」であろうとも、「中国政府の言論・思想統制下にない中国人」なぞ想定する事すら困難である以上、「中国政府は嫌っても良いが、中国人は嫌うな。」なんてのは、表題にした通り、「天下の奇説」としか言いようがない。
 
 北朝鮮国民が未だ金将軍を「民族の太陽」と押し頂いているのと同様に、中国国民は、その中国共産党一党独裁政権を押し頂いている以上、中国政府の罪の責任は、中国国民にもあるのである。
 
 私は、中国共産党一党独裁政権も、中国人も嫌いだ。
 
 「政府の言論・思想統制下にあって、そこから脱却しようともしない国民」なぞ、魂の自由を愛してやまない私のような人間には、嫌悪と侮蔑の対象でしかない。そ奴らやその政府が我が国の併呑侵略を狙うようならば、憎悪の対象ですらある。
 
 私の好きな中国人は、凡そ二種類に限る。
 
 一つには、既に死んで無力化した中国人。
 もう一つは、投獄弾圧にも拘らず中国共産党一党独裁政権に反旗を翻している中国人。後者ならば「中国共産党一党独裁政権の言論・思想統制下から脱却しようとしている中国人」と認め、好きにもなれば、尊敬もする。さらには、経済的・軍事的を含む支援も検討する価値が充分にある。残念ながら、未だ充分な数ではなさそうであるが。
  
 水木 楊 氏の論説に曰く。
> 私たちにできることは、
> 隣の大国で民主化が進み、いろいろな意見が花咲く日を待つことです。
> その日は、いずれやってくると確信します。
  「その日」は、我々が積極的に招来すべきなのだ。「いつか」などと悠長な事は言っておられまい。
 言い換えるならば、我々は、「中国共産党一党独裁政権の言論・思想統制下から脱却しようとしている中国人」を支援し、擁護し、中国共産党一党独裁政権を打倒すべきなのである
 
 今夜、自由を!