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木口小平と言っても今では知らない人の方が多いであろう事は否めない。何しろ日清戦争の話だから19世紀もどん詰まりの話だ。
木口小平はラッパ卒。だが、軍楽隊なんかをイメージすると間違える。
木口小平はラッパ卒。だが、軍楽隊なんかをイメージすると間違える。
19世紀も末といえば無線通信機はまだ艦船に在るかどうかも怪しいような時代。一方で銃火器はと言うと、薬夾式の連発銃は登場し、原始的な機関銃・ガトリングガンは既にあり、大砲の構造も可也近代的になって数が揃ってくる頃。つまり陸戦の戦場と言うのは相当にうるさかった筈だ。そんな中で命令を伝達する殆ど唯一の手段がラッパ卒のラッパ。陣太鼓や法螺貝の末裔は、指揮命令系統の中枢としての大任を担っていた筈だ。
そのラッパ卒の木口小平は、この日清戦争で戦死した。但し、戦死して絶息するまでラッパを吹き続け、死して尚、ラッパを口から放さなかったとされる。
口から放さなかったどころか、死んでもラッパの音は絶えなかったなんて怪談話じみた説まで在るから、史実と言うよりは伝承・伝説としての色彩が濃い。
「軍国美談」などとも言われ、「プロパガンダ」などとも非難される事もある。それ故に「戦後平和教育」からは抹殺され、今では覚えている人の方が少なくなってしまった。
だが、「死ぬまで(*1)己が職務を全うする」と言うその姿に、少なくともある種の美しさ、善美を見出すのは極自然な事であろうし、「人類共通の財産」と言っても過言ではあるまい。
「私の歴史観」シリーズ冒頭にも記したとおり、歴史と言うのは一面民族の物語であり伝承伝説なのであるから、日清戦争と言う高々100年ほど前の「歴史」を、日本人は忘却すべきではないし、忘れるのは実に勿体無い話である。
ああ、だが、我が日本人のDNAは、「戦後平和教育」の悪影響にも拘らず、木口小平の伝説を、覚えているようだ。
引用した報道記事は、当然ながら現代の、それも日本の騎馬警官の話。
> レソト王国大使の馬車を護衛していた警視庁騎馬隊の馬が突然暴れだし、
> 乗っていた男性巡査部長(56)が落馬、首の骨を折る重傷を負った。
そのラッパ卒の木口小平は、この日清戦争で戦死した。但し、戦死して絶息するまでラッパを吹き続け、死して尚、ラッパを口から放さなかったとされる。
口から放さなかったどころか、死んでもラッパの音は絶えなかったなんて怪談話じみた説まで在るから、史実と言うよりは伝承・伝説としての色彩が濃い。
「軍国美談」などとも言われ、「プロパガンダ」などとも非難される事もある。それ故に「戦後平和教育」からは抹殺され、今では覚えている人の方が少なくなってしまった。
だが、「死ぬまで(*1)己が職務を全うする」と言うその姿に、少なくともある種の美しさ、善美を見出すのは極自然な事であろうし、「人類共通の財産」と言っても過言ではあるまい。
「私の歴史観」シリーズ冒頭にも記したとおり、歴史と言うのは一面民族の物語であり伝承伝説なのであるから、日清戦争と言う高々100年ほど前の「歴史」を、日本人は忘却すべきではないし、忘れるのは実に勿体無い話である。
ああ、だが、我が日本人のDNAは、「戦後平和教育」の悪影響にも拘らず、木口小平の伝説を、覚えているようだ。
引用した報道記事は、当然ながら現代の、それも日本の騎馬警官の話。
> レソト王国大使の馬車を護衛していた警視庁騎馬隊の馬が突然暴れだし、
> 乗っていた男性巡査部長(56)が落馬、首の骨を折る重傷を負った。
> 巡査部長は落馬したが、
> 周りの一般の人に危害が及ばないように、手綱を放さなかった。
> 約27メートルにわたって引きずられた後、
> 車止めに衝突して頭を強打。
> その瞬間、手綱を放したが、馬も同時に止まったという。
勿論幸いな事にこの騎馬警官・巡査部長殿は一命を取り留めているし、この報道からする限り、「手綱を放さなかった」のは「車止めに頭を強打するまで」であり、恐らくは意識のある間だけであって「死んでも手綱を放さなかった」訳ではない。
「周りの一般の人に危害が及ばないように」手綱を放さなかったと言うのでさえ、実際には「パニックに陥って指が離れなくなった」だけかも知れないという可能性も認めよう。
だが、「約27メートルにわたって引きずられた」のは恐らく事実であり、その現象を「周りの一般の人に危害が及ばないように、手綱を放さなかった。」と解釈し、敬意を表し、讃える。そこに「木口小平の魂」を私は見出すのである。
木口小平の伝説を、「プロパガンダ」とか「軍国美談」としか解釈できない向きにとっては、「木口小平の亡霊」であるかも知れない。
別にその呼び名でも、私はかまわない。
民族の歴史は、少なくとも一面民族の物語であり、そこには民族の伝承・伝説が当然含まれている。
民族の物語、伝承、伝説には、民族の願い、思い、祈り、理想が込められている。
それをないがしろにする事は、自らの民族性を否定する事に他ならない。(*2)
たとえ、今回落馬して重傷を負った巡査部長殿が、「単にパニックに陥って手綱を放し損ね、ために重傷を負ってしまった間抜け(*3)」だったとしても、そこに「木口古平の影」を見出し、「周りの一般の人に危害が及ばないように、手綱を放さなかった。」と言う善美を見出しているのは事実であるから、「木口小平の伝説は、21世紀にも生きている。」と断じる事が出来るのである。
木口小平の魂、健在なり。
> 周りの一般の人に危害が及ばないように、手綱を放さなかった。
> 約27メートルにわたって引きずられた後、
> 車止めに衝突して頭を強打。
> その瞬間、手綱を放したが、馬も同時に止まったという。
勿論幸いな事にこの騎馬警官・巡査部長殿は一命を取り留めているし、この報道からする限り、「手綱を放さなかった」のは「車止めに頭を強打するまで」であり、恐らくは意識のある間だけであって「死んでも手綱を放さなかった」訳ではない。
「周りの一般の人に危害が及ばないように」手綱を放さなかったと言うのでさえ、実際には「パニックに陥って指が離れなくなった」だけかも知れないという可能性も認めよう。
だが、「約27メートルにわたって引きずられた」のは恐らく事実であり、その現象を「周りの一般の人に危害が及ばないように、手綱を放さなかった。」と解釈し、敬意を表し、讃える。そこに「木口小平の魂」を私は見出すのである。
木口小平の伝説を、「プロパガンダ」とか「軍国美談」としか解釈できない向きにとっては、「木口小平の亡霊」であるかも知れない。
別にその呼び名でも、私はかまわない。
民族の歴史は、少なくとも一面民族の物語であり、そこには民族の伝承・伝説が当然含まれている。
民族の物語、伝承、伝説には、民族の願い、思い、祈り、理想が込められている。
それをないがしろにする事は、自らの民族性を否定する事に他ならない。(*2)
たとえ、今回落馬して重傷を負った巡査部長殿が、「単にパニックに陥って手綱を放し損ね、ために重傷を負ってしまった間抜け(*3)」だったとしても、そこに「木口古平の影」を見出し、「周りの一般の人に危害が及ばないように、手綱を放さなかった。」と言う善美を見出しているのは事実であるから、「木口小平の伝説は、21世紀にも生きている。」と断じる事が出来るのである。
木口小平の魂、健在なり。
<注釈>
(*1) 若しくは「死して尚」。「魂魄、ここに止まりて」って奴だな。
(*2) 自らの民族性を否定したがる人が居る事も、承知はしている。それはその人の勝手だが、他人の民族性まで否定し、民族性の否定を強制する事は、看過し難い。
(*3) 大急ぎで付け加えると、私はそんな事は思っていないし、そうでない事、即ちこの「伝説」が事実である事の方を願い、期待している。ここで言うのは、あくまで「可能性」の話だ。