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報じられているのは、日本の高校無償化に便乗した朝鮮学校の無償化決定。
朝鮮学校を「日本の高校に準じた教育機関」と見なしての無償化であるが、今回報じれれて居るところでは、朝鮮学校の一大特徴でありそれ故に文科省の調査に対しては隠蔽が指示された「思想教育」「反日教育」は「無償化判定の材料にはしない。」と文科省は公言している。
この文科省の判断は、一見思想信条の自由を擁護したかのようにも見えるが、全く逆だ。
文科省が容認したのは、思想教育そのものである。
文科省が今回朝鮮学校に対し、「思想教育」「反日教育」は「無償化判定の材料にはしない。」として無償化した。と言う事は、「思想教育」「反日教育」は「日本の高校に準じる支障とはならない。」と判断したと言う事である。
それ即ち、文科省は、日本の高校で思想教育が実施される事を容認していることになる
実質は、一部の高校に於いては既に思想教育を実施中なのかも知れない。
その思想教育はひょっとすると、朝鮮学校のような反日教育ではなく、愛国教育であるのかも知れない(*1)。
私自身が受けた高校教育とて、政治的に無色透明とは言いがたかった事も事実だし、私自身がその「高校の政治色」に染まらずに済んだ事も認めよう。
だがしかし、「実質的には政治色がある」のと「思想教育を容認する」との間には、相当な乖離がある。それは「報道の不偏不党性」を追及するのも同じ事である。
本記事の分類を「民主主義の危機」としたのはその故である。今回の報道で公言された文科省の朝鮮学校無償化の理由は、日本の高校での思想教育を容認しており、それは民主主義の危機だからである。
私は、日本の高校での思想教育に反対する。
それは反日教育であろうと、主体思想教育であろうと、愛国教育であろうと反対する。
「実質政治色がある。」のは許容範囲とすべきであろう。が、国が教育機関による思想教育を容認すると言うのは、民主主義に反するのみならず、魂の自由を蹂躙しようと言う暴挙である。
日本の学校では、高校も含めて、思想教育など容認されるべきではない。
朝鮮学校が「高校に準じる教育機関」になるつもりならば、その思想教育・反日教育は断固中止されるべきであるし、それが「朝鮮学校ゆえに出来ない」のであれば、日本政府による無償化なぞ求めるべきではない。
朝鮮学校の無償化は、二重の意味で、否決されるべきであり、それを容認した文科省とその容認した理由は、文科省が民主主義の敵であることを示している。
我が、白薔薇は散らず。
朝鮮学校を「日本の高校に準じた教育機関」と見なしての無償化であるが、今回報じれれて居るところでは、朝鮮学校の一大特徴でありそれ故に文科省の調査に対しては隠蔽が指示された「思想教育」「反日教育」は「無償化判定の材料にはしない。」と文科省は公言している。
この文科省の判断は、一見思想信条の自由を擁護したかのようにも見えるが、全く逆だ。
文科省が容認したのは、思想教育そのものである。
文科省が今回朝鮮学校に対し、「思想教育」「反日教育」は「無償化判定の材料にはしない。」として無償化した。と言う事は、「思想教育」「反日教育」は「日本の高校に準じる支障とはならない。」と判断したと言う事である。
それ即ち、文科省は、日本の高校で思想教育が実施される事を容認していることになる
実質は、一部の高校に於いては既に思想教育を実施中なのかも知れない。
その思想教育はひょっとすると、朝鮮学校のような反日教育ではなく、愛国教育であるのかも知れない(*1)。
私自身が受けた高校教育とて、政治的に無色透明とは言いがたかった事も事実だし、私自身がその「高校の政治色」に染まらずに済んだ事も認めよう。
だがしかし、「実質的には政治色がある」のと「思想教育を容認する」との間には、相当な乖離がある。それは「報道の不偏不党性」を追及するのも同じ事である。
本記事の分類を「民主主義の危機」としたのはその故である。今回の報道で公言された文科省の朝鮮学校無償化の理由は、日本の高校での思想教育を容認しており、それは民主主義の危機だからである。
私は、日本の高校での思想教育に反対する。
それは反日教育であろうと、主体思想教育であろうと、愛国教育であろうと反対する。
「実質政治色がある。」のは許容範囲とすべきであろう。が、国が教育機関による思想教育を容認すると言うのは、民主主義に反するのみならず、魂の自由を蹂躙しようと言う暴挙である。
日本の学校では、高校も含めて、思想教育など容認されるべきではない。
朝鮮学校が「高校に準じる教育機関」になるつもりならば、その思想教育・反日教育は断固中止されるべきであるし、それが「朝鮮学校ゆえに出来ない」のであれば、日本政府による無償化なぞ求めるべきではない。
朝鮮学校の無償化は、二重の意味で、否決されるべきであり、それを容認した文科省とその容認した理由は、文科省が民主主義の敵であることを示している。
我が、白薔薇は散らず。
<注釈>
(*1) トテモシンジラレナイ。朝鮮学校のよな主体思想教育でなければまだ見つけモノの、反日教育である公算大である。