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1.毎年8月初旬となると・・・
8月と言えば北半球では夏。日本では「お盆」と言う風習があり、故人や御先祖様の魂があの世からこの世へ戻って来るとされる季節。勢い故人・先祖・歴史について思い巡らす機会も増える頃と言えよう。
無論、その機会を増やしているのはお盆のような土俗の習慣ばかりではなく、先の大戦即ち大東亜戦争(太平洋戦争)の「終戦記念日」が8月15日であり、それに先立つ8月6日が広島、8月9日が長崎に対する人類史上初にして今のところ唯一の核攻撃=原子爆弾投下が実施された日だからでもある。
そのため毎年8月になると我が国では広島・長崎を中心に「原爆犠牲者に対する慰霊」が行われ、追悼式があり、「核廃絶の祈り・願い」が繰り返され、一種日本の風物詩と化している。(*1)
8月と言えば北半球では夏。日本では「お盆」と言う風習があり、故人や御先祖様の魂があの世からこの世へ戻って来るとされる季節。勢い故人・先祖・歴史について思い巡らす機会も増える頃と言えよう。
無論、その機会を増やしているのはお盆のような土俗の習慣ばかりではなく、先の大戦即ち大東亜戦争(太平洋戦争)の「終戦記念日」が8月15日であり、それに先立つ8月6日が広島、8月9日が長崎に対する人類史上初にして今のところ唯一の核攻撃=原子爆弾投下が実施された日だからでもある。
そのため毎年8月になると我が国では広島・長崎を中心に「原爆犠牲者に対する慰霊」が行われ、追悼式があり、「核廃絶の祈り・願い」が繰り返され、一種日本の風物詩と化している。(*1)
<注釈>
(*1) とは言え、毎年「今年は何人の被爆者がお亡くなりになり、原爆犠牲者の名簿に記載されました。」と言うのは納得しかねる。
神ならぬ身の人は定命の者。戦後既に65年も経つのだから、原爆投下時に広島なり長崎なりに居た「被爆者」も、寿命が尽きるのは当たり前。それを全員「原爆犠牲者」と呼ぶのなら、その名簿は「被爆者」が全滅するまで続くだろう。
SFペリー・ローダン シリーズの様に「原爆の放射線の為に日本人にはエスパーが生まれる可能性が高まった。」などと言う能天気もどうかとは思うが、当時広島・長崎に居た「被爆者の死」を全部原爆の性にはできまい。
2.核廃絶の祈り・願い」は65年間で何を為したか?
毎年繰り返される「核廃絶の祈り・願い」が戦後連綿と続いているとすると、今年は戦後65年であるからその祈り・願いも65周年と言う事になる。毎年居1回づつしか祈ったり願ったりする訳ではないだろうから、決議なりアピールなりの回数でいえばとうに65回を超えているのに違いない。
とは言え、その決議なりアピールなりとして出された「核廃絶の祈り・願い」が一体何を為したであろうか?
成る程、我が国の「国是」とも称される「非核三原則」はその祈り・願いの一つの帰結であると言えよう。しかしながら、その非核三原則の出された背景にあるのは「中国に対する各先制攻撃の保証」であり、「核兵器の領海領域通過の黙認ないし不可知」である。
毎年繰り返される「核廃絶の祈り・願い」が戦後連綿と続いているとすると、今年は戦後65年であるからその祈り・願いも65周年と言う事になる。毎年居1回づつしか祈ったり願ったりする訳ではないだろうから、決議なりアピールなりの回数でいえばとうに65回を超えているのに違いない。
とは言え、その決議なりアピールなりとして出された「核廃絶の祈り・願い」が一体何を為したであろうか?
成る程、我が国の「国是」とも称される「非核三原則」はその祈り・願いの一つの帰結であると言えよう。しかしながら、その非核三原則の出された背景にあるのは「中国に対する各先制攻撃の保証」であり、「核兵器の領海領域通過の黙認ないし不可知」である。
非核三原則の舞台裏 http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/21333645.html
非核三原則は虚構である http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/32092292.html
なおかつ、その非核三原則は所詮我が国の「国是」でしかない。我が国自身の核装備と、せいぜいが我が国への「核兵器持込」を禁じるのみであるし、「核兵器持込」については「表向き」以上のものではない。
つまり・・・
広島・長崎の「核廃絶の祈り・願い」が通用したのは、我が国だけ、と言う事になる。我が国の「非核3原則」としてだけ具現化し、他には具体的成果が全く無いと言って良かろう。
上記に対し、反発する向きがあろう事は予想している。あちこちの地方自治体が「非核平和都市宣言」なる物を出していたりもするし、「グローバル・ゼロ」なる「国際的な」署名活動もあったりする。最近では、オバマ大統領がプラハ演説で「核のない世界」を目指すことを宣言している。
が、何れも宣言である。宣言でしかない。
即ち、何の実効も伴っていない。せいぜい、「非核平和都市宣言」が、我が国の核武装化を「阻止」しているばかりである。
ジョン・ポール・ジョーンズ流に言えば「戦いはまだ始まっていない!」のである。それは、最も新しく最も影響力ある人間の宣言であり、一番期待がもたれているであろうオバマ合衆国大統領によるプラハ演説でも同じ事である。
「言うだけだったら、何とでも言えるわなぁ。」-岡部ださく-
非核三原則は虚構である http://blogs.yahoo.co.jp/tiger1tiger2stiger/32092292.html
なおかつ、その非核三原則は所詮我が国の「国是」でしかない。我が国自身の核装備と、せいぜいが我が国への「核兵器持込」を禁じるのみであるし、「核兵器持込」については「表向き」以上のものではない。
つまり・・・
広島・長崎の「核廃絶の祈り・願い」が通用したのは、我が国だけ、と言う事になる。我が国の「非核3原則」としてだけ具現化し、他には具体的成果が全く無いと言って良かろう。
上記に対し、反発する向きがあろう事は予想している。あちこちの地方自治体が「非核平和都市宣言」なる物を出していたりもするし、「グローバル・ゼロ」なる「国際的な」署名活動もあったりする。最近では、オバマ大統領がプラハ演説で「核のない世界」を目指すことを宣言している。
が、何れも宣言である。宣言でしかない。
即ち、何の実効も伴っていない。せいぜい、「非核平和都市宣言」が、我が国の核武装化を「阻止」しているばかりである。
ジョン・ポール・ジョーンズ流に言えば「戦いはまだ始まっていない!」のである。それは、最も新しく最も影響力ある人間の宣言であり、一番期待がもたれているであろうオバマ合衆国大統領によるプラハ演説でも同じ事である。
「言うだけだったら、何とでも言えるわなぁ。」-岡部ださく-
3,「核廃絶の祈り・願い」は今後何を為しうるか?
とは言え、いみじくもオバマ大統領のプラハ演説にも以下の通りある。
> 我々はこの努力において一人で成功することはできない。
> しかし我々は先頭に立つことができるし、始めることができる。
オバマ大統領の核兵器廃絶に関する演説 (翻訳全文) - 国際情報センター
http://www.asyura2.com/09/kokusai4/msg/171.html
> しかし我々は先頭に立つことができるし、始めることができる。
オバマ大統領の核兵器廃絶に関する演説 (翻訳全文) - 国際情報センター
http://www.asyura2.com/09/kokusai4/msg/171.html
この一節jにある通り、「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」を宣言なりプラハ演説なりとして具現化し宣言する事で、次の実効につながることが期待されるのは理解するし、今や世界一の核兵器持ちであるオバマ合衆国大統領の言葉ともなればなおさらだろうとも思う。
が、その同じ「核廃絶を目指す」と宣言したプラハ演説の中でオバマ大統領の曰く。
> それで私は明確にかつ確信を持って、核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するとの米国のコミットメントを声明する。
> 私はうぶではない。この目標は迅速に到達されない。
> たぶん私が生きている間には。これには忍耐と粘り強さがいる。
が、その同じ「核廃絶を目指す」と宣言したプラハ演説の中でオバマ大統領の曰く。
> それで私は明確にかつ確信を持って、核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するとの米国のコミットメントを声明する。
> 私はうぶではない。この目標は迅速に到達されない。
> たぶん私が生きている間には。これには忍耐と粘り強さがいる。
言い換えれば、「オバマ大統領の生きている間に、核兵器なき世界が実現するというのはうぶな考えだ。」と言明している。人類初の核攻撃以来65年に渡る「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」が、さらに2、30年以内に実現するとは、そうそう信じるべきではないということだ。
一方で同演説は「核兵器なき世界」への具体策として以下のように述べている。
(1) 現核兵器保有国同士の核兵器削減
(2) 核拡散防止体制の強化、即ち新たな核兵器保有国/保有者の出現阻止
(3) 上記(2)のために北朝鮮、イラン、テロリストの核兵器開発及び保有阻止
(4) 上記(3)のための新たな国際的取り組みを4年以内に発表
(1) 現核兵器保有国同士の核兵器削減
(2) 核拡散防止体制の強化、即ち新たな核兵器保有国/保有者の出現阻止
(3) 上記(2)のために北朝鮮、イラン、テロリストの核兵器開発及び保有阻止
(4) 上記(3)のための新たな国際的取り組みを4年以内に発表
オバマ大統領のプラハ演説の眼目は、公平に見れば、即ち「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」に強く拘泥しなければ、上記(2)及び(3)即ち「北朝鮮、イラン、テロリストの核兵器保有阻止のための核拡散防止体制強化」であり、喧伝される「核兵器なき世界を目指す」のは少なくともその次のステップである。
プラハ演説即ち昨2009年4月の時点では上記の通りであった。あれから1年以上が経つが、その後はどうであろうか。
上記(1)~(4)の内、(1)はいくばくかの進展が見られると、贔屓目に見て言えたとしても、イランの強硬姿勢は相変わらずであるし、北朝鮮が米韓共同軍事演習に「強力な核抑止力で対処」などと嘯いたのもつい先日だ。テロリストは相変わらず良くわからないばかりであり、核拡散防止体制の強化は、北朝鮮への対処を含めて甚だ心許ない。
つまり、「核なき世界を目指した」とされるオバマ大統領のプラハ演説に即したとしても、「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」はその前段階、「北朝鮮、イラン、テロリストの核兵器開発及び保有阻止」にすら成功しておらず、成功の目処も未だない。その段階で停滞していると、断ぜざるを得まい。
プラハ演説即ち昨2009年4月の時点では上記の通りであった。あれから1年以上が経つが、その後はどうであろうか。
上記(1)~(4)の内、(1)はいくばくかの進展が見られると、贔屓目に見て言えたとしても、イランの強硬姿勢は相変わらずであるし、北朝鮮が米韓共同軍事演習に「強力な核抑止力で対処」などと嘯いたのもつい先日だ。テロリストは相変わらず良くわからないばかりであり、核拡散防止体制の強化は、北朝鮮への対処を含めて甚だ心許ない。
つまり、「核なき世界を目指した」とされるオバマ大統領のプラハ演説に即したとしても、「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」はその前段階、「北朝鮮、イラン、テロリストの核兵器開発及び保有阻止」にすら成功しておらず、成功の目処も未だない。その段階で停滞していると、断ぜざるを得まい。
4.「核廃絶の祈り・願い」を越えて
繰り返しになるが、「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」はその原爆投下実施=核攻撃以来65年間連綿と続いてきた。この間に20世紀屈指の頭脳と言ってよいアインシュタイン博士をはじめとする著名人達の支持を受けながらも、その実効は北朝鮮への核拡散=核兵器開発一つ阻止できないで居る。無論米国以外への広義の「核拡散」即ち露英仏中の国連常任理事国とインド、パキスタン、イスラエルへの拡散に対しても何も貢献しなかった。
冷戦終結は、核兵器廃絶と言う意味では大いに朗報であるが、残念ながら「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」がその冷戦終結に寄与したとは私には思われない。寄与したとしたら、広島・長崎の犠牲が冷戦を熱戦とするのを躊躇させた、と言う一点であろう。
オバマ大統領が「核なき世界」を謳ったプラハ演説が、「核なき」どころか「核の拡散を防止する」世界の構築にさえ未だ至っていないのは前述の通り。
これらの意味するところは、「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」だけでは「核なき世界」なぞ実現しようがないということだ。それは希望ではあろうが、「広島・長崎」及びそれに賛同する人達の祈りであろうし願望であろうが、それだけにしか過ぎない。
一方で核兵器を手にする事で体制の維持を図ろうとする北朝鮮や、影響力の拡大を図るイランやテロリストのような輩は必ず居るし、彼らには「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」など届きようがないのである(*1)から、その祈り・願望だけでは「核なき世界」を作るには足らないのである。
策が要る。
その策を、オバマ大統領のプラハ演説は、「現核兵器保有国の連携と、新たな核兵器保有者の出現阻止」に置いた。第一歩としては悪くないとは思うのだが、現実にはその第一歩ですら未だ成功していないし、第二歩はさらに困難だ。「現核兵器保有国の連携を取りつつ核兵器の削減」はまだ実現性がありそうだが、「新たな核兵器保有者の出現阻止しつつ、現有核兵器の廃絶」は私の乏しい想像力を絶している。何度も書いているが「核兵器なき世界」は、単純に考えて「ただ一国の核兵器保有国によって、全世界が支配されかねない世界。」であるからだ。
我が国がその一国になろうというのならば、それはそれで筋の通った戦略ではあるが、同じこと考えている国はいくらもありそうだから、簡単ではない。
とは言え、
「核なき世界」を実現し、それを長期に安定化(*2)するためには、幾ら広島や長崎屋その他誰であろうと祈り、願うばかりでは全く足らない。
現在核兵器を持とうとする国や集団を阻止し、現核兵器保有国の核兵器を全廃させ、さらにその後新たな核兵器保有者の出現を阻止するだけの、巧妙な策が必要である。
して、その策は?と問われたら、私にはNo Ideaとしか答えようがない。
強いて答えるとするならば、ロバート・A・ハインラインの「栄光のスペース・アカデミー」など幾つかのSFに描かれている、「国際機関による核兵器の一元管理」ぐらいしか思いつかない。とは言え、ハインラインはこの核兵器の国際管理体制が築かれるまでに世界大戦とその後の混乱があったと描いているし、軌道上に核爆弾衛星が周回しているというその世界が、「広島・長崎の核廃絶への祈り・願い」にどれだけ合致しているかも、甚だ疑問ではある。
「君主は、獅子の心を以って、狐の技を用うべし。」とは、マキャベリの君主論。核廃絶を実現するには、マキャベリの君主以上の狡知が必要であろう。
<注釈>
(*1) 彼らは、核兵器が恐ろしい物であることを知っており、その恐ろしさゆえに核兵器が欲しいのであるから、いくら「核兵器は恐ろしい」と言ったところで、ますます欲しくなるだけである。
それは、「剣は自らの手にあるべきだ。」と独自核武装を決定した、フランスのシャルル・ド・ゴールも同様であったろうが。
(*2) 幾らなんでも恒久化は虫が良すぎよう。