1 国際人は、国粋人である。
1.「一字違うと大違い」

 俗に、「一字違うと大違い」などと言う。狂歌の御題にもなる。
 「世の中は、一字違うと大違い。
  Aにナントカ。Bにカントカ」と言う形を取る。
 例えば、
 「世の中は、一字違うと大違い。
  刷毛(はけ)に毛があり、ハゲに毛が無し」と言う具合である。
  
 「国際(コクサイ)」と「国粋(コクスイ)」というのも「一字違うと大違い」の例だろう。
 「国粋主義」と言えば狂信的な愛国主義として否定的な評価だろうし、「国際人」とか「国際主義」と言えば、まあ普通は肯定的な評価であろう。
 が、「国際人」とは果たしてどのような人を指すのだろうか。


2.「国際人」を考える

 「国際人」、横文字で言うとInternationalistとか「コスモポリタン」とか言うのだろうが、通常のイメージは「国と言う枠を超えて、全地球とか全人類と言う視点に立つ人」と言うところだろう。
 それ故に国と言う狭い・小さい対象に固執する「国粋主義」とは対極と見なされるし、全地球とか全人類と言う大きな立場に立つ人は、「国」と言えば自分の母国にさえ拘らないというイメージが強いように思う。
 そういう意味では、「友愛外交」を掲げ、実践までしてしまう(※1)鳩山首相何ざぁ「国際人」の典型なんだろう。(※2)
 


<注釈>
(※1) 「友愛」。掲げるだけなら、なかなか良いフレーズだ。が、実践するとなると話は別だ。
 況わんや、外交方針として実戦するなぞ、狂気の沙汰だ。
 まあ、狂気の沙汰で国民に「選ばれて」しまった政権じゃあ、無理もないが。
(※2) 日本国首相は自衛隊3軍の最高指揮官である。その人が、日本と言う母国に「拘らない」としたら、国防上の一大問題の筈なんだが・・・「連立政権の共通公約に安全保障策が無い」のに比べれば、大した問題ではないか。


3.「地球を愛する」を考える

 しかしながら、「私は我が国を愛しません。全地球、全人類を愛します。」などとぬけぬけと言ってのける「国際人」は私にはどうも信用できない。
 
 インド独立の父にして非暴力主義の主張者(にしてある範囲での実践者。)マハトマ・ガンジーや、マザー・テレサ、或いは逆説的だが天ちゃん(※1)級の「無私の人=私が無い人」であればそれも可能だろうが、普通の人が家族や郷土や祖国を飛び越していきなり「地球」や「人類」を愛せるとはとても思えない。
 仮に私がそんな「国際人」を目指したとしたら、絶対に失敗する自信がある。国も郷土も家族もないがしろにするくせに、「地球に優しく」だの「人類皆兄弟」だの綺麗事ばかり抜かす嫌な奴が出来上がるだろう。

 そんな「国際人」を肯定的に評価する事はできない。(※2)


<注釈>
(※1) 今上陛下の愛国の至誠は、唯の一点も疑念の余地はない。
 「彼こそアメリカそのものだ。」とはジョン・ウエインに捧げられた賛辞だが、「天皇陛下は日本、日本の歴史そのものだ。」と言うのは事実の追認であって賛辞でもナンでもない。
 と同時にその「無私の愛」、「愛」と言って語弊があるなら「民を慈しむ心」は普遍的であり、全地球規模であると私には思われる。
 「地球は人類だけのものではなく、全生物一部無生物のものでもある。(から外国人に参政権をやるのも当然だ。)」等と主張する鳩山首相とは、似ているようで、比べるのも恥ずかしくなるほどレベルが異なるのである。
(※2) 言い換えれば、私は「国際人としての鳩山首相」なるものを、全く評価していないと断言するし公言する。


4.国際人は、国粋人である。

 「私は私の国を愛する。
  故に貴方が貴方の国を愛するのを理解するし尊重する。」

 普通の人がなれる「国際人」は、このレベルを大きく超える事はできないのではなかろうか。

 「そんなものはとうに超えている。」と主張する御仁があれば、先ず「警戒警報発令」だ。
 その主張は嘘である公算大である。ガンジーやマザー・テレサや天ちゃんは、そうやたらには居ないのである。諸兄ご承知の通り、余程の事情がない限り(※1)、「無私の人」がのほほんと生きていけるほど、世の中甘くないのである。
 
 故に、私の考えでは、逆説的だが、
 「国際人は、国粋人」であり、
 「真のNationalistのみがInternationalistたり得る。」のである。


<注釈>
(※1) 天皇陛下という地位は、正しく「余程の事情」である。