(C)冷戦時代-「運命の日」への準備-  にほんブログ村 歴史ブログへ(文字をクリック) 

 「戦争の抑止と戦争の準備を、同時に進めることは出来ない。」と言うのは、アルバート・アインシュタイン博士の言葉だそうだ。いうまでもないが、アインシュタイン博士は相対性理論の提唱者であり、20世紀屈指の物理学者である。その頭脳もまた20世紀屈指であろうし、当然私なぞの遠く及ぶところではないだろう。
 それを承知しつつも、私はこの言葉に異を唱え、反論せざるを得ない。
 「アインシュタイン博士、あなたが目の当たりにしたはず(*1)の冷戦時代は、米ソ両国が核戦争の準備を進めつつ、結果として核戦争を抑止し、「ソビエト連邦の分裂」と言う形で西側に「勝利」をもたらしました。
 博士の考えは、間違っていたと、実証されました。」と。
 
 今のロシアの強行策は、「新冷戦」との呼び方もあるが、かつての、「全人類、少なくとも人類文明が、全面的核戦争で滅びるかも知れない。」と言う恐怖が現存した冷戦時代に比べれば、「コップの中の嵐」とはいわぬまでも、「風呂桶の中の台風」ぐらいにしか過ぎない。
 
 閑話休題(それはさておき)
 広島と長崎に対する原子爆弾を以って、戦略爆撃は核時代を迎える。当初は核兵器と言えば原子爆弾しかなく、核攻撃能力は戦略爆撃機及び戦略爆撃機を擁する空軍(*2)の独占だったから、戦略爆撃の重要性・致命性は今より高かった。
 広島・長崎に対する核攻撃を契機として終結した(*3)第2次大戦は、同時に米ソ冷戦の始まりでもあった。エルベ川で交わされた米ソ両軍の握手は、程なく東西ドイツ他を境とする米ソの対立に取って代わった。
 「二大陣営による対立」と言うだけなら、第2次対戦前の連合国(米、英、蘭、仏)対枢軸国(日・独・伊)と大差なく、再び世界大戦となる可能性があったろうが、米に続いてソ連が核実験に成功し、核兵器を配備すると、そうおいそれとは戦端を開くわけにはいかなくなる。何しろ、たった1機の核爆弾搭載戦略爆撃機の侵入を許しただけで、都市が一つ吹き飛んでしまう事は広島・長崎で実証されているし、核爆弾の威力も、爆撃機の能力も、その後向上している。次に吹き飛んでしまう一都市は、ワシントンかモスクワかも知れないのだ。「明日は我が身」と思えばこそ「ノーモア広島」の思いはなおの事強くなる。
 その思いが、原水禁や原水協の人達が望むような、或いはオバマ大統領の演説(だけ(*4))のような「核兵器の廃絶=核なき世界の実現」につながらないのは、「こちらが核兵器を削減/廃絶したとしても、相手が削減/廃絶するとは限らない。」と言う冷徹な現実と判断であり、そうであればこそ冷戦も大部経ってから成立した核兵器削減の諸条約も(SALT,SALT II,START)相互に検証可能な削減を旨としているし、そういう条約でなければ米ソどちらも調印しなかったろう。
 であればこそ、「相互に削減」することはあっても、「核兵器保有国が世界に一つだけになったら、その国に全世界が支配されかねない」核兵器なき世界なぞ、米ソともに目指しもしなければ、掲げもしなかった。
 
 とは言え、この核兵器による冷戦時代は、戦略爆撃にとって一つの頂点であったろう。それは、米ソ両国の戦略爆撃機による水爆パトロールに端的に現れている。
 戦略核兵器としては、爆撃機についで弾道ミサイル(ICBM、IRBM)が実用化され、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)がこれに続いて「核の三本柱」が完成した。このうち戦略爆撃機は、即応性や残存性の点で残りの2本柱に譲るところ大であったが、柔軟性と言う点では優れていた。
 その欠点を補い、長所を活かすのが水爆パトロールである。
 即ち、平時の間から、戦略爆撃機は核爆弾を搭載して定期的に空中周回している。空中周回と言えば聞こえはよいが、実質は敵の核先制攻撃によって地上に居る内に戦略爆撃機が全滅させられないための、空中退避だ。
 空中周回する戦略爆撃機は一定時間一定コースを巡り、何事も無ければそのまま基地へ帰投する。が、条件がそろって本国が核攻撃を受けたと判断されれば、それぞれが指定された敵国都市なり基地なりを核攻撃すべく前進を開始する。「運命の日 Doom's Day」は来てしまったのだ。
 一旦この航程に入ってしまうと、核攻撃に向かう戦略爆撃機は止まったり戻ったりしてはいけないことになっていると言うのが、多くの「最終戦争物」が作られた背景だ。小説で言えば「破滅への2時間」。映画でいえば「未知への飛行」「博士の異常な愛情または私がいかにして心配するのを止め、水爆を愛するようになったか。」などがある。
 真、心温まるとは程遠い情景ではあるが、冷戦の冷厳な現実であり、戦略爆撃機の絶頂ともいえる。かような柔軟性、抑止力と実行力のバランスは、「長距離飛行可能な戦略爆撃機の空中周回」だからこそ可能であり、地上基地或いは地上走行<<ICBMやIRBMでは<未だ実用化はしていないようだが。>>>の弾道ミサイルや、潜水艦発射のSLBMではこうはいかない。
 
 一方で、現実の戦略爆撃の実施は逆に相当制限を受ける。朝鮮戦争では、北朝鮮に大軍の「義勇軍」を派遣した中国に対し、戦略爆撃、なかんずく核攻撃をかけるよう進言したがためにマッカーサー司令官は解任の憂き目を見た。ベトナム戦争では、北ベトナムに対する戦略爆撃は「北爆」と特別な名称で呼ばれ、さらに爆撃時期やら攻撃目標やらに大いに制限を受けた。
 これらの事象を「戦略爆撃の非人道性に対する、人道主義の勝利」と捕らえる事も出来ないではないだろうが・・・私にはそんな「性善説」は信じられない。つまるところ、これら戦略爆撃の制限は、「全面核戦争につながる恐れがある/あると思われたから」即ち北ベトナムや中国の背後に冷戦の大親分・ソ連が控えていたからと考えた方が遥かに合理的だ。
 
 言い換えれば、第2次大戦のドイツや日本は、核兵器保有国(そんなものは当時世界中でアメリカしか無かったが。)の後ろ盾が無かったから、思い切り戦略爆撃をかけられた訳だ。
 
<注釈>
(*1)アインシュタイン博士は1955年に亡くなられている。ベルリン封鎖、朝鮮戦争は御覧になった筈だ。
(*2)米空軍は、戦後ほど無く陸軍航空隊から改編されて誕生した。
(*3)原子爆弾は契機ではあるが、原因とは言い難い。B-29が爆弾以外にばら撒いた機雷による港湾封鎖と、通常爆弾による戦略爆撃だけでも十分な損害を我が国はこうむっていた。
 さらに、決定的なのは天皇陛下の御聖断と玉音放送だったと私は考えている。これらが無ければ、原爆二発と機雷による港湾封鎖と、日本全国が焦土と化す戦略爆撃にも拘らず、「最後の一兵」どころか最後の一人に至るまで徹底抗戦していた公算大である。
(*4)言うだけならタダだ。



(4.)現在-冷戦後の戦略爆撃-

 先述の通り、戦略爆撃と戦術爆撃と言うのは、爆撃機の使い方である。機体によって得手不得手はあるものの、戦略爆撃機として配備された機体が戦術爆撃を実施する事は珍しくない。逆は航続距離が問題になるが、それさえクリアならば後は効率だけの問題(*1)で、実施は可能だ。
 事実、戦略爆撃機として米空軍で長く主力の座にあるB-52ストラトフォートレスは、今では長大な航続力と他の追随を許さない爆弾搭載量で、戦術爆撃に精出している。
 
 戦略爆撃機として特別な機体を保有する空軍も多くは無い。アメリカ、ロシア、中国、フランスぐらいまでは数えられるが、そこでぴたりと止まってしまう。いずれの国においても、戦略爆撃機と核爆弾ないし核兵器はセットになっている。第2次大戦でドイツを盛大に戦略爆撃した英軍でも、核兵器を潜水艦発射弾道弾に絞り込んで以来、戦略爆撃機の陰は薄くなり、今では全機退役してしまった。
 
 そうすると、戦略爆撃と言う手段は、核兵器と不可分になり、事実上実行が不可能になったのだろうか?
 
 そう安心するのは早計と思われる。B-52は戦略爆撃を実施しなくなって久しいが、別に爆撃しなくなったわけではないし、戦術爆撃から戦略爆撃に切り替えるのは、決意と訓練の問題であって器材・装備の問題ではない。言い換えると比較的短期間に切り替えられる。
 米国はじめとする諸国が今戦っている対テロ戦争と言うのは、「戦略爆撃が効き難い」戦争であるのは事実だろう。テロリストの継戦能力を物理的に壊滅させるには、まず第一に相当な情報精度が必要である。
 次に十分な情報精度があったとしても、「テロリストでない民間人」の犠牲は免れまい。また、それを厭う所もないではないので、ベトナム戦争における北爆のように戦略爆撃に対する制限がつきまとう。「テロリストでない民間人」と「テロリストの継戦能力の一環をなす民間人」とは境界も定義もあいまいであり(*2)、そのあいまいなグレー領域は何時攻撃対象となったとしても不思議はない。
 「確実で、損害の少ない勝利」の前には、いつでも戦略爆撃に対する制限、或いは「テロリストでない民間人」の犠牲に対する嫌悪は、吹き飛ぶ可能性が常にあるとは、思っておくべきだろう。
 
 戦争を、甘く見るな。
 戦争は、「戦(いくさ)」ではない。


<注釈>
(*1)少ない爆弾等裁量で戦略爆撃を実施する事は、効率が悪い。
(*2)例えば、先日NATO軍の空爆で奪われたタンクローリーが破壊された際、巻き添えで死んだ約100人の内約3割はテロリストではなく「テロリストに命じられてタンクローリーから燃料を抜こうとしていた民間人だった。」と報じられている。
 テロリストが「民間人に命じて抜いた燃料」をどうする心算だったかを考えれば、テロリストに命じられてこれに従う民間人は、善かれ悪しかれ「テロリストの継戦能力」だ。
 「脅されて従っているだけの民間人を空爆するとは、何て酷い事を。」と言う心情は理解できるが、「脅され従っているだけの民間人」が利敵行為を働いているのだから、これに遠慮して空爆を見合わせるなんて事を期待するのは、甘過ぎる。