ハヤカワ文庫に、ハヤカワNF文庫と言うのがある。NFとはノンフィクションの略号。「アシモフ博士の科学エッセイ(但し絶版)」等のエッセイや記録を集めた文庫で、かつての私の愛読文庫の一つだった。
私が愛読していたのは、先述のアシモフ博士もさることながら、「バルジ大作戦」「砂漠の戦争」「おお!エルサレム」「パリは燃えているか」等、主として第2次大戦を描いたノンフィクションだから、まあ私の持つやくざな趣味の一つ「戦史研究」と言う奴だな。
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私が愛読していたのは、先述のアシモフ博士もさることながら、「バルジ大作戦」「砂漠の戦争」「おお!エルサレム」「パリは燃えているか」等、主として第2次大戦を描いたノンフィクションだから、まあ私の持つやくざな趣味の一つ「戦史研究」と言う奴だな。
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1.2 「攻防900日」
The 900 DaysもそのハヤカワNF文庫で読んだものだ。
邦題を「攻防900日」と言う。
時は第2次大戦下、所はソ連のレニングラード、今で言うペテルスブルク。この都市は独ソ戦の初期にドイツ軍によって包囲され、包囲状態のまま延々と戦い続ける事になる。その期間、実に900日。これが本のタイトルにもなっている。
ベルリン封鎖やエルサレム包囲にも見られる通り(いや、普通は見ていないだろうし、私も肉眼で見たわけではないが)、都市と言う物は自給自足能力が無く、物資にせよ食料にせよ消費するばかりであるから、包囲されると、物資にも食料にも欠乏する事になる。
邦題を「攻防900日」と言う。
時は第2次大戦下、所はソ連のレニングラード、今で言うペテルスブルク。この都市は独ソ戦の初期にドイツ軍によって包囲され、包囲状態のまま延々と戦い続ける事になる。その期間、実に900日。これが本のタイトルにもなっている。
ベルリン封鎖やエルサレム包囲にも見られる通り(いや、普通は見ていないだろうし、私も肉眼で見たわけではないが)、都市と言う物は自給自足能力が無く、物資にせよ食料にせよ消費するばかりであるから、包囲されると、物資にも食料にも欠乏する事になる。
都市は包囲され、周囲からの物流を断たれると、飢えるのだ。
レニングラードも、飢えと武器弾薬はじめとする物資の欠乏に悩みながら、戦い続けることになる。それを描いたのが、この本だ。
レニングラードも、飢えと武器弾薬はじめとする物資の欠乏に悩みながら、戦い続けることになる。それを描いたのが、この本だ。
1.3 異説注記の嵐
最終的にレニングラードはソ連軍に「解放」されるまで戦い続けたから、ソ連にしてみれば「大祖国戦争」の勝利の記録の一つになる。
とは言え、第2次大戦と言う「先の大戦」のソビエト社会主義連邦共和国と言う、言論の自由よりも思想の正当性が優先される国の戦争をノンフィクションで描こうと言うのは、なかなか大変な事だったようだ。
そりゃどんな体制にせよ「歴史の真実」を照らし出すのは簡単な事ではないが、ソ連ともなると、下手すると国家元首が代わる度に英雄が人民の敵になり、その逆もあるぐらい「歴史認識」に政治が絡むから・・・あい矛盾する「史実」が併存ずる事になる。
そこで「攻防900日」の作者は、注記を使う事にした。本文ではこう書いてているが、別のところではこう記載されている、と、異説を注釈で記入する事にした。
同じ作者は同様に「パリは燃えているか」でも異説注釈を使っているが。「攻防900日」のほうが、注釈の数も、その矛盾の多さ深さも段違いである。
それだけ、混沌とした「史実」の中から、「歴史の真実」を取り出そうとした結果だろう。
とは言え、第2次大戦と言う「先の大戦」のソビエト社会主義連邦共和国と言う、言論の自由よりも思想の正当性が優先される国の戦争をノンフィクションで描こうと言うのは、なかなか大変な事だったようだ。
そりゃどんな体制にせよ「歴史の真実」を照らし出すのは簡単な事ではないが、ソ連ともなると、下手すると国家元首が代わる度に英雄が人民の敵になり、その逆もあるぐらい「歴史認識」に政治が絡むから・・・あい矛盾する「史実」が併存ずる事になる。
そこで「攻防900日」の作者は、注記を使う事にした。本文ではこう書いてているが、別のところではこう記載されている、と、異説を注釈で記入する事にした。
同じ作者は同様に「パリは燃えているか」でも異説注釈を使っているが。「攻防900日」のほうが、注釈の数も、その矛盾の多さ深さも段違いである。
それだけ、混沌とした「史実」の中から、「歴史の真実」を取り出そうとした結果だろう。
1.4 「一書に曰く」日本書紀に見る異説注記
さて、異説を注記に記して「歴史の真実」を探ろうと言う試みは、なにも「攻防900日」が最初ではない。
わが国最古の歴史書の片割れ「日本書紀」もまた、「一書に曰く」と異説異論を併記している事で知られている。当然ながら、我が国では最古の「異説注記」の事例と言う事になる。(それ以前には文字による記録そのものがないのだから。)
無論これは当時わが国に多くあったのであろう各地の口伝伝承を整理し切れなかった現われ、と解釈する事もできる。当時の我が国の歴史編纂者の無能もしくは「未熟」であるとの解釈も可能だ。
だが、大陸に数多ある、大陸ご自慢の「史書」に比べると、日本書紀の特異さは明らかだ。
大陸に史書が数多あるのは、大陸に王朝が数多あり、新たな王朝が成立するたびにその正当性を謳うためにあらたに史書を編纂してこれを「正史」とし、そのほかの史書を「野史」と断ずる事を繰り返した結果であり、それゆえの「世界に類を見ない豊かな史書」なのであろう。だからこれら「正史」は、「正しい歴史」を記すのみで、異説異論は注釈にすら入らない。
以上から、今回私の言いたい事は3つだ。
一つには、歴史の真実を考える上での、異論・異説の重要性だ。
先回は物語としての歴史を強調したが、歴史が「事実」の集合体であると言うのもまた一面である。その一面を追求するのに、正史の整然とした記録だけを追っていてては、「真実」を見誤るに違いないということだ。
二つには、大陸では王朝が新しくなって新たな「正史」があまれるように、立場が変われば歴史の記述も変わり、異論・異説が発生するということ。
「丸い卵もきりようで四角、物も言いようで角が立つ。」で、ジャンヌ・ダルクはフランスにとっては救国の聖女だろうが、イギリスにとっては神の道に反する魔女だろう。
三つには、日本書紀の編纂者である古代日本人・我らのご先祖様は、「歴史の真実を探求するのに異論異説が重要」と考えたかどうかはわからないが、少なくとも、異論異説を異論異説と言うだけで排斥する事をしないだけの度量・懐の深さがあったと言うことだ。
少なくとも、「攻防900日」の作者・20世紀の西欧人と同じぐらいの度量が。
従って、少なくとも日本書紀編纂者たちは。「無能な歴史編纂者」等と貶められる筋合いはないだろう。
「一書に曰く」と異論・異説を併記した古代日本人に、先人の知恵を見るべきではないだろうか。
わが国最古の歴史書の片割れ「日本書紀」もまた、「一書に曰く」と異説異論を併記している事で知られている。当然ながら、我が国では最古の「異説注記」の事例と言う事になる。(それ以前には文字による記録そのものがないのだから。)
無論これは当時わが国に多くあったのであろう各地の口伝伝承を整理し切れなかった現われ、と解釈する事もできる。当時の我が国の歴史編纂者の無能もしくは「未熟」であるとの解釈も可能だ。
だが、大陸に数多ある、大陸ご自慢の「史書」に比べると、日本書紀の特異さは明らかだ。
大陸に史書が数多あるのは、大陸に王朝が数多あり、新たな王朝が成立するたびにその正当性を謳うためにあらたに史書を編纂してこれを「正史」とし、そのほかの史書を「野史」と断ずる事を繰り返した結果であり、それゆえの「世界に類を見ない豊かな史書」なのであろう。だからこれら「正史」は、「正しい歴史」を記すのみで、異説異論は注釈にすら入らない。
以上から、今回私の言いたい事は3つだ。
一つには、歴史の真実を考える上での、異論・異説の重要性だ。
先回は物語としての歴史を強調したが、歴史が「事実」の集合体であると言うのもまた一面である。その一面を追求するのに、正史の整然とした記録だけを追っていてては、「真実」を見誤るに違いないということだ。
二つには、大陸では王朝が新しくなって新たな「正史」があまれるように、立場が変われば歴史の記述も変わり、異論・異説が発生するということ。
「丸い卵もきりようで四角、物も言いようで角が立つ。」で、ジャンヌ・ダルクはフランスにとっては救国の聖女だろうが、イギリスにとっては神の道に反する魔女だろう。
三つには、日本書紀の編纂者である古代日本人・我らのご先祖様は、「歴史の真実を探求するのに異論異説が重要」と考えたかどうかはわからないが、少なくとも、異論異説を異論異説と言うだけで排斥する事をしないだけの度量・懐の深さがあったと言うことだ。
少なくとも、「攻防900日」の作者・20世紀の西欧人と同じぐらいの度量が。
従って、少なくとも日本書紀編纂者たちは。「無能な歴史編纂者」等と貶められる筋合いはないだろう。
「一書に曰く」と異論・異説を併記した古代日本人に、先人の知恵を見るべきではないだろうか。
先人の御名を誉むべきかな。