「化学」ならぬ「科学」と結びつきやすい「ナントカ主義」と言えば、思い出されるのは「社会主義」であろう。「空想的社会主義」ならぬ「科学的社会主義」と銘打って、おおむね19世紀後半から20世紀前半にかけて猛威を振るい、多くの「社会主義国」を排出したのは記憶に新しいところ。従来の「空想的」ではなく「科学的」であるとする所以は、「合理的、理に適っているから」とされ、多くの知識人を惹きつけたらしいが・・・「生産手段(工業施設など)を国有化することで資本主義(利益追求)の悪弊から解放し、労働者は能力に応じて働き必要に応じて受け取る。」とする「合理的」な「理想」は、結局の所、人間の自由や欲望に対する浅薄な理解の上に立つ理想的モデル化の産物に過ぎず、「今後社会主義国は、増える事はあっても減ることは無い。」等と言う高らかな宣言も虚しく、21世紀を迎える前に、ベルリンの壁崩壊からソヴィエト社会主義連邦の解体を経て理論的に破綻。「社会主義市場経済」なる御都合主義のキメラを除いて殆ど見る影も無く、「科学的」なんてキャッチコピーも聞かなくなって久しい。
「資本主義の勝利万歳!(※1)」と言うわけだ。
大体、人文科学なる学問が、歴史学や政治学はては経済学にいたるまで、どこまで科学であるかは理系の人間にとっては甚だ疑問なのである。何しろ基本的に実験できる訳ではないし、再現性も怪しい。となると学説の検証は、例えば新薬の有効性のクロスチェックなんぞに比べると甚だ心許ないモノにならざるを得ない。
だがしかし、「科学」と「民主主義」の間には、ある共通点がある、と言うのが今回の御題。
ハナッから断っておくが。「科学的民主主義」なんて物をぶち上げようと言う訳ではないよ。
「資本主義の勝利万歳!(※1)」と言うわけだ。
大体、人文科学なる学問が、歴史学や政治学はては経済学にいたるまで、どこまで科学であるかは理系の人間にとっては甚だ疑問なのである。何しろ基本的に実験できる訳ではないし、再現性も怪しい。となると学説の検証は、例えば新薬の有効性のクロスチェックなんぞに比べると甚だ心許ないモノにならざるを得ない。
だがしかし、「科学」と「民主主義」の間には、ある共通点がある、と言うのが今回の御題。
ハナッから断っておくが。「科学的民主主義」なんて物をぶち上げようと言う訳ではないよ。
<注釈>
(※1)言うまでも無いだろうが、社会主義華やかなりし頃しきりに喧伝された「社会主義の勝利」のパクリである。
「勝敗は時の運」とも言うのだから、社会主義対資本主義、勝ち負けは単純に考えれば合い半ばなのだから、「資本主義の勝利」だってあるはずだが、当時は殆ど喧伝されなかったのは・・・後から考えると、資本主義の方は「勝って当たり前」だったからだな。
「犬が人を噛んでもニュースにならない。人が犬を噛んだらニュースだ。」理論に従い、希少な方がニュースになった・・・と、善意に解釈すればそうなる。
(※1)言うまでも無いだろうが、社会主義華やかなりし頃しきりに喧伝された「社会主義の勝利」のパクリである。
「勝敗は時の運」とも言うのだから、社会主義対資本主義、勝ち負けは単純に考えれば合い半ばなのだから、「資本主義の勝利」だってあるはずだが、当時は殆ど喧伝されなかったのは・・・後から考えると、資本主義の方は「勝って当たり前」だったからだな。
「犬が人を噛んでもニュースにならない。人が犬を噛んだらニュースだ。」理論に従い、希少な方がニュースになった・・・と、善意に解釈すればそうなる。
1-1. 科学とは、方法論である。
故アイザック・アシモフ老の優れた科学エッセイ(※1)「夜の軍隊」の中でも述べているとおり、科学というのは単なる「当て推量」ではない。
喩えスタートは仮説=当て推量であったとしても、それが実際の事象と合致するかを検証し、実証して始めて仮説は理論となり、さらに検証を続けることで理論は盤石となる。
盤石となった理論体系でも、ただの仮説であっても、実証し検証する課程に変わりはなく、正否を判定するルールも同じだ。それは、思想信条は勿論、人種国籍或いは時代が異なっても変わりはない。
お分かりだろうか?
科学に於いて重要なのは、打ち立てられた理論体系ではない。
それはそれで価値があろうが、それ以上に価値があるのは、その理論を客観的に検証し実証し続けるプロセスであり、ルールなのだ。
これあればこそ、ニュートンの古典的力学は相対性理論による修正を余儀なくされ、修正を余儀なくされながらも光速よりも十分遅い運動(当たり前だが人間の目に見える大半の事象はこの範囲にとどまる。)に対しては今でも十分な精度を持っており、工学の基礎としての地位を未だ確固たるものとしているのである。
喩えスタートは仮説=当て推量であったとしても、それが実際の事象と合致するかを検証し、実証して始めて仮説は理論となり、さらに検証を続けることで理論は盤石となる。
盤石となった理論体系でも、ただの仮説であっても、実証し検証する課程に変わりはなく、正否を判定するルールも同じだ。それは、思想信条は勿論、人種国籍或いは時代が異なっても変わりはない。
お分かりだろうか?
科学に於いて重要なのは、打ち立てられた理論体系ではない。
それはそれで価値があろうが、それ以上に価値があるのは、その理論を客観的に検証し実証し続けるプロセスであり、ルールなのだ。
これあればこそ、ニュートンの古典的力学は相対性理論による修正を余儀なくされ、修正を余儀なくされながらも光速よりも十分遅い運動(当たり前だが人間の目に見える大半の事象はこの範囲にとどまる。)に対しては今でも十分な精度を持っており、工学の基礎としての地位を未だ確固たるものとしているのである。
<注釈>
(※1)米国版Play Boyに連載されていたそうだから、米国版のPlay Boy誌と言うのは日本語版と違って偉く高尚な雑誌らしい。Play Mateの存在感も、米国版のほうが上のようだから、その圧倒的なPlay Mateとアシモフの科学エッセイが同居している雑誌って・・・一寸想像を絶する。
それを定期購読する読者と言う者も。
This is the BIG COUNTRY!
(※1)米国版Play Boyに連載されていたそうだから、米国版のPlay Boy誌と言うのは日本語版と違って偉く高尚な雑誌らしい。Play Mateの存在感も、米国版のほうが上のようだから、その圧倒的なPlay Mateとアシモフの科学エッセイが同居している雑誌って・・・一寸想像を絶する。
それを定期購読する読者と言う者も。
This is the BIG COUNTRY!
1-2. 民主主義は絶対善か?
科学の話はこれぐらいにして、民主主義の話に移ろう。
民主主義という言葉は、遡ると古代ギリシャに行き着くのだろう。都市国家(ポリス)と呼ばれた小国家の中で、それぞれが自由な市民(※1)」による会議を持ち、国家の方針、例えば開戦や休戦等を決めたのが民主主義の走りである。
未開の地中海世界で人類の文明化を競う「文明の曙Civilization」と言うボードゲームでは、「民主主義」は「文字」と「文学」が無いと買えない高価な文明カードで、勝利得点も高いので、ゲームの終盤一発逆転を狙うのに格好な文明カードだった(※2)。勿論アメリカ産のゲームであるから、民主主義に低い地位を与えるわけには行かない(そんな事したらゲームが売れない)のだろうが。
何れにせよ民主主義という思想は一定の価値を持つものと、広く認められている。
ならば、それは「絶対善」だろうか。
民主主義という言葉は、遡ると古代ギリシャに行き着くのだろう。都市国家(ポリス)と呼ばれた小国家の中で、それぞれが自由な市民(※1)」による会議を持ち、国家の方針、例えば開戦や休戦等を決めたのが民主主義の走りである。
未開の地中海世界で人類の文明化を競う「文明の曙Civilization」と言うボードゲームでは、「民主主義」は「文字」と「文学」が無いと買えない高価な文明カードで、勝利得点も高いので、ゲームの終盤一発逆転を狙うのに格好な文明カードだった(※2)。勿論アメリカ産のゲームであるから、民主主義に低い地位を与えるわけには行かない(そんな事したらゲームが売れない)のだろうが。
何れにせよ民主主義という思想は一定の価値を持つものと、広く認められている。
ならば、それは「絶対善」だろうか。
それは無かろう。
大凡神ならぬ身の人のなす事に、「絶対」なんて事は滅多にないのだが、「善悪」等という「美醜」と同様、あるいはそれ以上に主観が入る価値観に、「絶対善」等あろう筈がない。
「民主主義は絶対善である。」と主張する者がいれば、先ず眉に唾を付けた方が良い。嘘を承知で嘘を吐いているか、何らかの狂信者=嘘と知らずに嘘を吐いているか、いずれかである公算大だ。
それをいうなら「絶対善」と言う時点で、警戒警報発令、なのであるが。
<注釈>
(※1)この言葉の背後に、不自由な「市民以外」=奴隷の存在があったことを看過すべきではないだろう。
勿論、非難するにも当たらないが。
(※2)と思う。何しろ古い話で、うろ覚えだ。
大凡神ならぬ身の人のなす事に、「絶対」なんて事は滅多にないのだが、「善悪」等という「美醜」と同様、あるいはそれ以上に主観が入る価値観に、「絶対善」等あろう筈がない。
「民主主義は絶対善である。」と主張する者がいれば、先ず眉に唾を付けた方が良い。嘘を承知で嘘を吐いているか、何らかの狂信者=嘘と知らずに嘘を吐いているか、いずれかである公算大だ。
それをいうなら「絶対善」と言う時点で、警戒警報発令、なのであるが。
<注釈>
(※1)この言葉の背後に、不自由な「市民以外」=奴隷の存在があったことを看過すべきではないだろう。
勿論、非難するにも当たらないが。
(※2)と思う。何しろ古い話で、うろ覚えだ。
1-3. 民主主義が「善」なのは、その方法論による。
前章で私は民主主義の「絶対善」性を否定して見せた。が、無論これは私が「民主主義の敵」であるからではない。少なくとも当人はそう思っている。(※1)
私が民主主義に高い地位を与えていることは、当ブログをまじめに読んでいただければ先ず間違いがないと思うのだが、改めて言うと・・・
民主主義は、一見まだるっこしい事もあるし、判断が遅い事もある。衆愚政治に堕してしまえば、忽ち誤判断の山も築くだろう。その意味で国家体制としても、当の国民としても、決して気を抜けない厄介な「面倒くさい」体制なのである。
私が民主主義に高い地位を与えていることは、当ブログをまじめに読んでいただければ先ず間違いがないと思うのだが、改めて言うと・・・
民主主義は、一見まだるっこしい事もあるし、判断が遅い事もある。衆愚政治に堕してしまえば、忽ち誤判断の山も築くだろう。その意味で国家体制としても、当の国民としても、決して気を抜けない厄介な「面倒くさい」体制なのである。
なおかつ私はこの民主主義を「絶対善ではない」と主張している。
ならば、民主主義は守るべき者ではないのか?大陸は堯瞬が理想とした「鼓腹撃壌」の民は、面倒くさい「民主主義」からは遙かに遠いではないか。
とんでもない。
私は、私の「運命」を「環境」を「雰囲気」を、可能な限り私の都合の良い物にしたいし、それらの主人でありたい。
それらが君主だろうが為政者だろうが或いは全知全能の神であろうが、支配されて何らなす事が無いというのは御免被る。
人とはそうあるべきだ、とも思っている。運命を読み、それに従う者ではなく、運命に抗い、それを超えようとする者だと。
民主主義ならば、微力なりともそれが可能である。従って私にとって都合がよい。
のみならず、民主主義の根幹は異論に説への寛容であり、異論異説を排さぬからこそ、時間はかかろうとも最善の解へ到達すると期待できる。それ故に、「真の民主主義国家は最強である 」にも述べたとおり、民主主義国家は最強であり、民主主義国を最強としてその反映を盤石としようと言う民主主義は善なのである。
ならば、民主主義は守るべき者ではないのか?大陸は堯瞬が理想とした「鼓腹撃壌」の民は、面倒くさい「民主主義」からは遙かに遠いではないか。
とんでもない。
私は、私の「運命」を「環境」を「雰囲気」を、可能な限り私の都合の良い物にしたいし、それらの主人でありたい。
それらが君主だろうが為政者だろうが或いは全知全能の神であろうが、支配されて何らなす事が無いというのは御免被る。
人とはそうあるべきだ、とも思っている。運命を読み、それに従う者ではなく、運命に抗い、それを超えようとする者だと。
民主主義ならば、微力なりともそれが可能である。従って私にとって都合がよい。
のみならず、民主主義の根幹は異論に説への寛容であり、異論異説を排さぬからこそ、時間はかかろうとも最善の解へ到達すると期待できる。それ故に、「真の民主主義国家は最強である 」にも述べたとおり、民主主義国家は最強であり、民主主義国を最強としてその反映を盤石としようと言う民主主義は善なのである。
<注釈>
(※1)自称、であるから、余り当てにはならないが。
(※1)自称、であるから、余り当てにはならないが。
1-4. 「民主主義は最悪だ。だが、これ以上の方法は無い。」
章題に引用したのは、第2次大戦次の英国首相であり、文筆家としても高名なウィンストン・チャーチルの言葉である。(※1)「最悪なのにこれ以上はないなんて、論理的に矛盾している。」と言えなくもないが、ここまで読んで頂いた読者諸兄ならばこの言葉の意味するところは自ずと明らかだろう。
民主主義というのはとかく面倒くさい。先ず自分で考えなければならず、次に自分の考えを表明しないといけない。それでお終いならばまだしも、今度は人の考えに耳を傾け、議論をし、何れが優れるか、妥協点はあるのか考え、最終的に結論を出さないといけない。勿論、出した結論には責任が伴う。「最悪」だ。
だが、その課程を通じて「広く講義を興し、万機公論に決する」なかで国民の英知を結集できる(と、期待できる)。
民主主義というのはとかく面倒くさい。先ず自分で考えなければならず、次に自分の考えを表明しないといけない。それでお終いならばまだしも、今度は人の考えに耳を傾け、議論をし、何れが優れるか、妥協点はあるのか考え、最終的に結論を出さないといけない。勿論、出した結論には責任が伴う。「最悪」だ。
だが、その課程を通じて「広く講義を興し、万機公論に決する」なかで国民の英知を結集できる(と、期待できる)。
表題との関連はご理解頂けようか?
科学は、うち立てた理論体系=仮説の集合体を常に公平に検証し、実証し続けることで古い理論体系を裏付け、時にはその綻びを発見して新たな理論体系へと発展させる。
仮説の集合であった理論体系は、科学的実証という公平なルールで検証され続けている。
科学は、うち立てた理論体系=仮説の集合体を常に公平に検証し、実証し続けることで古い理論体系を裏付け、時にはその綻びを発見して新たな理論体系へと発展させる。
仮説の集合であった理論体系は、科学的実証という公平なルールで検証され続けている。
民主主義は、「広く講義を興し、万機公論に決する」事で、少なくとも同時代の同国民の英知を結集しようとする。
政策・方針は「国民の目」によって検証され、議論され、不備があれば修正される。
どちらの場合も、「公平である」即ち「異論異説を排さない」と言うのが基本になり、それこそが最善への道をつけるのである。
政策・方針は「国民の目」によって検証され、議論され、不備があれば修正される。
どちらの場合も、「公平である」即ち「異論異説を排さない」と言うのが基本になり、それこそが最善への道をつけるのである。
「民主主義の勝利万歳!」
<注釈>
(※1)と、記憶している。これまたうろ覚えだ。
(※1)と、記憶している。これまたうろ覚えだ。