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日本史の時間に習ったことであろうが、我が国に鉄砲が伝来したのは西暦1543年である。「日暦(ひごよみ=1543)捲る種子島」何て語呂合わせで年号を覚えた方もあるだろう。
西暦1543年8月25日。ポルトガルの商人アントニオ・ダビアらをのせた一隻の中国船が日本の種子島にやってきた。漂着だったという説もある。当時はまだ戦国時代で、徳川幕府による鎖国令がでる遙か前、秀吉のバテレン追放例も出る前の事(※1)だから、諸外国との交易・交流はまだ大っぴらに出来た時代だ。
当時この地方を納めていた殿様が、薩摩の家臣・種子島時堯。当時まだ16歳の青年だったと言うが、後述するとおりただの青年ではない。
この殿様自らがやってきた異人・オランダ人に会いたいと所望され、その会見の場でオランダ商人が披露したのが本邦初公開の火縄銃・鉄砲であった。
その試射を目の当たりにした殿様、いたくこの新兵器が気に入り、オランダ商人から2丁の実物を手に入れると(※2)、家臣の篠川小四郎に火薬の製法を、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲の製造を、研究するように命じた。
日本史の時間に習ったことであろうが、我が国に鉄砲が伝来したのは西暦1543年である。「日暦(ひごよみ=1543)捲る種子島」何て語呂合わせで年号を覚えた方もあるだろう。
西暦1543年8月25日。ポルトガルの商人アントニオ・ダビアらをのせた一隻の中国船が日本の種子島にやってきた。漂着だったという説もある。当時はまだ戦国時代で、徳川幕府による鎖国令がでる遙か前、秀吉のバテレン追放例も出る前の事(※1)だから、諸外国との交易・交流はまだ大っぴらに出来た時代だ。
当時この地方を納めていた殿様が、薩摩の家臣・種子島時堯。当時まだ16歳の青年だったと言うが、後述するとおりただの青年ではない。
この殿様自らがやってきた異人・オランダ人に会いたいと所望され、その会見の場でオランダ商人が披露したのが本邦初公開の火縄銃・鉄砲であった。
その試射を目の当たりにした殿様、いたくこの新兵器が気に入り、オランダ商人から2丁の実物を手に入れると(※2)、家臣の篠川小四郎に火薬の製法を、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲の製造を、研究するように命じた。
つまり、この南蛮渡来の新兵器を、さっさと国産化(※3)する気満々だったことになる。この殿様・種子島時堯殿は。
<注釈>
(※1)大体、まだキリスト教が日本に伝来していない。
(※2)一説には二千両もの大枚はたいて手に入れた、とか。
(※3)当時は「ライセンス国産」何て概念はない。
(※1)大体、まだキリスト教が日本に伝来していない。
(※2)一説には二千両もの大枚はたいて手に入れた、とか。
(※3)当時は「ライセンス国産」何て概念はない。
1. 鉄砲の新奇性
種子島時堯殿が気に入った、南蛮渡来の鉄砲(火縄銃)と言うものが、当時の日本人にとって、或いはこの殿様にとって、どんなものであったかを考えてみよう。
まず第一に鉄砲は飛び道具であり、兵器である。日本の合戦に於けるそれまでの飛び道具というと、弓矢に手矢、飛礫(石ころ)であり、代表的なのは弓矢であろう(※1)。
まず第一に鉄砲は飛び道具であり、兵器である。日本の合戦に於けるそれまでの飛び道具というと、弓矢に手矢、飛礫(石ころ)であり、代表的なのは弓矢であろう(※1)。
弓矢と比較すると鉄砲の特徴は、殺傷力の高さと訓練の容易さにあるだろう。
鉄砲の有効射程は五十m程度だそうだから、射程の点では弓矢との差異は大きくなく、連射性と全天候性の点では弓矢の方が勝る。但し、特に連射性の点で優れるのは、射手が十分な訓練を積んだ達人の場合に限る。また、弓矢は狙いを定める間引き絞って居なければならないから、腕力体力が鉄砲以上にものを言う。
逆に言えば鉄砲ならば、多少腕力体力が落ちようとも、構えて狙って撃つことが出来る。(※2)その分訓練が容易と言うことだ。
無論殺傷力となると、弓矢では引き絞る力が矢の速度であり、命中精度であり、殺傷力でもあるから、強い弓を引く腕力がそれこそモノを言うのに対し、鉄砲は火薬の爆発による化学エネルギーが殺傷力になるから(※3)、弱卒であっても致命的なまでの殺傷力を発揮しうる。当時で言うと、低初速とは言え直径二十ミリから三十ミリの鉛の球体が飛んでくるのだ。身体に当たれば、酷いことになる。
何しろ人類が、ありとあらゆる獣にうち勝てるだけの力を与えたのが、鉄砲(火縄銃)なのである。後の長篠合戦で、武田騎馬軍団が織田信長鉄砲隊に敗れたのも無理はない。(※4)
第二に、鉄砲は一種の機械であり、かつ燃焼機関であり、従来の武器である槍や刀、弓矢やましてや飛礫(石ころ)なんかより遙かに複雑な構造をしている。
銃身は一方を塞いだ鉄製円筒であり、銃口の他に火皿に至る火道が開孔している。銃口からはまず発射薬、ついで弾丸が装填され、所定の位置まで押し込んだら火皿に点火薬となる火薬を流し込む。火縄は撃鉄に相当する火鋏に挟まれて所定の位置に点火されて保持されており、引き金を引くとバネまたはゼンマイ仕掛けで火鋏は火縄を火皿に接触させ、発射薬を爆発させる。
どうです、文章で書いてもよくわからないような、複雑な構造でしょう。
鉄砲の製造法研究を命じられた八板金兵衛が特に判らなかったのは、銃身の後端の塞ぎ方だったという。
まずどうやって塞いでいるのかが判らない。今だったら「尾栓をネジ切った銃身にねじ込んで止める」と言うだけの話なのだが、何しろ当時の日本にはネジもネジ切りもなかったから、どうやって止めているのかを知るまでも苦労したし、仕掛けが判っても実際にネジを切る方法が仲々判らなかったそうだ。「一年後に再度やって来たポルトガル人から聞き出した。」とも「そのために娘を差し出した。」とも言われるのが、この銃身後端「底塞ぎ」の法だ。
第三に、鉄砲は火薬の爆発を使う武器であるから刀槍や弓矢とは比較にならない轟音を発すると言うこと。また当時の火薬は黒色火薬しかないから、発射時の硝煙の濃さも今の比ではない。これらが意味するところは、鉄砲(火縄銃)は威嚇効果の高い兵器であったと言うことだ。
鉄砲の有効射程は五十m程度だそうだから、射程の点では弓矢との差異は大きくなく、連射性と全天候性の点では弓矢の方が勝る。但し、特に連射性の点で優れるのは、射手が十分な訓練を積んだ達人の場合に限る。また、弓矢は狙いを定める間引き絞って居なければならないから、腕力体力が鉄砲以上にものを言う。
逆に言えば鉄砲ならば、多少腕力体力が落ちようとも、構えて狙って撃つことが出来る。(※2)その分訓練が容易と言うことだ。
無論殺傷力となると、弓矢では引き絞る力が矢の速度であり、命中精度であり、殺傷力でもあるから、強い弓を引く腕力がそれこそモノを言うのに対し、鉄砲は火薬の爆発による化学エネルギーが殺傷力になるから(※3)、弱卒であっても致命的なまでの殺傷力を発揮しうる。当時で言うと、低初速とは言え直径二十ミリから三十ミリの鉛の球体が飛んでくるのだ。身体に当たれば、酷いことになる。
何しろ人類が、ありとあらゆる獣にうち勝てるだけの力を与えたのが、鉄砲(火縄銃)なのである。後の長篠合戦で、武田騎馬軍団が織田信長鉄砲隊に敗れたのも無理はない。(※4)
第二に、鉄砲は一種の機械であり、かつ燃焼機関であり、従来の武器である槍や刀、弓矢やましてや飛礫(石ころ)なんかより遙かに複雑な構造をしている。
銃身は一方を塞いだ鉄製円筒であり、銃口の他に火皿に至る火道が開孔している。銃口からはまず発射薬、ついで弾丸が装填され、所定の位置まで押し込んだら火皿に点火薬となる火薬を流し込む。火縄は撃鉄に相当する火鋏に挟まれて所定の位置に点火されて保持されており、引き金を引くとバネまたはゼンマイ仕掛けで火鋏は火縄を火皿に接触させ、発射薬を爆発させる。
どうです、文章で書いてもよくわからないような、複雑な構造でしょう。
鉄砲の製造法研究を命じられた八板金兵衛が特に判らなかったのは、銃身の後端の塞ぎ方だったという。
まずどうやって塞いでいるのかが判らない。今だったら「尾栓をネジ切った銃身にねじ込んで止める」と言うだけの話なのだが、何しろ当時の日本にはネジもネジ切りもなかったから、どうやって止めているのかを知るまでも苦労したし、仕掛けが判っても実際にネジを切る方法が仲々判らなかったそうだ。「一年後に再度やって来たポルトガル人から聞き出した。」とも「そのために娘を差し出した。」とも言われるのが、この銃身後端「底塞ぎ」の法だ。
第三に、鉄砲は火薬の爆発を使う武器であるから刀槍や弓矢とは比較にならない轟音を発すると言うこと。また当時の火薬は黒色火薬しかないから、発射時の硝煙の濃さも今の比ではない。これらが意味するところは、鉄砲(火縄銃)は威嚇効果の高い兵器であったと言うことだ。
<注釈>
(※1)西欧史に登場する投げ槍が発達しなかったのは、広大な開闢地での合戦が少なかったからかな。
(※2)弩弓=石弓ならば、構えて狙っている間「引き絞る」必要はないから、まだ鉄砲に対抗できそうだが・・・これも日本では殆ど発達しなかった武器だ。
(※3)反動によるブレを抑え、命中精度を上げるのには腕力が要るが
(※4)単に鉄砲をたくさん集めただけではなく、それなりの新戦術も採用しているのだが。
(※1)西欧史に登場する投げ槍が発達しなかったのは、広大な開闢地での合戦が少なかったからかな。
(※2)弩弓=石弓ならば、構えて狙っている間「引き絞る」必要はないから、まだ鉄砲に対抗できそうだが・・・これも日本では殆ど発達しなかった武器だ。
(※3)反動によるブレを抑え、命中精度を上げるのには腕力が要るが
(※4)単に鉄砲をたくさん集めただけではなく、それなりの新戦術も採用しているのだが。
2. 鉄砲と刀-日本の既存技術との共通性
さてこの全く新しい技術による兵器・鉄砲(火縄銃)に「遭遇」した時の、我が国の基盤技術は如何なモノであったろうか。
刀鍛冶の伝統のお陰で、製鉄技術も鉄の加工技術も、相当に高かったのは事実だろう。ことに鋳鉄を槌で叩いて加工する刀の製法・鍛造は、そのまま鉄砲の銃身製造の基本技術であった。
素材としての冶金技術も、鉱物資源としての鉄も、我が国には相当にあった。これらは太古の昔から(※1)連綿と続いてきた冶金・製鉄・加工技術の賜(※2)であろう。
ゼンマイやバネのような機械仕掛けの複製が何故簡単だったのかは正直判らない。江戸時代に花開く、和時計やからくり人形の先代に当たる何らかの機械仕掛けが、既に知られていたと言うことだろうか。
刀鍛冶の伝統のお陰で、製鉄技術も鉄の加工技術も、相当に高かったのは事実だろう。ことに鋳鉄を槌で叩いて加工する刀の製法・鍛造は、そのまま鉄砲の銃身製造の基本技術であった。
素材としての冶金技術も、鉱物資源としての鉄も、我が国には相当にあった。これらは太古の昔から(※1)連綿と続いてきた冶金・製鉄・加工技術の賜(※2)であろう。
ゼンマイやバネのような機械仕掛けの複製が何故簡単だったのかは正直判らない。江戸時代に花開く、和時計やからくり人形の先代に当たる何らかの機械仕掛けが、既に知られていたと言うことだろうか。
<注釈>
(※1)なにしろ、三種の神器からして鏡・玉・刀である。
(※2)鉱山だって、発見しなければただの山である。
(※1)なにしろ、三種の神器からして鏡・玉・刀である。
(※2)鉱山だって、発見しなければただの山である。
3. 新技術の咀嚼・吸収
前項までで述べて来た通り、鉄砲(火縄銃)が伝来したとき、我が国にはこれをコピーし量産できるだけの技術があった。だがそれは、結果を知っている後世の視点であるから「技術があるんだからコピーも量産もできる」と安易に言いきれるのである。
時の殿様・種子島時堯が鉄砲という未知のテクノロジーを目の当たりにしたとき、彼が時間旅行者でもない限り、後世の視点など取りようがない。しかも鉄砲の特性の一つは、その発射音と発射炎・発射煙である。記録にも「雷のような音と稲妻のような光を発した」とあるそうだから、相当驚かされたはずだ。
驚天動地の新テクノロジーを目の当たりにしたとき、人間の反応は概ね二種類に分かれる。
一つは拒否反応だ。「このようなモノは人の触れるべきモノではない。悪魔の所業だ。」として忌み嫌い、テクノロジーを破壊なり封印なりしてしまう反応。「新大陸」で西欧にはないような巨石文明を発見した西欧人の一部は、これを「悪魔の所業」と断定し、破壊してしまったというのは、その典型だろう。
もう一つは全面降伏である。「このような神々しい品々はとても人間業とは思われません。かような品々を作られるあなた方は神であります。」とその新技術を吸収することも、ましてや咀嚼し改善することも完全に放棄し、せいぜい神々から下賜いただけた新テクノロジーを利用するだけ。
西欧が鉄砲を実用化して以来、鉄砲と十字架で世界征服=全世界植民地化を始めて以来、地球上の(西欧以外の)殆どの地域では上記の何れかの反応しか見られなかった。
ところが、時の殿様・種子島時堯殿はそのいずれの反応をも取らなかった。
早速見本の鉄砲を買い上げる(※1)や、前述の通り家臣らに火薬と鉄砲の製造法の研究を命じた。「あのポルトガル人が持ってきた鉄砲なる新兵器。あれぐらいなら、ウチでも自前で出来るだろう。一寸お前、考えて見ろ。」と言うわけだ。
「言うだけだったら何とでも言えるわなぁ。(※2)」と言えなくもないが、結果として種子島時堯の家臣らは、鉄砲(火縄銃)の国産化に成功する。それも、一、二年という短期間で。
時は戦国時代である。鉄砲は画期的な兵器である。種子島時堯にすればこの新テクノロジーを秘蔵して、ここぞと言うときの秘密兵器とすることだって出来たかも知れない。或いは、この秘密兵器を元に、主家=薩摩の島津家に対し謀反を企てることだって出来たかも知れない。
だが種子島時堯殿はそうはしなかった。
まずは主家・島津家に国産の鉄砲を献上した。島津家の方もただの殿様じゃない。忽ちこの新兵器を使いこなし、合戦に投入した。
それだけではない。種子島時堯殿、この鉄砲の作り方を他家にも伝授したらしい。時は戦国だから、一般公開したとは一寸考えにくいが、利害の一致する相手に技術供与ぐらいなら大いにありそうな話だ。
かくして種子島に端を発した国産鉄砲は、堺や国友などの新たな生産拠点を得るに至った。勿論、合戦にも投入されたし、改良も為された。
その結果、どうなったか?
種子島に鉄砲が伝来してからわずか半世紀ほど後の1600年・関ヶ原合戦の年には、日本の鉄砲保有量は、世界一に達していた。
時の殿様・種子島時堯が鉄砲という未知のテクノロジーを目の当たりにしたとき、彼が時間旅行者でもない限り、後世の視点など取りようがない。しかも鉄砲の特性の一つは、その発射音と発射炎・発射煙である。記録にも「雷のような音と稲妻のような光を発した」とあるそうだから、相当驚かされたはずだ。
驚天動地の新テクノロジーを目の当たりにしたとき、人間の反応は概ね二種類に分かれる。
一つは拒否反応だ。「このようなモノは人の触れるべきモノではない。悪魔の所業だ。」として忌み嫌い、テクノロジーを破壊なり封印なりしてしまう反応。「新大陸」で西欧にはないような巨石文明を発見した西欧人の一部は、これを「悪魔の所業」と断定し、破壊してしまったというのは、その典型だろう。
もう一つは全面降伏である。「このような神々しい品々はとても人間業とは思われません。かような品々を作られるあなた方は神であります。」とその新技術を吸収することも、ましてや咀嚼し改善することも完全に放棄し、せいぜい神々から下賜いただけた新テクノロジーを利用するだけ。
西欧が鉄砲を実用化して以来、鉄砲と十字架で世界征服=全世界植民地化を始めて以来、地球上の(西欧以外の)殆どの地域では上記の何れかの反応しか見られなかった。
ところが、時の殿様・種子島時堯殿はそのいずれの反応をも取らなかった。
早速見本の鉄砲を買い上げる(※1)や、前述の通り家臣らに火薬と鉄砲の製造法の研究を命じた。「あのポルトガル人が持ってきた鉄砲なる新兵器。あれぐらいなら、ウチでも自前で出来るだろう。一寸お前、考えて見ろ。」と言うわけだ。
「言うだけだったら何とでも言えるわなぁ。(※2)」と言えなくもないが、結果として種子島時堯の家臣らは、鉄砲(火縄銃)の国産化に成功する。それも、一、二年という短期間で。
時は戦国時代である。鉄砲は画期的な兵器である。種子島時堯にすればこの新テクノロジーを秘蔵して、ここぞと言うときの秘密兵器とすることだって出来たかも知れない。或いは、この秘密兵器を元に、主家=薩摩の島津家に対し謀反を企てることだって出来たかも知れない。
だが種子島時堯殿はそうはしなかった。
まずは主家・島津家に国産の鉄砲を献上した。島津家の方もただの殿様じゃない。忽ちこの新兵器を使いこなし、合戦に投入した。
それだけではない。種子島時堯殿、この鉄砲の作り方を他家にも伝授したらしい。時は戦国だから、一般公開したとは一寸考えにくいが、利害の一致する相手に技術供与ぐらいなら大いにありそうな話だ。
かくして種子島に端を発した国産鉄砲は、堺や国友などの新たな生産拠点を得るに至った。勿論、合戦にも投入されたし、改良も為された。
その結果、どうなったか?
種子島に鉄砲が伝来してからわずか半世紀ほど後の1600年・関ヶ原合戦の年には、日本の鉄砲保有量は、世界一に達していた。
<注釈>
(※1)火薬で商売するために、無償供与されたとする説もある。ハーバー・ボッシュ法で空気から硝酸が出来るようになるまでは、硝石が火薬の主要原料だった。
(※2)つまり偉いのは製造法の研究を命じた殿様ではなく、製造法を研究し、実現してしまった家臣らの方である、と言うこと。
一理ではあるが、一理でしかない。
(※1)火薬で商売するために、無償供与されたとする説もある。ハーバー・ボッシュ法で空気から硝酸が出来るようになるまでは、硝石が火薬の主要原料だった。
(※2)つまり偉いのは製造法の研究を命じた殿様ではなく、製造法を研究し、実現してしまった家臣らの方である、と言うこと。
一理ではあるが、一理でしかない。
4. 我らは為せる。 Yes We Can!
かくして、我が国は有色人種で唯一自前の鉄砲を大量装備する国となった。
前述の通り、大量装備どころか世界一の鉄砲保有国である。
無論鉄砲の数だけで戦争の勝敗が決まるわけではないし、当時の日本は徳川幕府の統治下であるから、絶対王政の国王陛下の号令で全鉄砲が火を噴く西欧列強ほどの統一指揮は望めないが、一方で長篠合戦に見る「三段構えの鉄砲隊で継続的な火力発揮」の様な新戦術も開発し、鉄砲をしっかり使いこなしている。
世界史的意義という意味では、西欧列強の独占物であった鉄砲の大量生産技術を有色人種の国が獲得し、鉄砲を大量生産・装備出来ることを実証したことが大きい。
「白人の出来ることで、日本人の出来ないことなど、何一つないのだ。」
前述の通り、大量装備どころか世界一の鉄砲保有国である。
無論鉄砲の数だけで戦争の勝敗が決まるわけではないし、当時の日本は徳川幕府の統治下であるから、絶対王政の国王陛下の号令で全鉄砲が火を噴く西欧列強ほどの統一指揮は望めないが、一方で長篠合戦に見る「三段構えの鉄砲隊で継続的な火力発揮」の様な新戦術も開発し、鉄砲をしっかり使いこなしている。
世界史的意義という意味では、西欧列強の独占物であった鉄砲の大量生産技術を有色人種の国が獲得し、鉄砲を大量生産・装備出来ることを実証したことが大きい。
「白人の出来ることで、日本人の出来ないことなど、何一つないのだ。」