日本に戦艦がある。 [https://www.blogmura.com/ にほんブログ村]
排水量1万5千トンというのは、下手すると米国の最新鋭ミサイル駆逐艦DDG-1000ズムヴォルト級(※1)にも負けそうだが、こりゃ戦艦として小さいのもさることながら、DDG-1000が大き過ぎるのだ。12インチ(30センチ)砲連装2基の主兵装も戦艦としてはショボイものだが、これは当時の標準戦艦だ。さらには国産ではなく英国製と言うのが口惜しい限りだ。
名を「三笠」と言う。
三笠は山の名前で国の名前ではないのに(※2)戦艦なのは、戦艦の命名法が「国の名前」と定められる以前の古い艦だから。
戦艦「三笠」は、日露戦争当時の旗艦にして、世界三大記念艦のひとつ。今も横須賀軍艦にほど近い公園に、往事の姿を留めている。
今回の主題は、その建造にまつわるお話だ。
<注釈>
(※1)満載排水量:14,264t 条約型重巡洋艦(1万頓)より重い。CG-47タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦(9,957t)よりも重く、約1.5倍もある。これでも「駆逐艦」と言うのか?
(※2)巡洋戦艦でもなく
1-1 「戦艦」と言う艦種
軍艦の艦種という物は、相当に歴史的変化が激しく、軍縮条約のような公的な定義がない限り、仲々定義しにくい物である。前述の「駆逐艦」にしてもアメリカのDDG-1000ズムヴォルト級が戦艦「三笠」並なのは時代の違いと言うことにしても、未だ現役ばりばりのミサイル巡洋艦タイコンデロガ級よりもデカイ何て事さえある。(※1)
「フリゲイト」何て帆船時代から使われている艦種名になるともっと非道くて、今でこそ「駆逐艦よりは小さい軍艦」で世界的に通用しているが、その昔の米海軍のフリゲイトは「巡洋艦と駆逐艦の間=駆逐艦よりデカイ艦」艦としていた。
そんなこんなで混乱もあれば不統一もある軍艦種名であるから、門外漢の素人衆=世間の大半には馴染みがないのも無理からぬ処である。
であるから、世間一般では軍艦Warshipと戦艦Battleshipの区別(※2)さえ度外視され、帆走軍艦いわゆる帆船を「戦艦」と呼んでしまったり(※3)」するのであるが、戦艦という艦種の歴史は案外新しく、短い。
戦艦という艦種を最大公約数的に定義するならば、「砲塔もしくは砲廊に強力な主砲を持ち、推進機関を持つ装甲艦のうち最大の艦種」と定義できるだろう。その歴史を遡ると僅かに19世紀半ばまでしか遡れない。逆に終わりはと言うと、第1次大戦で「決戦兵器」足り得ないことが暴露され(※4)、第2次大戦で完全に引導を渡され、第2次大戦後には殆ど姿を消した。米海軍に唯一残っていたアイオワ級戦艦(※5)も湾岸戦争を最後の花道に、21世紀の今日では退役して記念艦になっている。
すると戦艦の寿命は長く見ても1世紀半。その華やかなりし頃というと、ほぼ20世紀前半に限定される。
<注釈>
(※1)それも同じ米海軍所属の同時代で。因みにズムヴォルト級に少し遅れて開発中と伝えられるミサイル巡洋艦CG-2000級は「辛うじてズムヴォルトより大きい」程度である。
まあ、DDG-1000ズムヴォルト級の問題は、その「史上最大の駆逐艦」と言う大きさではないのだけれど。スタンダード・艦対空ミサイルなどのエリア・ディフェンスミサイルを撃てない奴を、「DDGミサイル駆逐艦」とは言われまい。
(※2)「戦艦」というのは、軍艦の1種である。既に滅びた絶滅種である。
(※3)映画「戦艦バウンティの反乱」、小説「ナポレオンの夜」等。歴史小説で帆船を「戦艦」とは、歴史的見識を疑う。
帆走軍艦の大きな艦は「戦列艦 Ship of the Line」とは呼べても「戦艦」とは呼べない。機関もなければ装甲もないのに、何で「戦艦」であるものか
(※4)歴史の後知恵だが。第1次大戦後も戦艦は「主力艦」であり続けたし、大戦間に結ばれた海軍軍縮条約の主眼は「どの様に戦艦の建造を制限するか。」だった。
(※5)建造したのは第2次大戦中。主砲弾もその頃作ったのを使い続けて使い切らなかったとか聞く。
そりゃ16インチ砲弾じゃ、使いようがないわな。
1-2 日清戦争 「定遠」「鎮遠」の恐怖
その20世紀の始まる10年ほど前。中国=当時の清帝国は皇帝やら官僚制度やら何やらかにやらに旧弊な体制を引きづりながら、未だ一定の経済力を保っており、その経済力は明治維新で藩幕体制からの再生を果たした日本を遙かに凌いでいた。
その未だ侮るべからざる経済力を以って、清は軍備の近代化を図り、諸外国から兵器きを買い集めた。そのうちの一つが戦艦。「定遠」「鎮遠」の2艦を揃えその他の装甲艦も相応に用意し、北洋艦隊に配備した。「定遠」「鎮遠」共に30センチ砲連装2基と言う、砲身が短いとはいえ後の日露戦争で連合艦隊旗艦となる三笠に比肩しうる主兵装に持つ全鋼製の装甲艦。押しも押されもせぬ戦艦である
この戦艦を始め装甲艦揃いの北洋艦隊を擁する清国と、日本は朝鮮半島を巡って対立することになり、ついには日清戦争となる。
北洋艦隊に対峙する我が方の海軍には、装甲艦がただの1隻もなかった。鎮遠、定遠に抗するべくなけなしの金で買った「小艦巨砲」の三景艦=松島・橋立・厳島は主砲こそ32センチと鎮遠・定遠を辛うじて上まわるものの、単装砲1基の1問きりをオープントップ式に搭載した非装甲艦。オープントップと言うことは、砲の正面に防楯はあっても後面や上面は開放されている。風雨にさらされるのは兎も角、断片防御すらない。この艦が帝国海軍の虎の子だった。
清国の戦艦には、少々変則的な配置だが立派な砲塔に主砲を納めている。
これと対峙しなければならなくなったときの、日本の、日本海軍の恐怖は、仲々現代から想像しにくいだろうが、「定遠・鎮遠が恐ろしくて、日本の港から商船が出航できなかった。」と聞けば、その恐怖のほどが忍ばれよう。
当時の日本は未だ重工業国ではないから、海上輸送に頼る割合は、現代ほどではなかったにせよ、貿易立国として既に歩み始めていた明治日本にとっては海上封鎖を受けたに等しいこの事態は、正に死活問題だったはずだ。
「如何なる堅艦快艇も、人の力によりてこそ、
その精鋭を保ちつつ、強敵風波に当たり得れ。」
とは、軍歌の一節だが、正にこの軍歌通り、軍艦というハードウエアの劣勢を、人というソフトウエアの力でカバー(※1)して日本は日清戦争に勝利する。が、装甲艦の強靭さは、嫌と言うほど見せつけられた。
<注釈>
(※1)一寸言い過ぎだな。確かに非装甲艦ばかりだが、速度は速い艦を揃えたし、主砲は今ひとつかショボかったが、副砲の速射砲は清国海軍に勝っていた。
排水量1万5千トンというのは、下手すると米国の最新鋭ミサイル駆逐艦DDG-1000ズムヴォルト級(※1)にも負けそうだが、こりゃ戦艦として小さいのもさることながら、DDG-1000が大き過ぎるのだ。12インチ(30センチ)砲連装2基の主兵装も戦艦としてはショボイものだが、これは当時の標準戦艦だ。さらには国産ではなく英国製と言うのが口惜しい限りだ。
名を「三笠」と言う。
三笠は山の名前で国の名前ではないのに(※2)戦艦なのは、戦艦の命名法が「国の名前」と定められる以前の古い艦だから。
戦艦「三笠」は、日露戦争当時の旗艦にして、世界三大記念艦のひとつ。今も横須賀軍艦にほど近い公園に、往事の姿を留めている。
今回の主題は、その建造にまつわるお話だ。
<注釈>
(※1)満載排水量:14,264t 条約型重巡洋艦(1万頓)より重い。CG-47タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦(9,957t)よりも重く、約1.5倍もある。これでも「駆逐艦」と言うのか?
(※2)巡洋戦艦でもなく
1-1 「戦艦」と言う艦種
軍艦の艦種という物は、相当に歴史的変化が激しく、軍縮条約のような公的な定義がない限り、仲々定義しにくい物である。前述の「駆逐艦」にしてもアメリカのDDG-1000ズムヴォルト級が戦艦「三笠」並なのは時代の違いと言うことにしても、未だ現役ばりばりのミサイル巡洋艦タイコンデロガ級よりもデカイ何て事さえある。(※1)
「フリゲイト」何て帆船時代から使われている艦種名になるともっと非道くて、今でこそ「駆逐艦よりは小さい軍艦」で世界的に通用しているが、その昔の米海軍のフリゲイトは「巡洋艦と駆逐艦の間=駆逐艦よりデカイ艦」艦としていた。
そんなこんなで混乱もあれば不統一もある軍艦種名であるから、門外漢の素人衆=世間の大半には馴染みがないのも無理からぬ処である。
であるから、世間一般では軍艦Warshipと戦艦Battleshipの区別(※2)さえ度外視され、帆走軍艦いわゆる帆船を「戦艦」と呼んでしまったり(※3)」するのであるが、戦艦という艦種の歴史は案外新しく、短い。
戦艦という艦種を最大公約数的に定義するならば、「砲塔もしくは砲廊に強力な主砲を持ち、推進機関を持つ装甲艦のうち最大の艦種」と定義できるだろう。その歴史を遡ると僅かに19世紀半ばまでしか遡れない。逆に終わりはと言うと、第1次大戦で「決戦兵器」足り得ないことが暴露され(※4)、第2次大戦で完全に引導を渡され、第2次大戦後には殆ど姿を消した。米海軍に唯一残っていたアイオワ級戦艦(※5)も湾岸戦争を最後の花道に、21世紀の今日では退役して記念艦になっている。
すると戦艦の寿命は長く見ても1世紀半。その華やかなりし頃というと、ほぼ20世紀前半に限定される。
<注釈>
(※1)それも同じ米海軍所属の同時代で。因みにズムヴォルト級に少し遅れて開発中と伝えられるミサイル巡洋艦CG-2000級は「辛うじてズムヴォルトより大きい」程度である。
まあ、DDG-1000ズムヴォルト級の問題は、その「史上最大の駆逐艦」と言う大きさではないのだけれど。スタンダード・艦対空ミサイルなどのエリア・ディフェンスミサイルを撃てない奴を、「DDGミサイル駆逐艦」とは言われまい。
(※2)「戦艦」というのは、軍艦の1種である。既に滅びた絶滅種である。
(※3)映画「戦艦バウンティの反乱」、小説「ナポレオンの夜」等。歴史小説で帆船を「戦艦」とは、歴史的見識を疑う。
帆走軍艦の大きな艦は「戦列艦 Ship of the Line」とは呼べても「戦艦」とは呼べない。機関もなければ装甲もないのに、何で「戦艦」であるものか
(※4)歴史の後知恵だが。第1次大戦後も戦艦は「主力艦」であり続けたし、大戦間に結ばれた海軍軍縮条約の主眼は「どの様に戦艦の建造を制限するか。」だった。
(※5)建造したのは第2次大戦中。主砲弾もその頃作ったのを使い続けて使い切らなかったとか聞く。
そりゃ16インチ砲弾じゃ、使いようがないわな。
1-2 日清戦争 「定遠」「鎮遠」の恐怖
その20世紀の始まる10年ほど前。中国=当時の清帝国は皇帝やら官僚制度やら何やらかにやらに旧弊な体制を引きづりながら、未だ一定の経済力を保っており、その経済力は明治維新で藩幕体制からの再生を果たした日本を遙かに凌いでいた。
その未だ侮るべからざる経済力を以って、清は軍備の近代化を図り、諸外国から兵器きを買い集めた。そのうちの一つが戦艦。「定遠」「鎮遠」の2艦を揃えその他の装甲艦も相応に用意し、北洋艦隊に配備した。「定遠」「鎮遠」共に30センチ砲連装2基と言う、砲身が短いとはいえ後の日露戦争で連合艦隊旗艦となる三笠に比肩しうる主兵装に持つ全鋼製の装甲艦。押しも押されもせぬ戦艦である
この戦艦を始め装甲艦揃いの北洋艦隊を擁する清国と、日本は朝鮮半島を巡って対立することになり、ついには日清戦争となる。
北洋艦隊に対峙する我が方の海軍には、装甲艦がただの1隻もなかった。鎮遠、定遠に抗するべくなけなしの金で買った「小艦巨砲」の三景艦=松島・橋立・厳島は主砲こそ32センチと鎮遠・定遠を辛うじて上まわるものの、単装砲1基の1問きりをオープントップ式に搭載した非装甲艦。オープントップと言うことは、砲の正面に防楯はあっても後面や上面は開放されている。風雨にさらされるのは兎も角、断片防御すらない。この艦が帝国海軍の虎の子だった。
清国の戦艦には、少々変則的な配置だが立派な砲塔に主砲を納めている。
これと対峙しなければならなくなったときの、日本の、日本海軍の恐怖は、仲々現代から想像しにくいだろうが、「定遠・鎮遠が恐ろしくて、日本の港から商船が出航できなかった。」と聞けば、その恐怖のほどが忍ばれよう。
当時の日本は未だ重工業国ではないから、海上輸送に頼る割合は、現代ほどではなかったにせよ、貿易立国として既に歩み始めていた明治日本にとっては海上封鎖を受けたに等しいこの事態は、正に死活問題だったはずだ。
「如何なる堅艦快艇も、人の力によりてこそ、
その精鋭を保ちつつ、強敵風波に当たり得れ。」
とは、軍歌の一節だが、正にこの軍歌通り、軍艦というハードウエアの劣勢を、人というソフトウエアの力でカバー(※1)して日本は日清戦争に勝利する。が、装甲艦の強靭さは、嫌と言うほど見せつけられた。
<注釈>
(※1)一寸言い過ぎだな。確かに非装甲艦ばかりだが、速度は速い艦を揃えたし、主砲は今ひとつかショボかったが、副砲の速射砲は清国海軍に勝っていた。