「開発独裁」、という言葉がある。主として「発展途上国」が「先進国」に追いつく経済発展のためには政治的安定が必要として、国民の政治参加を制限して異論を封じた選択と集中により重点的な開発を行う事を言う。フィリピンのマルコス政権やインドネシアのスハルト政権などがその典型例とされ、「独裁」と言う語感の悪さから、否定的なニュアンスで使われることが多いらしい。「改革解放路線以降の中国共産党政権」も例の一つだそうだが、計画経済と一党独裁を前提とする社会主義政権なんて、「開発独裁」と言えない理由はないように私には思われるが、如何であろうか。
それは兎も角、「開発独裁」の利点は、意志決定の迅速さと異論排斥による意思統一にあると思われる。その意思統一と決定の早さが、正しい判断と結びついたとき、此は確かに強力な開発能力・経済発展に結びつきそうである。
これに対する民主主義は、いかなる利点、欠点を擁し、いかなる対策を講じうるのか。
1. 民主主義の根幹
民主主義の根幹は、反論・異論に対する寛容である。
勿論「異論」と言う以上は自らの理論・持論があるのが前提で、さらに言えばその持論は自分の頭で考えていて、他者からの受け売りでない、と言うのが前提ではあるが、あえて断言すれば、「私は君の意見には全て反対する。が、君がそれを言う自由は死んでも守る。」と言うヴォルテールの言葉こそ、民主主義の根源である。多数決も、国民主義、主権在民も、この言葉の前には色あせる。なぜならこれらのものの根幹が「自説以外の異説・異論に対する寛容」であるからだ。
そもそも、多数決と言うのは異論・異説を前提にした決定法であるし、「広ク会議ヲ起コ」せば種々の意見が出て来るのは当然。それを「万機公論ニ決ス」ためには意見の対立も多発しようと言うもの。そのたびに権力闘争や粛清を重ねていた日には、権力は兎も角、国が保たない。
およそこの世にある人間は、神ならぬ身であるのだから、たとえ法王だろうが皇帝だろうが将軍様だろうが、「無謬=誤りが全くない」と言うことはあり得ない。であればこそ、異論を異論であるが故に排斥することなく、耳を傾ける謙虚さが人間には必要であり、その上で自由な議論を重ねることが、手間や時間はかかるものの、結局は最善の道を選択できる・・・事が多い、と言うのが民主主義であろう。
従って、異論は受容すべきものと言うばかりか、必須なものであると言う考え方さえある。英国海軍の副長は、艦長に次ぐ地位にある役職だが、艦長の意見に必ず反論する事を義務づけられているそうだ。
「反論を許されている。」ではなく「反論しなければならない。」のがポイントである。どんな意見にも違った立場から見れば異論・反論があるものであり、それを指摘するのが副長の仕事と言うことだ。
勿論艦長と言えば艦の最高責任者にして絶対権力者。その決定には副長だろうが誰だろうが、およそ艦の上にある者は従わなければならない。だが、その決定に至るプロセスで、必ず副長は反論しなければならなくなっているのは、異なった視点からの意見を考慮した方が、結局正しい判断が出来る、筈、と言う考え方だろう。
2. 民主主義の死に方
諸兄ご承知の通り、民主主義は絶対不滅の体勢ではない。むしろ体制の健全性には細心の注意が必要となる体制である。
典型的なところでは大戦間のドイツ、ワイマール共和国の崩壊が挙げられるだろう。第1次大戦にドイツが敗れた後施行されたワイマール共和国憲法は当時最も先進的な憲法とされ民主制度を一旦は確立したが・・・国家社会主義労働者党・いわゆるナチ党が台頭し、その党首・ヒトラーが首相兼大統領=総統に就任すると、ナチ党は他の政党を非合法化して一党独裁体制を敷き、民主制度は滅ぼされた。
留意すべきなのは、「ナチという悪者が民主主義を破壊した。」と一方的に断じることが出来ないと言う点だ。ナチ党の台頭はあるところまでは、ワイマール共和国憲法下の民主的な選挙を通じて実施された。
言い換えれば、あるところまでナチ党は投票権保有者たる国民の一定の支持を得ており、その人気、その支持故に主権者たる国民はその主権を奪われる仕儀に至った。早い話が民主主義の自殺である。
遡れば古代ローマのローマ市民による民主制は、ローマ市民限定(ローマには自由市民以外に多数の奴隷が居た。)とは言え民主主義の精華を誇ったが、その反映の絶頂で、投票権を持つローマ市民が「無料で貰えるパンと見せ物」のみを求めるようになり、それが与えられるようになったとき、民主制として滅びることになった。ローマ市民に無料でパンと見せ物を供給した者は、ローマ皇帝になった。
これら滅んだ民主主義体制の事例は、一体何を示唆しているのだろうか。
一つには、民主主義がいかに簡単に衆愚政治に堕してしまうか、だろう。
民主主義の体制が完全であり、民意の反映が正確かつ迅速であればあるほど、民主主義国家の命運と品質は、その主権者たる国民次第と言うことになる。その国民が、「無料のパンと見せ物」しか求めなければ、その国はそのように成らざるを得ない。「ユダヤ人を始末して景気回復(※1)」を求めれば、やはりそうなる。
言い換えれば、民主主義体制が衆愚政治に堕するか否かは、国民に依る所大なのである。
ナチス党とヒトラーによる独裁も、ローマ帝政の確立(と民主政治の終焉)も、衆愚政治の一形態と見て良い。
従って、衆愚政治こそは民主主義にとって宿敵にして、宿唖である。
この宿唖を発病させないためには、国民の意識と知識が不可欠である。
<注釈>
(※1)これは一寸単純化が過ぎるか。
3.民主主義vs独裁主義
さてかかる国民の不断の努力を必要とする民主主義に対し、独裁主義(或いは一党独裁体制としようか)はどうだろうか。
北朝鮮や中共を見れば自ずと判るとおりこれら(一党)独裁国家では、党やら主席様やらが神の如く正しい判断を下し、国民のためにあれこれ面倒なことも含めて決めてくれる、事になっている。
国民は何も考える必要も判断する必要もなく、党等のスローガンに従っていればよい。まさに「1984」の世界だ。
判断を下す決定機関たる党やら主席様やらが正しい判断を下し続ける限り、先述の「開発独裁」と同様、迅速な決定と行動が期待でき、常に時間のかかる民主主義国家では到底太刀打ちできないことになる・・・筈だ。
「筈だ」と言うのは、短期的には兎も角、長期間に渡っては、絶対にそうは成るまいと私が多寡を括っていることに依る。
理由の一つは、「独裁者は異論・異説を必要としない。」事である。
むしろ絶対権力を握ったりすると独裁者は、異論・異説を排する傾向にある。
これは、神ならぬ身の人の限界とも言えようが、大概の人間は自説に自信を持っているから異論・異説には耳が痛い。「何でも出来る」独裁者にしてみれば、また其れまでの自分の判断が正しければ正しいほど、自信・自尊心は強くなり、異論・異説は排しやすくなる。
こうなったらしめたもので、早晩独裁者は必ず誤判断をやらかし、その誤りは誰も正せないことになる。民主主義国家としては、勝機だ。
もう一つの理由は「絶対的な権力者と言えども全ての判断を実行できるわけではない。」事である。
何しろ全国民の全判断を背負わないことには完全な独裁体制は成り立たない。其れを優秀な(そしてそれ以上に巨大な)官僚組織なり党組織なりに権限委譲して分担するとしても、今度はその組織の意思統一が完全か、と言う問題になる。
これまた組織の綻びなり、分担の空隙なりが生じることになり、独裁体制には穴があく。
喩え判断や行動が遅くとも、民主主義側にも相応の勝機があると言うことだ。
4. 前進せよ、民主主義
翻って異論・異説を許容するが故に「意思統一に時間がかかる」民主主義国家の利点とは何だろう。
一つは「誤判断の少なさ。」が期待できる。
無論神ならぬ身の人が為すこと、誤りは避けられないが、複数の考え方の中から議論して浮かび上がる答えには、誤りは少ないと期待できる上、異論・異説の中からバックアッププランやコンティンジェンシープランと言った「上手く行かなかった場合の善後策」を選定できる可能性が高い。
もう一つには、「意思統一に時間がかかる」とは矛盾して聞こえるかも知れないが「臨機応変に優れる」事だろう。
これは説明が要るだろう。民主主義は異論・異説を許容し、方針を決定するのにその異論・異説との議論が必要になるから「意思統一に時間がかかる」のは確かだ。だが、各人・民主主義国の国民が、衆愚政治に堕す事なく自分の頭で考えた自論・自説を出す事が出来れば、当初計画に齟齬が生じた場合の応急策、或いは緊急策を、わざわざ国会なり最高司令部なり首領様なりに持ち込んでご指示を仰ぐことなく、低いレベルで決定し、実行することが出来る。
言い換えるならば、当初計画の設定には時間を要する民主主義国家の自由民が、即断即決の臨機応変にはかえって時間がかからないと考えられる。
「自ら考え、自ら戦う兵士こそ、長く、粘り強く戦えるのだ。」-「追跡者 犬鷲」-
「シッス」あるいは「シッシ」と言う言葉がフィンランドにはあるそうだ。意味するところは「自主独立・自律自存の気概」と言った意味らしい。
これあってこそ、大国ソ連の侵略を受けた「冬戦争」の際には、圧倒的な物量と兵力を誇るソ連軍相手に少数精鋭のシッス中隊で対抗。冬のフィンランドという大軍の活動には不向きな状況と地形を巧みに利用して、ソ連の大軍に大出血を強いたという。
民主主義国家の国民の強さを示したものと、言えないだろうか。
真の民主主義国家は最強である。
民主主義が、衆愚政治に堕していない限り。
それは兎も角、「開発独裁」の利点は、意志決定の迅速さと異論排斥による意思統一にあると思われる。その意思統一と決定の早さが、正しい判断と結びついたとき、此は確かに強力な開発能力・経済発展に結びつきそうである。
これに対する民主主義は、いかなる利点、欠点を擁し、いかなる対策を講じうるのか。
1. 民主主義の根幹
民主主義の根幹は、反論・異論に対する寛容である。
勿論「異論」と言う以上は自らの理論・持論があるのが前提で、さらに言えばその持論は自分の頭で考えていて、他者からの受け売りでない、と言うのが前提ではあるが、あえて断言すれば、「私は君の意見には全て反対する。が、君がそれを言う自由は死んでも守る。」と言うヴォルテールの言葉こそ、民主主義の根源である。多数決も、国民主義、主権在民も、この言葉の前には色あせる。なぜならこれらのものの根幹が「自説以外の異説・異論に対する寛容」であるからだ。
そもそも、多数決と言うのは異論・異説を前提にした決定法であるし、「広ク会議ヲ起コ」せば種々の意見が出て来るのは当然。それを「万機公論ニ決ス」ためには意見の対立も多発しようと言うもの。そのたびに権力闘争や粛清を重ねていた日には、権力は兎も角、国が保たない。
およそこの世にある人間は、神ならぬ身であるのだから、たとえ法王だろうが皇帝だろうが将軍様だろうが、「無謬=誤りが全くない」と言うことはあり得ない。であればこそ、異論を異論であるが故に排斥することなく、耳を傾ける謙虚さが人間には必要であり、その上で自由な議論を重ねることが、手間や時間はかかるものの、結局は最善の道を選択できる・・・事が多い、と言うのが民主主義であろう。
従って、異論は受容すべきものと言うばかりか、必須なものであると言う考え方さえある。英国海軍の副長は、艦長に次ぐ地位にある役職だが、艦長の意見に必ず反論する事を義務づけられているそうだ。
「反論を許されている。」ではなく「反論しなければならない。」のがポイントである。どんな意見にも違った立場から見れば異論・反論があるものであり、それを指摘するのが副長の仕事と言うことだ。
勿論艦長と言えば艦の最高責任者にして絶対権力者。その決定には副長だろうが誰だろうが、およそ艦の上にある者は従わなければならない。だが、その決定に至るプロセスで、必ず副長は反論しなければならなくなっているのは、異なった視点からの意見を考慮した方が、結局正しい判断が出来る、筈、と言う考え方だろう。
2. 民主主義の死に方
諸兄ご承知の通り、民主主義は絶対不滅の体勢ではない。むしろ体制の健全性には細心の注意が必要となる体制である。
典型的なところでは大戦間のドイツ、ワイマール共和国の崩壊が挙げられるだろう。第1次大戦にドイツが敗れた後施行されたワイマール共和国憲法は当時最も先進的な憲法とされ民主制度を一旦は確立したが・・・国家社会主義労働者党・いわゆるナチ党が台頭し、その党首・ヒトラーが首相兼大統領=総統に就任すると、ナチ党は他の政党を非合法化して一党独裁体制を敷き、民主制度は滅ぼされた。
留意すべきなのは、「ナチという悪者が民主主義を破壊した。」と一方的に断じることが出来ないと言う点だ。ナチ党の台頭はあるところまでは、ワイマール共和国憲法下の民主的な選挙を通じて実施された。
言い換えれば、あるところまでナチ党は投票権保有者たる国民の一定の支持を得ており、その人気、その支持故に主権者たる国民はその主権を奪われる仕儀に至った。早い話が民主主義の自殺である。
遡れば古代ローマのローマ市民による民主制は、ローマ市民限定(ローマには自由市民以外に多数の奴隷が居た。)とは言え民主主義の精華を誇ったが、その反映の絶頂で、投票権を持つローマ市民が「無料で貰えるパンと見せ物」のみを求めるようになり、それが与えられるようになったとき、民主制として滅びることになった。ローマ市民に無料でパンと見せ物を供給した者は、ローマ皇帝になった。
これら滅んだ民主主義体制の事例は、一体何を示唆しているのだろうか。
一つには、民主主義がいかに簡単に衆愚政治に堕してしまうか、だろう。
民主主義の体制が完全であり、民意の反映が正確かつ迅速であればあるほど、民主主義国家の命運と品質は、その主権者たる国民次第と言うことになる。その国民が、「無料のパンと見せ物」しか求めなければ、その国はそのように成らざるを得ない。「ユダヤ人を始末して景気回復(※1)」を求めれば、やはりそうなる。
言い換えれば、民主主義体制が衆愚政治に堕するか否かは、国民に依る所大なのである。
ナチス党とヒトラーによる独裁も、ローマ帝政の確立(と民主政治の終焉)も、衆愚政治の一形態と見て良い。
従って、衆愚政治こそは民主主義にとって宿敵にして、宿唖である。
この宿唖を発病させないためには、国民の意識と知識が不可欠である。
<注釈>
(※1)これは一寸単純化が過ぎるか。
3.民主主義vs独裁主義
さてかかる国民の不断の努力を必要とする民主主義に対し、独裁主義(或いは一党独裁体制としようか)はどうだろうか。
北朝鮮や中共を見れば自ずと判るとおりこれら(一党)独裁国家では、党やら主席様やらが神の如く正しい判断を下し、国民のためにあれこれ面倒なことも含めて決めてくれる、事になっている。
国民は何も考える必要も判断する必要もなく、党等のスローガンに従っていればよい。まさに「1984」の世界だ。
判断を下す決定機関たる党やら主席様やらが正しい判断を下し続ける限り、先述の「開発独裁」と同様、迅速な決定と行動が期待でき、常に時間のかかる民主主義国家では到底太刀打ちできないことになる・・・筈だ。
「筈だ」と言うのは、短期的には兎も角、長期間に渡っては、絶対にそうは成るまいと私が多寡を括っていることに依る。
理由の一つは、「独裁者は異論・異説を必要としない。」事である。
むしろ絶対権力を握ったりすると独裁者は、異論・異説を排する傾向にある。
これは、神ならぬ身の人の限界とも言えようが、大概の人間は自説に自信を持っているから異論・異説には耳が痛い。「何でも出来る」独裁者にしてみれば、また其れまでの自分の判断が正しければ正しいほど、自信・自尊心は強くなり、異論・異説は排しやすくなる。
こうなったらしめたもので、早晩独裁者は必ず誤判断をやらかし、その誤りは誰も正せないことになる。民主主義国家としては、勝機だ。
もう一つの理由は「絶対的な権力者と言えども全ての判断を実行できるわけではない。」事である。
何しろ全国民の全判断を背負わないことには完全な独裁体制は成り立たない。其れを優秀な(そしてそれ以上に巨大な)官僚組織なり党組織なりに権限委譲して分担するとしても、今度はその組織の意思統一が完全か、と言う問題になる。
これまた組織の綻びなり、分担の空隙なりが生じることになり、独裁体制には穴があく。
喩え判断や行動が遅くとも、民主主義側にも相応の勝機があると言うことだ。
4. 前進せよ、民主主義
翻って異論・異説を許容するが故に「意思統一に時間がかかる」民主主義国家の利点とは何だろう。
一つは「誤判断の少なさ。」が期待できる。
無論神ならぬ身の人が為すこと、誤りは避けられないが、複数の考え方の中から議論して浮かび上がる答えには、誤りは少ないと期待できる上、異論・異説の中からバックアッププランやコンティンジェンシープランと言った「上手く行かなかった場合の善後策」を選定できる可能性が高い。
もう一つには、「意思統一に時間がかかる」とは矛盾して聞こえるかも知れないが「臨機応変に優れる」事だろう。
これは説明が要るだろう。民主主義は異論・異説を許容し、方針を決定するのにその異論・異説との議論が必要になるから「意思統一に時間がかかる」のは確かだ。だが、各人・民主主義国の国民が、衆愚政治に堕す事なく自分の頭で考えた自論・自説を出す事が出来れば、当初計画に齟齬が生じた場合の応急策、或いは緊急策を、わざわざ国会なり最高司令部なり首領様なりに持ち込んでご指示を仰ぐことなく、低いレベルで決定し、実行することが出来る。
言い換えるならば、当初計画の設定には時間を要する民主主義国家の自由民が、即断即決の臨機応変にはかえって時間がかからないと考えられる。
「自ら考え、自ら戦う兵士こそ、長く、粘り強く戦えるのだ。」-「追跡者 犬鷲」-
「シッス」あるいは「シッシ」と言う言葉がフィンランドにはあるそうだ。意味するところは「自主独立・自律自存の気概」と言った意味らしい。
これあってこそ、大国ソ連の侵略を受けた「冬戦争」の際には、圧倒的な物量と兵力を誇るソ連軍相手に少数精鋭のシッス中隊で対抗。冬のフィンランドという大軍の活動には不向きな状況と地形を巧みに利用して、ソ連の大軍に大出血を強いたという。
民主主義国家の国民の強さを示したものと、言えないだろうか。
真の民主主義国家は最強である。
民主主義が、衆愚政治に堕していない限り。