古代ギリシャの都市国家スパルタとペルシャ帝国の戦いを描いた映画「300(Three Hundred)」は、珍しく公開当時から「一寸気になる」映画ではあった(*1)。何しろ題材が渋い。地中海世界最強を謳われたスパルタ軍が要害堅固の地テルモピュライ(*2)に立て篭もり、ペルシア帝国の大軍相手に一歩も引かずに頑張ったが・・・間道を知られて背後に回られ、それでも撤退せず、ついに全滅するまで戦い続けた史実を描いた映画とあっては、硫黄島やサイパン等の数多の玉砕を近い記憶に持つ(*3)日本人としては「アラモ(*4)」と同様、血が騒がずには居れまい。
 
<注釈>
(*1)どうも最近の映画は、いくら店頭で宣伝されても、買おうおとか見ようとか言う気にならない。
 「この人が出演/主演しているなら見よう」と思わせる役者が居なくなった性もある。
(*2)確か「門」と言う意味だったと思う。映画では「灼熱の門」と字幕に訳されていた。
(*3)何、近くに持つのはお前だけだと?
 Maybe, But it's not so PROBLEM.
 所詮芸術の価値は受け手が決定し、受け手しか決定できないのだ。この場合、受け手は他ならぬ私だ。
(*4)これもリメイクされたのは知っているが・・・ジョン・ウェイン主演・製作・監督の旧アラモを超えるアラモ映画を、人類が創れるとは私には思えなくて、未だ見ていない。


1.名物世界史教師

 思い起こせばギリシャだローマだシーザーだのの古代史は、我が校の名物講師に習ったので未だに覚えている。何しろ凄い先生で、教室に入ると最前列の生徒に「この間何処までやった?」とノートを確かめると、「そうか、なら此処からだ。」と、メモも何も見ずに1時限喋りっ放しの黒板使いまくりで講義する。それも圧倒的な情報量で古代世界を生き生きと描写してくれた。
 戦史は元から好きだったが、私が世界史選択者になったのは、この先生の影響が大きい。
 テルモピュライ、カンネー殲滅戦、宋襄の仁、果てはクレオパトラから楊貴妃まで、皆この先生に習って未だに覚えている。
 
2. 映画「300」の映像美

 その映画「300」がDVD化されて安くなっているのは大分前からだ。定価で1500円。店によっては1200円を切る。
 重かった腰をようやく上げて、先日これの購入に踏み切った。
 
 買った、観た、泣いた。
 
 店頭宣伝でCGやスローモーションを多用した戦闘シーンである事は知っていた。最近の映画によくある、視点を目まぐるしく動かしながらストップモーション・スローモーション(*1)を入れる撮り方で、白兵戦を絵巻物のように美しく見せてくれる。
 
 スパルタ軍は冑を被り大楯を持つものの、マントの下はパンツだけの半裸体。「筋骨隆々」を絵に描いたような身体に投槍兼ねた槍(Spear)と剣を持ち、右手の槍と左手の楯で、槍で突くわ楯で殴るわ捌くわ、縦横無尽の活躍を見せる。
 さらには、密集隊形では文字通り一糸乱れぬ美事な動きを見せ、「楯は陣形を守るものだから、槍を失うよりも楯を失うほうが罪は重い」とされた事を思い出させる。映画の中でも「楯は左側の戦友を守るもの。」と言うレオニダス王の言葉がある。
 対するペルシア軍は、王の親衛隊「不死隊」は銀仮面を被った忍者だったり、騎兵や戦象(*2)、戦犀からはては「擲弾兵」まで登場して、なかなか楽しませてくれる。
 
 勿論、私が「泣いた」のは、いかに美しいとはいえこれら戦闘シーンではない(*3)。
 ペルシア帝国は大国の経済力・贈賄でスパルタの神官も議会も買収して、レオニダス王が正式に軍を動かせないようにする。これに対してレオニダス王は「個人的護衛」300名の精兵を引き連れ、死地テルモピュライへ「散歩」に出る。
 
 「俺の願いは、世界最強の軍と戦う事だ。
 どうやらそれが、適いそうだ。」
 
 10万と号する圧倒的な兵力と、「スパルタを歴史から抹殺してやる。」と傲岸不遜にも宣言するペルシャ帝国は、今の中国か「White Pacific」を掲げていた頃のアメリカ、或いは白人至上主義が当たり前であった頃(*4)の西欧列強と重なるし、これにわずか300の兵力を以って全滅覚悟で対峙するスパルタは、我が日本と重なる。
 
 この300の精兵を率いるレオニダス王最後の命令が「忘れるな。」である事も含めて。
 
 テルモピュライを「硫黄島の、御先祖様というと語弊があるから、大先達」と私が評する所以である。
 
  尤も、300対10万じゃ、「一人十殺を厳守(*5)」しても到底間に合わないが。
 
<注釈>
(*1)このスローモーションの使い方は、サム・ペキンバー監督の影響ではなかろうか。「戦争のはらわた」を思わせる。
(*2)考えてみれば、我等のご先祖様は石斧・石槍と知恵でマンモスと戦っていたのだ。何の戦象如きに、負けるものか。
(*3)私には、そんな趣味はない。
(*4)さほど昔ではない。
(*5)硫黄島守備隊に出された命令。
 結果としてこの命令は守れなかった訳だが、守ろうとする日本軍の超人的努力の結果、「太平洋戦争後半で、米側の死傷者数が日本側を上回った唯一の戦い」となった。

3. 古代映画の「現代語訳」

 古代を描いた映画としては、少々古い映画だがローマ帝国時代の戦闘奴隷よる反乱を描いた「スパルタカス」が思い出される。カーク・ダグラス(*1)主演のこの歴史スペクタクルも、「300」もそうだが、少々「現代語訳」が過ぎるようには思われる。
 「現代語訳」というのは、現代的な解釈と言うか、現在の価値観を敷衍・強制しすぎる嫌いがあるように思われる。
 「スパルタカス」で言えば「奴隷制度廃止」。この映画はローマ帝国において、見世物としての決闘を戦う奴隷・剣闘士の反乱を描いたもので、この反乱を指揮する主人公スパルタカスはその奴隷=剣闘士である。従って彼が奴隷制度廃止の先駆者と見るのは必ずしも間違いではなかろうが・・・「奴隷制度廃止を夢見ていた。」と断じるのは少々飛躍が過ぎる。映画の中で描かれていたように、「文字も読めない」とあってはなおさらだ。ラストの「自分の息子は奴隷ではない自由民である。」と言う事態は、喜ぶだろうけれど。
 「300」の場合は圧制を極めるペルシア帝国に対する「自由な」スパルタと言う「圧制者対自由民」と言う図式が「現代語訳」過ぎる。ジュネーブ条約なんて成立する遥か以前のこの頃の戦争では、戦時捕虜は奴隷にされるのが通り相場。民主主義の大先達であるスパルタにもアテネにも、相応の奴隷が居たのは間違いないのだ。
 即ち、古代ギリシャの民主主義には、自ずと限界があるのは致し方ない。
 何しろ、人種差別が「悪い事」と言うコンセサンスが出来たのはついこの間、まず戦後米国の公民権運動を待たねばならないのだから。古代スパルタに「民主主義と奴隷制が併存した。」と批難するのは筋違いと言うものだろう。
 とは言え、スパルタのレオニダス王は自由民の先頭に立って共に戦い、共に倒れる王。対するペルシアのクセルクセス王は多数の奴隷にかしずかれ、その権威で雲霞の如き大軍を前線に投じる王。「圧政者対自由民」と言う図式がなくとも、いずれが支持されるべきかは明らかだ。
 
 臨兵闘者皆陣列在前(リンピョウトウシャカイジンレツザイゼン)
 (兵と闘に臨む者は、皆陣列の前に在るべし)

<注釈>
(*1)マイケル・ダグラスの親父。親子そっくり。マイケル・ダグラスももういい加減おっさんと言うより爺さんに近くなったから、いかに古い映画か、だ。

4.「旅人よ、或いは風よ。・・・

 史実どおり映画「300」のレオニダス王も、ペルシアの大軍に包囲され、部下ともども全滅する。片目を失ったために伝令として脱出させた一人の兵士を唯一の生き残りとして。
 
 「今宵、我等の宴は地獄で行う!」
 
 映画では、レオニダス王渾身の投槍(*1)が、クセルクセス王の身体に手傷を負わせるが、そこまで。
 
 レオニダス王とその精兵300はテルモピュライに全滅する。
 
 彼らはテルモピュライに滅び、その肉体は塵と化し、その魂が何処にあるか、私のような不信心者には杳として知れない。
 だが、明らかな事は、彼らの名はペルシア王の宣言にもかかわらず、はっきりと歴史に残り、21世紀の極東の島国で、スパルタともペルシアとも縁も縁もない一日本人を、涙せしめるだけの影響力をいまだ保っている。
 「覚えている者が居る限り、肉体は滅んでも死ではない。」とするならば、レオニダス王とその精兵300は、紛れもなく未だ生き続けているのである。
 
 「命を惜しむな、
  名こそ惜しめ。」
 
「旅人よ、或いは風よ。
 行きてラケダイモーンの国人に伝えよ。
 御身らの掟のままに、
 我等此処に死にきと。」(*2)
 
<注釈>
(*1)投槍と言うのは日本ではあまり普及しなかった武器で、それもあってか日本でのイメージは余り宜しくない。
 日本の槍は突くまたは叩く物であって、投げる物ではない。
 長弓や弩弓ともども投槍が普及しなかったのは、国土が山がちで平地が狭く、密集隊形なんて滅多に組めなかった、からだろうか。
 その割には鉄砲の普及はすさまじい勢いなんだが。
(*2)これは、レオニダス王最後の戦いを描いた歌劇の台詞を引用したもの。レオニダス王最期の台詞。また、統治に建てられている記念碑に刻まれた弔辞でもある。