八千代市郷土博物館にいった帰りに、以前より訪れたいと思っていた、八千代市村上にある七百餘所神社(しちひゃくよじんじゃ)に寄ってみた。
2021年8月19日参拝
読めないこの神社は、文明11年(1479)太田道灌が同市萱田飯綱神社に布陣して、米本城を攻略した際、犠牲になったものと考える。
犠牲者、その数700余。ここから、名前の由来がきている。
この事で、神社の名称が変更になったのではないかと考えられる。
ちなみに、現住所の村上は、米本城の城主の村上氏に由来する。
口伝では、創建は鎌倉時代。弘安年間(1278〜1288)に創建と伝わる。
しかし、何度か火災などがあったらしく、現在年代の確認できる一番古い物は、神楽で使う羯鼓で、天正11年(1583)に制作されたとの墨で書かれたものである。 八千代市では、村上神楽の起源に関わるものとして、考えられている。
この羯鼓は、現在、八千代市郷土博物館の企画展示で見る事ができる。
私が昔からあったのではないかと、考える理由
①八千代ふるさと50景に選ばれている。こちらの参道のけやきが、大きいもので、樹齢250年を超えた大木である事。車2台が普通に通る事のできる広い参道。
広い参道が必要なほど、参拝者の多い特別な社だったのではないか?
②平安時代、この辺りは、印旛郡に属していた。
平安時代に書かれた「和名称」の中に、「村神郷」との名がある。村上の「七百余所神社」の事で、村神=群神 ではないかと、考えられている。
土地神様が祀られていた可能性も考えられる。
祭神は、国常立尊。
敷地内に七百余所神社古墳がある。
直径20m 高さ3mの円墳である。
現在、壊されてしまっているが、村上には多くの古墳が存在していた。
いくつか、郷土資料博物館にて、発掘調査の様子や石室の復元などがある。
そう言えば、お社の周りに土塁がありまして、米本城のものかなぁと思ったのですが、米本城とは、距離があり、わざわざこのお社の周りを土塁で囲ったようでした。
この辺りは、出羽三山構が盛んらしく、多くの出羽三山の碑を見る事ができた。
他の方のブログによると、多くの石碑の中に、戦で亡くなられた700人のお墓があるらしい。
もし、次回行くことがあれば、手をあわせておきたい。
ちなみに、御朱印は無しとの事