
令和2年12月1日 里宮参拝
令和3年2月1日 本宮・奥宮参拝
筑波山と加波山の丁度真ん中にある足尾山にいってきた。
ここの山も、山岳信仰の山で、標高627mの山頂に鎮座しております。
足尾山は、古くは万葉集に詠まれた由緒あるお山です。
『万葉集より』
筑波嶺に背向(そがひ)に見ゆる葦穂山(あしほやま)悪しかる咎(とが)もさね見えなくに
と詠まれております。
また、常陸国風土記の新治郡の条にも、
郡(こほり)より東五十里に笠間の村あり。越え通ふ道路(みち)を葦穂山と称(い)ふ。
という記載があり、葦穂山が現在の足尾山を指すと言うのが、通説である。
(異説として、古代の葦穂山は現在笠間市にある「鍬柄山」(276m)との説もある)
旧八郷町(石岡市)に葦穂の地名が残っていました![]()
「足尾」という文字が使われたのは、平安時代頃からで、「足」という文字から、足の神様が鎮座する山と信仰されてきました。
石岡市(旧八郷町)にある一の鳥居
本来ならば、ここから登っていく。
2/1は、朝に雪が降ったらしく、ノーマルタイヤで、山道を行くと言うかなり、スリリングな参拝でした
この辺では、雪はほとんど降らないが、山は、あまく見ちゃダメだなと改めて、思う事件でした。
まず、最初にお邪魔したのが、里宮です。
面白い絵馬を見つけました。
競輪の絵馬です。 流石、足の神様ならでは、ですね。
その日の内に、本宮に行く予定だったので、登拝と書いて頂いたのに、あちこち回ってたら、時間が足らず断念
コロナ等、色々あり、本宮参拝まで、2ヶ月もかかってしまいました
本宮入口
他では、見ない光景です
本宮参拝
この辺りの伝承に基づき、絵柄は、天狗が彫られています。

加波山や愛宕山など、この辺りの山々には、天狗が住んでいたとされています。
いざ、奥宮へ
自然に空いた穴なんでしょうか?
古銭が中に入っていました。
神社のHPを見ても、天狗に関しては、書かれていませんでした。
修験道の霊山、修行場だったとあり、それが天狗伝承に繋がったと考えられる。
明治初年の神仏分離以前は山麓の大岩寺という寺院が維持管理をしていました。
大岩寺がしばしば火災に遭い、記録類一切を失ってしまったので、創建年代は明らかではありません。
社伝によれば、第60代の主上、醍醐天皇が御足痛に苦しみなさった時、夢に足尾の神が現れたので、遠く足尾の山を遥拝なさったところ、たちまち快癒なさったとのことです。御足痛の全快を喜ばれた醍醐天皇は、紙に御足型を印し、「日本最初足尾神社」の勅額を下賜されましたが、その勅額が野火により消失。
寛正5年(1464 ・室町時代)6月、御所へ再下賜を頗い出たところ、再び勅額と菊桐入り喇石の下賜があったと伝えられています。当時の御立会・井関大蔵卿外4名の令旨書を足尾山別当が代々伝えてきましたが、神仏分離の混乱期に散逸してしまいました。
文治の初め(1185)ごろ、源義経の家臣、常陸坊海尊がこの山に籠もり、杉室(山頂より石岡市側に1キロほど下る)で荒行して以来、足尾山は「足尾山大権現」の名のもとに修験道の霊山・修行道場として広く知られるようになりました。当山で修行した行者・修験者が諸国を行脚しながら、足尾神社が足病消陰に効験ありとする神徳を全国に広め、それにより足の諸病に悩む崇敬者の参詣がにわかに多くなりました。
そのころから醍醐天皇がお寄せになった足形に因む「足形の御影(みえい)」と称する手形・足形の御神札を参詣者に頒布しています。
(この写真を見てから、御影が欲しくてたまらない私です。)
また、当社の神の御加護により足痛;遅病から解放された信者や足の保全・鍛錬を祈願する信者が鉄・銅製の草鞋(わらじ)・草履を奉納する風習があり、一時は奉納殿に山と積まれていましたが、戦後の金偏景気の際に盗難に遭い、今は靴・スニーカー・サンダル等の奉納に形を変えて絶えることなく続いています。
ちなみに、延喜式内社の茨城郡3座の1つ夷針神社との説がある。 夷針神社は、論社が多く正式な場所は、不明である。
しかし、この神社は醍醐天皇の名からして、古くからある名節古社である事は間違いない。
(延喜は、醍醐天皇の御世の元号)
御朱印代 300円
何故、茨城県の延喜式内社は、天津神がほとんどなんだろうか? 摩訶不思議



















