茨城県龍ケ崎市にある八坂神社さんです。
実は、龍ケ崎って、江戸時代は、仙台藩領だったんです。
河内郡、信太郡と結構な広さを持っていました。
霞ヶ浦から、米を江戸に出荷し、霞ヶ浦の港は、仙台河岸と呼ばれ賑わったそうです。
龍ケ崎は、仙台藩の陣屋が設けられた場所でした。
実は、こちらの神社に仙台藩領と彫られた石柱があったそうなんですが、全く気が付きませんでした
ずんぐりしています。表情が人間ぽい…
ご由緒
当神社は源頼朝の家臣下河辺政義(しもこうべまさよし)公が、文治2年(1186年)に領地龍ヶ崎市貝原塚の領民を引き連れ、沼沢の地であった根町を干拓した際に、貝原塚の鎮守神社である八坂大神の分御霊を祀ったのが草創と伝えられます。
下河辺氏は現竜ケ崎一高の台地を城となし、龍ヶ崎氏とも称されて250年余りこの地を治めておりましたが、永亨、嘉吉の乱にて足利持氏方につき、結城合戦にて滅亡し、代わって信太郡信太庄の地頭職であった土岐原秀成の治めるところとなりました。
現竜ケ崎二高の台地を城となした子孫の土岐胤倫(たねとも)公は、龍ヶ崎第二次干拓を行い、誕生した良地の上町の当地に天正五年(1577年)に根町より八坂神社を遷し祀り現在に至っております。関東三奇祭の一つと言われる当社祇園祭りの神事「撞舞」(つくまい)はその頃より行われていると伝えられております。
下河辺氏は現竜ケ崎一高の台地を城となし、龍ヶ崎氏とも称されて250年余りこの地を治めておりましたが、永亨、嘉吉の乱にて足利持氏方につき、結城合戦にて滅亡し、代わって信太郡信太庄の地頭職であった土岐原秀成の治めるところとなりました。
現竜ケ崎二高の台地を城となした子孫の土岐胤倫(たねとも)公は、龍ヶ崎第二次干拓を行い、誕生した良地の上町の当地に天正五年(1577年)に根町より八坂神社を遷し祀り現在に至っております。関東三奇祭の一つと言われる当社祇園祭りの神事「撞舞」(つくまい)はその頃より行われていると伝えられております。
「撞舞」国選択無形民俗文化財。
江戸時代末期に書かれた赤松宗旦作『利根川図誌』にも撞舞についての記述がある。
赤松宗旦 龍ケ崎市のお隣、北相馬郡利根町の医者であった。
『利根川図誌』は、銚子から古河までの各地の名所・旧跡・名産品・風土・風習などを多数の挿絵と共に紹介している。
この辺りの歴史を知る上で、貴重な資料である。
現在、布川神社では「撞舞」は行われていない。
明治頃までやっていたそうだが、途絶えてしまっている。
龍ケ崎市の歴史民俗資料館では、利根川図誌の「撞舞」を資料としているので、参考にさせて頂きましたm(__)m
仙台藩領の石柱を見逃したのが、すんごい悔しい
次も、龍ケ崎市、伊達氏縁の神社さんです