現在の小田原城の地図です。
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そして、江戸時代の小田原城の地図
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同じ方向に向けると、違いが良くわかります。
水堀が無くなっています。


報徳二宮神社さんは、ちょうど小峯曲輪の部分になります。
こちらの神社さんの詳細は、また後程爆笑
南曲輪方面より、報徳二宮神社さんへ行くと…

空堀の跡がしっかり残っていました爆笑
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現在、発掘調査中で入れない御用米曲輪方向から、常盤木門を望む

今は、水がありませんが、本来は、この場所は、水堀でした。  地図を比べて頂くとわかりやすいと思います。
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常盤木門は、ちょっとした展示室になっていまして、現在は「武者揃え」展を開催していました。
なかなか、見応えがありました。 
もうちょい、安ければ良いのになぁと…ショボーン
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ちなみに、最初に小田原城に来た時は、常盤木門をくぐると動物園になっていまして、象がいた思い出が…びっくり    
天守閣は、単なる小田原の博物館状態で、がっかりした記憶がありますショボーン

御用米曲輪
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整備中となっているので、近いうちに元に近い状態に整備してくれるようです。
出来上がったら、また見に行きたいですねニコニコ 

南曲輪
右手の石垣部分が曲輪になります。
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かつての情景
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弁財天曲輪
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かつての情景。
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弁財天曲輪というからには、何処かに弁財天があると思うのですが、今回は、見つけられず…。
現、町名も弁天町なので、何処かにあると思われます。

三の丸元蔵跡
現在の地図の朝丘高校の斜め向かい、線路よりにあった、小田原城案内板
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三の丸は、線路を完全に跨いでいますねガーン
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これからの発掘に期待大ですキラキラ



強固な守りを誇った小田原城ですが、豊臣秀吉率いる大部隊の前に敗北します。
その配陣がこちら
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水陸両方から、攻められたのです。
海上の左側、九鬼嘉隆の軍は、鉄甲船という木の船に鉄板を張り付けた船で、世界的にも相当な技術であったようで、鉄甲船に乗ったポルトガル人が肝を潰したとの記述が残っている。

九鬼家は、関ヶ原の戦いの際、西軍に着いた為、鉄甲船を危険視した家康により、海の無い国へ配置換えとなった。
これにより、技術は完全に廃れてしまい、黒船襲来時に、大騒ぎとなってしまう。

この時の技術がずっと生きていたなら、日本は、変わっていたかも、知れませんニコニコ

一夜城(石垣山城)は、近いのかなぁと思ったら、小田原城がかなりの規模だったので、駅2つ分くらい離れていますあせる