散歩してて、たまたま見つけた神社だったのですが、摂社の方に石仏やら、狛牛は居るわで、不思議に思いました


寛仁・長元(1017〜37)年頃に、領主であった城所氏が、館を築造した際、屋敷神として歓請し祀ったものであると言う。
城所氏は、伊勢原に居を構える糟屋氏より分家して、この辺りに城を構え、守護神として祀ったとされる。
この辺りは、当時沼地であった為、その水源の地に鎮座した『谷の龍神』『水の神』として、村人に崇敬されたと言う。
現在の祭神は、
タカオカミノカミとクラオカミノカミ である。
元々は、もっと山の上の方に鎮座していた様だが、戦時中、砲台設置の為、現在の位置に移動したそうだ。
摂社『城所三面大荒神社』
『吾妻鏡』によると、1192年(建久3年)8月9日、源頼朝は相模国の神社仏閣27ヶ所に妻北条政子の御産加持の命を出した。
貴船神社の三面大荒神は、その一つの常蘇寺の観音堂に祀られていたという。
しかし、生まれた子が夜泣きをして止まないので、三面荒神に祈願したところ、たちまちに泣き止んだという。以後、「泣き荒神」と呼ばれ、「夜泣きの神」として祀られるようになったという。
『吾妻鏡』に記述からいって、このとき生まれたのは、のちの三代将軍実朝。
貴船神社の三面大荒神は、その一つの常蘇寺の観音堂に祀られていたという。
しかし、生まれた子が夜泣きをして止まないので、三面荒神に祈願したところ、たちまちに泣き止んだという。以後、「泣き荒神」と呼ばれ、「夜泣きの神」として祀られるようになったという。
『吾妻鏡』に記述からいって、このとき生まれたのは、のちの三代将軍実朝。
拝殿 右前にいる牛の像。
狛牛じゃなかった

ちなみに、この牛。関東大震災の際、行方不明となり、翌年より疫病が村に流行り出したと言う。
捜しても見つからないので、おきぬさんという祈祷師に見てもらうと、お告げのあった場所から牛が掘り出され、三面大荒神に納めました。
すると疫病は、ピタリと止んだそうです。
牛の像には、霊験あらたかな霊性が込められているとの事でした。
関東大震災は、東京は死者の人数は多いものの、火災による被害で、純粋な災害による人的被害は、神奈川県の方が多いのです。
山津波や土砂災害、液状化など、神奈川県は甚大な被害がありました。
元々、水が湧く柔らかな地盤にあった神社です。
ここにも、山津波の様なものがあったのかも知れません。
とても、人間が持てそうにない大きさの牛の像です。
疫病が流行った事を考えるとそういった震災による二次災害が、あった可能性が考えられます
たまたま、寄った神社だったのですが、調べてみたら、なかなか内容の濃い、すごい神社でした
全てが、本当かどうかわかりませんが、神社には、知られざる歴史が沢山埋まって面白いですね〜





