義母との待ち合わせ時間まで、かなり時間があったので、史跡巡りでもしようかと思って、伊勢原市のHPを見ていたら…
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というのを見つけました。

ちょうど、いいじゃん音符と伊勢原市立中央公民館へおねがい

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とても、濃い内容の分厚い資料を頂きましたカナヘイきらきら

1階は、大山関係の展示。
阿夫利神社の昔のお札とか、観光案内のパンフとか、かなり熱いものがありました気合いピスケ

3階は、発掘関係の展示。
縄文〜奈良くらいまでの出土品の展示でした。
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資料で、面白いと思ったのは煙突を持つカマド。
縄文の家は、竪穴式住居なので、煙が外に出る様に、土器を製作する場所の隣に、土器を重ね合わせ煙突を作り煙を出していたそうですびっくり

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子易・大坪遺跡の石棺状配石。
石棺状配石は、縄文人のお墓や祭祀場の可能性が高いです。

子易には、延喜式内論社の比比多神社(子易大明神)があります。
祭祀遺跡だと、考えると式内社論争が面白いです。

三ノ宮にある比々多神社は、神社の裏手に祭祀遺跡があった事から、有力とされてきました。

子易は、大山道途中にあり、大山が祭神とされる比々多神社は、三ノ宮の比々多神社よりも大山に近い位置にあります。
 
さて、どちらが、本来の延喜式内社なんでしょうか爆笑 


土器の底を見せて頂き、色々お話しを聞かせて頂きました。

この辺の土器は、網代を編んだものの上に底を作り上部分を作っていった形跡があるそうなんです。
縄文期に網代を編む技師があったという事がビックリですびっくり

しかし、奈良時代に入り須恵器の壺などを作る際、昔の技術は、忘れ去られ、多分葉っぱの上で、作っていただろうとの考え、ワザと葉っぱの模様を底に書いたりしたそうです。


来ていた、人達のレベルの高い事。
会話についていけねー大泣きうさぎ

でも、楽しかったよ〜てへぺろうさぎ