野田市の櫻木神社さん。
もう、冬桜が咲いていました

西暦851年に藤原冬嗣の三男、嗣良がこの地にやってきて、美しい桜の大木があり、その木の元に倉稲魂命を祀ったのが、縁起とされている。
拝殿
しかし、藤原冬嗣の家系(北家)には、嗣良の名はない

三男の名は、良方となっている。しかも、他の兄弟とは違い、何年に生まれて、死亡したのか不明である。
母は、百済王仁貞の女とあり、渡来系の人であった事がわかる。
渡来系の人達が、稲作の文化を伝えたわけで、倉稲魂命を祀ったというのは、自然の流れではないだろうか?
良方=嗣良として、東の地は、いわば左遷とも言える時代。
なぜ、この地に来なければならなかったのだろうか?
謎である。
もう一つ注目すべき点がある。
古墳時代の祭祀遺跡が見つかったとの内容が、書かれている。
つまり、藤原嗣良が来る前より、この地では、桜の大木をなんらかの形で、信仰していたという事になる。
嗣良が左遷された際、政治的な糸があり、土地神の信仰と倉稲魂命を融合させ、社を建てたと考えるのが、自然であると考える。
この地に稲作文化があったとされる遺跡が、櫻木神社より東へ300mほど行った所にある。
住宅地の中にある中根八幡前遺跡である。
そして、万葉早稲の碑。
この碑は、近隣の三郷市や流山市、式内論社の茂侶神社にもあり、何処が万葉集に歌われた葛飾郡の早稲なのかという問題は、あるもののこの辺りで、稲作が行われていたのは確かなようだ。
祓戸
櫻木神社内にも、祓戸など、昔の神社の様式が残っている。
神社西側の方にある石碑
大国様
御朱印、小さい

iPhone6の画面より小さかった。(9.2×6㎝)