醜い。醜い。醜い。


 森田ひかるは、お風呂上がりに洗面所の姿見で全身を確認する。正面から横から。そして絶望する。これが毎日のルーティーンだ。


 芸能界という華々しい場所に残り続けるには努力しかない。そして美しさの維持。「痩せ」に美徳を感じるようになり、もっと痩せなきゃと思うようになった。テレビに映ってるあの人は凄く細い。メンバーだって、私が横に並べないくらいシュッとしている。顔だって小さい。それが、とてつもなく羨ましかった。


 アイドルになってご飯が食べられなくなった。食べ物を見るだけでも気持ち悪くなってくる。あんなにカロリーの高そうなもの、到底食べられそうにない。でも、バラエティー番組とかでは頑張って食べるようにしていた。食べる収録が終わったあとは、楽屋には戻らずトイレに直行している。指を喉の奥に突っ込んで無理矢理吐く。いつの間にか手にはたこができていた。


 「ひぃちゃんなんか痩せた?」

 「そうかな」

 声を掛けてきたのは田村保乃。控え室でスマホを見ていて、たまたま隣だったのが保乃だった。

 「なんか顔色悪いよ。体調悪いの?大丈夫?」

 「大丈夫だよ」

 痩せた?って聞かれて内心喜んだ。だって痩せられているってことでしょう?


 仕事を終えて家に帰る。ちょうど夕ご飯の時間だが、もちろんご飯は食べない。水を飲むだけで太ると思い込んだ。そうすれば何も胃の中に入らなくなって、もっと痩せられるから。

 ベッドに仰向けになると、背骨1本が通じている気がする。大丈夫。順調に痩せられている。


 変化に気づいたのは、変化が現れ始めてだいぶ経った時だった。生理が来ない。最後に来たのはいつだったか思い出せないくらいだ。有難いことに忙しくさせてもらって、全然気にしていなかった。来ない方がダンスにも支障ないし。それと髪が抜ける量が増えた。櫛で梳かせば全体に髪の毛が絡みついていた。前よりも眠りにつくのに時間を要するようになった気がする。


 このことを冗談交じりで保乃に話してみた。すると保乃の顔はどんどん青褪めていった。

「ひぃちゃん、それ病気だよ」

「え?病気?ないない。私は元気だよ」

「病院行こう?」

「いやいいよ。行く時ないし」 

「だめ。おねがい。私も着いて行くから」

 涙目で訴えてきたから断れなかった。 


 いまいち納得できないまま、保乃に連れられて病院に来た。問診票に名前や症状を書き込んでいく。その間も保乃はずっと心配そうに私を見ていた。

 看護師さんに呼ばれて、血液検査をする。特に問題もないだろうと呑気に考えていた。

 

 しばらく待合室で待っていると、診察室に呼ばれた。

「森田ひかるさんですね」

「はい」

割と年配でベテランの先生が対応してくれた。

「生理が来ない。髪が抜ける、ねぇ。森田さん、ご飯は食べてますか?」

「ご飯…」

言葉に詰まってしまう。

「あ、あの、この子がご飯食べてるところ全然見ないんです」

横から先生に保乃が話しかける。

「それですね。血液検査の方をさせて頂きましたが、脱水や貧血、低タンパク血症などが確認出来ます。森田さんの体の状態は〝神経性やせ症〟つまり〝拒食症〟に当てはまります」

「はぁ」

言われてもあまりピンと来ない。

「では他の症状をお伝えしていきますので、当てはまっていたら教えてください」

「はい」

「食欲がなかったり、満腹感を感じないことはありますか?」

「よくあります。ほとんど毎日です。でも食べなくても生きていけるって思います」

「自分でも抑えられないくらい食べてしまったことがありますか?」

「1回だけ。手が止まらなくなってしまって。でもその後はちゃんと吐いたし、それで最後にしました」

「今まで続いていた時間より、集中出来る時間は減っていますか?」

「それはあまり感じないです」

「こだわりが強いですか?」

「かなり強いです。この仕事をしているのでこだわってやっている部分もあります」

「今の話を聞いている限り、間違いないですね」

「あの、先生、この子はどうしたら良いのでしょうか」

「では、拒食症についてお話ししますね」

「お願いします」

「拒食症というのは体重が増えることを恐れ、食べることを極端に少なくする病気です。ここまで酷い症状だと普通は入院を提案して、ゆっくり治療していきたい所なのですが、森田さんのお仕事上難しいと思います。森田さん、ご両親や親戚の方は近くにいらっしゃいますか?」

「いえ。実家は福岡なので」

「在宅で治療となると周りの方からのサポートが必須です。1人でやっても続かないことが多いので」

「じゃあ、私がやります」

保乃が名乗り出た。

「保乃…」

そんなことまでする必要ない、と言いたかった。

「私がしばらくこの子と一緒に暮らして、食事のサポートをしていきます」

「大丈夫ですか?相当大変だと思います。ご自身のメンタルが持たなくなってしまう可能性もあります。そういったことも理解した上で引き受けて頂けますか?」

「はい」


診察を終えて、看護師さんから治療の仕方について説明を受けた。忙しくても必ず外来に来ること。食事の管理は保乃がやること。

病院の帰り道、保乃に話しかけた。

「ごめん。変なこと押し付けちゃって」

「ひぃちゃんが良くなってくれるなら、保乃なんでもする。治るまではひぃちゃんの家に居てもいい?」

「うん」



拒食症の治療は一筋縄ではいかなかった。

保乃が栄養士の指示に従ったご飯を出してくれる。だけど、それが食べられなかった。食べなきゃいけないのに、食べたら太る。それは嫌だ。せっかくここまで痩せられたのに。

「ひぃちゃん、一口だけでいいから。食べて?お願い。お水だけでもいいよ」

「ごめん」

私は結局なにも手につけなくて、寝室に篭ってしまった。扉の向こうから保乃が誰かと話している声が聞こえた。

『森田ひかるなのですが、まだ食べてくれません。もうどうしたらいいか』

『はい。はい。わかりました。もう少し様子を見ます』

保乃には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。保乃の為にも食べなきゃいけないのに。



ある時、食べるストレスではなくて、食べないことを保乃に心配されるストレスの方が大きくなっていることに気づき始めた。


コンコンと部屋のドアがノックされる。

「ひぃちゃん、ご飯出来たよ。食べよう」

「食べない」

「入るね」

ドアノブが傾いて扉が開く。保乃は私の正面に座ってきた。

「栄養摂らないと、元気でないよ?」

「わかってる。わかってるよ…」

私は体育座りで俯いてしまった。

「今日はうどんだよ」

「食べなきゃいけないのはわかってるよ。でも、食べれないの!どう頑張っても出来ない!」

無意識に保乃の胸倉を掴んでしまった。

「もう、どうしたらいいか、わかんないよ!私はどうすればいいの!?…………あ、ごめん。違う。違うの保乃。ごめん」

手がすとんと膝の上に落ちていく。きつく当たってしまった事を反省した。保乃はなにも悪くないのに。悪いのは全部自分なのに他人に当たって。

保乃は黙ったまま私を抱きしめてくれた。その肩がだんだんと震えていく。

「ひぃちゃん、そうだよね。ひぃちゃんが一番辛いよね。本当のこと言ってくれて保乃嬉しい。ちゃんとカウンセリングにも行って頑張ってるのにね。明日、ちょうど病院だから、先生に相談してみようか」

「うん」


その日の夜は1つのベッドで一緒に寝た。泣き疲れてお互いすぐに眠りについた。



本音を口に出せたからこそ、自分も変わらなきゃいけないって思い始めた。このままじゃダメだって。保乃が悲しむ顔はもう見たくない。やらなきゃ。





朝ご飯を作るため、保乃はいつも早起きしてくれている。食べた試しなんて1度もないのに。毎日毎日。扉を開けて保乃のいるキッチンに向かう。

「保乃おはよう」

「ひぃちゃんおはよう」

昨日のことなんて無かったかのように、笑顔で接してくれる保乃はものすごく優しい子。

「保乃」

「ん〜?」

目玉焼きを焼きながら答える。

「私ご飯食べようかな」

「え?」

ジューッと香ばしい匂いをさせるフライパンから目を離して、振り返った。

「ほんとに?ほんとのほんと?」

「うん」

保乃の目がパッと明るくなるのがわかった。

「何が食べたい?今から作ろうか?」

「ううん。大丈夫。ヨーグルトだけでもいいかな?」

「もちろん!」

ダイニングテーブルの椅子に座って、向かいあわせで朝食を食べる。保乃のお皿には目玉焼きが2枚。誰かと一緒に食べるのなんて何ヶ月ぶりだろう。

「ひぃちゃんとまたご飯食べられて嬉しい」

「ごめん」

今まで散々酷いことをしてきたのを謝りたかった。

「なんで謝るの?これからも、美味しいもの食べようね」

「うん」



それから保乃や周りの人の支えがあって、少しずつご飯が食べられるようになった。

「保乃、ありがとう」

「ひぃちゃん頑張ったね」

よしよしと撫でてくれる手は今までで一番暖かかった。